『日本沈没2020』への酷評は妥当なのか 排外的な“日本スゴイ”への風刺を読み解く

wezzy

2020/8/3 07:00


 人気アニメーション監督・湯浅政明が、『DEVILMAN crybaby』に次いでNetflixで発表した、全10話のアニメシリーズ『日本沈没2020』。永井豪の漫画『デビルマン』同様に名作として知られる、SF小説界の巨匠である小松左京の代表作を基に、2020年、突然の大地震に襲われた日本で、都内在住のある家族たちが次々に生存の危機に瀕する様をオリジナルストーリーで描いていく人間ドラマだ。

原作小説のようなポリティカルサスペンスの要素が強い物語ではなく、一般市民の家族たちの目線から、日本が沈没するという大災害を描くのが本作の特徴。スケールの大きな題材と、過激な表現が可能なNetflixでの発表だけに話題を集めていた。しかし公開後、一部でかなり激烈な酷評や、反発を受けたことでも話題を呼び、賛否が分かれる作品ともなっている。

本シリーズ『日本沈没2020』は、果たしてそこまで酷評されるほどの問題がある作品だったのだろうか。ここでは、批判の出る理由も含めて、本シリーズの内容をもう一度振り返り、そこで何が描かれたのかをあらためて考えていきたい。
『日本沈没2020』の異様なストーリーが示すもの
 本作は、湯浅監督によるサイエンスSARU作品としては、これまでにないようなリアルなテイストのキャラクターデザインが印象的であるほか、大貫妙子&坂本龍一のアルバム『UTAU』(2010年)の楽曲「a life」を使用した水彩風の美しいオープニングアニメーションが素晴らしい。また、アニメーション以外に劇作、ドラマ、「笑点」などのバラエティ番組といった、幅広い仕事を手がけてきた吉高寿男が脚本を手がけているところに、独自性が感じられる。湯浅作品全般にいえるのは、このようにアニメの常識の枠に収まらず、より普遍的な感性が行き届いているという特徴である。

本シリーズのエピソードが進むたびにはっきりしていくのは、そんな特性をさらに強調するように、お決まりのイメージを覆して予想外の展開が続いていくということだ。

主人公である中学3年の女子・武藤歩(あゆむ)が、陸上選手として選抜チームの練習に参加している場面から、本作の物語は始まる。日本全体に起こった巨大な地震によって、競技場にいる歩たちのチームも被災。同年代のチームメイトが瓦礫に挟まれるなか、歩はパニックに陥り、ひとりで逃げ出してしまう。

この冒頭部分からすでに、本作の目論見が垣間見えてくる。通常のアニメーション作品であれば、主人公に感情移入させるため、献身的に仲間を助けようとする場面を用意するだろう。しかし歩は、視聴者の共感を呼ばない方向に向かってしまう。

後になって歩が自分の選択の意味に気づきショックを受けるシーンを用意することで、主人公としての存在意義を取り戻すことから、もちろん主人公に最低限のモラルを持たせなければいけないという意識はあるのだろう。だが、むしろここで見るべきは、脚本上のデメリットを受け入れてまで主人公にそのような行動をとらせたということである。

その意外性は、災害に対する日本人の反応についても同様である。日本のなかでは、「日本人は災害時でも規律正しく、自分勝手な行動をしない」というイメージを誇っているところがあるが、本作の劇中では、親切心で分け与えてくれたペットボトルの水をさりげなく全部奪ってしまう老人や、人種差別によって外国人を見捨てる国粋主義者、車に乗せて移動を助ける見返りに性的な行為を強要しようとする男が現れるなど、“親切な日本人”、“おもてなし精神”とは真逆の人々が登場するという皮肉な表現がある。

とくに災害に乗じてのレイプ事件は、東日本大震災においても実際に起こっている。日本人自身が誇っている、治安や親切心というのは、そのまま素直に受け取れない、どこかいかがわしい部分がある。この種の違和感・不信感をアニメーションで表現し、オリンピックイヤーになるはずだった2020年、ナルシシズムに高揚する空気のなか公開することは、強烈なインパクトを与えるはずだったのではないか。

不発弾が暗示する日本の問題
 また、重要な登場人物たちが次々とあっけなく、突発的な事態によってあっさりと死んでいくという展開にも、強烈な皮肉が含まれる。その情感の薄い、ある意味でシュールともいえるテイストは、視聴者によって唐突過ぎる印象を与えるかもしれない。

なかでも、とくに批判の対象になっているのが、ある登場人物が戦時中の不発弾の爆発によって、肉体が四散するというむごたらしい死を迎える場面であろう。災害とは無関係なシチュエーションで、さらに非常に確率が低いと感じられる状況で死んでしまうというのは、たしかにリアルなサバイバルサスペンス作としては、不条理過ぎるように思えるところがある。しかし、なぜわざわざそんな描写をしたのかという部分を、まず考えなければならないのではないだろうか。

本シリーズには、オリンピックやeスポーツ、有名ユーチューバーなどの時事的な要素をはじめ、新興宗教団体や右翼団体、ドラッグやヤクザ、さらには富士山や相撲の力士など、日本的な要素というのが、とにかく次々に現れては消えていく。つまり、それらの要素が物語に影響を及ぼしていくというよりは、地獄めぐりのように日本のイメージが通過していく趣向となっているのである。だから、それぞれの要素が組み合わさることで冴えた展開を迎えるという、よくある脚本づくりにはなっていないのだ。ここを取り違えると、「ガバガバな脚本」という決まり文句が飛びだすような評価になってしまうし、「小松左京に対する冒涜」という判断をくだしてしまうかもしれない。

もともと作家・小松左京は、『日本沈没』を起こり得るリアルな災害への警鐘として書いていたというよりは、日本の領土が無くなったとき、日本人は日本人でいられるのかという問いや、そこで露わになる日本という国の正体を描こうとしていたはずだ。その批評性というものを最も端的に表しているのが、いよいよ日本が沈没することが分かってきたとき、国内の有識者たちが集まって議論するなかで、「何もしない」という選択肢が出てくる場面である。この描写は、小松左京が日本人の本質というものを、本当に正確に見極めていることを示している。

小説の発表から40年ほど経ったいま、コロナ禍に際して、政府がまさにそんな様相を呈していることを思い出してほしい。十分な補償もなく自粛要請をするという姿勢や、「Go To トラベル」などの経済政策を優先しながら、そこから引き起こされる事態の責任を国民に押し付けようとしている。それはまさに『日本沈没』における、災禍に対しての「何もしない」の境地である。

日本は戦後、経済的な急成長を経験したが、本質的には戦中から何も変わっていないのではないか。このテーマは、TVドラマ化もされた小松左京の作品『戦争はなかった』で、よりはっきりと示されている。そのことを考えたときに、本作『日本沈没2020』に登場する、戦中からずっと地中に潜み、ついに爆発することになった不発弾というのは、まさに日本人が先送りしていた問題が顕在化したという象徴的な描写ではないのか。つまり本作のように、日本をあらためて振り返るというコンセプトの作品において、歴史的な日本人の心性というものを表現するのは、一つの義務であったように感じられるのだ。

さらに、大麻の栽培や、縄文文化を尊ぶような日本の始祖的なイメージを崇めるカルト宗教の存在というのもまた、日本の政治の中枢の風刺のように受け取れ、その過激な印象は、実写やアニメーションを含め、近年の日本のエンターテインメントのなかではなかなか得られなかったものである。

このような問題、ひとつひとつを風刺的に見せていくというのが、本作の裏にある意図であり、行間を楽しめる部分なのである。劇中では、差別的な団体が爆発炎上し、鳥とサメ両方に食われる人物が出てきたりと、だんだんと人の死の描写にユーモアが含まれていることを隠さなくなっていく。このような本作の、アニメーションならではの表現をどう捉えるのかによって、その評価は変わるはずだ。

『日本沈没2020』は“反日作品”か
 本作で最もシリアスな箇所は、主人公一家の母親がフィリピン国籍という設定である。日本は、他国に比べて移民を受け入れず、入国管理局での外国人に対する人権侵害が問題になっている国でもある。そんななか、劇中で差別される外国人のいる家族が、新たな日本の希望として描かれるのだ。

“××ファースト”といわれる、その土地でのマジョリティを優先し、同時に排外的な思想を含む行政の概念のなかで、はじき出される外国人たち。だが、外国人が日本に滞在していたり、居住しているとき、その人々もまた、日本を構成する一部なのではないのか。劇中では、他にも外国人たちが登場し、周囲の人々と同じように生きることを求め、ときに協力しながら危機を脱していく。人間を属性で分断する姿勢をとらないからこそ、本作の人々は前に進めるのである。

またさらに一家の母親が、2013年に大地震が起こり、津波で多くの被害者が生まれてしまったセブ島出身というのも意味深いところがある。災害は世界中で起きている。そのとき、日本人が現地で差別され、生きる手段を奪われたとしても、「××ファースト」ならば当然と割り切れるだろうか。

今回、本シリーズに寄せられた批判のなかで看過できないのは、制作サイドに外国人、もしくは外国にルーツを持つ人物がいることを指摘し、劇中の日本の問題を見せていく趣向に対して、“反日”だとする陰謀論を唱えるというものだ。制作スタジオでは、それ以前から外国にルーツを持つスタッフが複数在籍して数々の作品にかかわっており、今回だけそのような意図を反映させているとは考えづらい。むしろそのような環境は、作品に多様な視点を与えることにつながり、良い影響を与えているはずだ。

このような批判をする人々こそが、まさに劇中で家族を差別していた者たちと同じような心性を持っていて、本作が指摘する問題が実際に日本に存在していることの、生きた証明となっている。

小松左京は、『日本沈没』の内容を“第一部”だとして、日本という国土が無くなったとき、日本人はどうなるのかという内容を、“第二部”で扱おうとしていた。残念ながら完成には至らなかったが、本シリーズ『日本沈没2020』では、最終話にて、そこに一定の答えを出している。

最終話では、沈む前の日本の情景が、静止画によって次々に示されていく。日本の美とされる伝統的な風習や、経済的繁栄と公害を生み出す工場群、成人映画の劇場などが確認できる。それは、魅力や問題が混在する、現実の日本そのものである。そして、それらがすべて海中に沈んだときに残るのは、それを記憶し伝えていく人間である。つまりここで示される「国家」とは、『大いなる幻影』(1937年)で描かれたように、人間の概念のなかにしか存在しないものであり、逆にそれがありさえすれば、国家というものは存続できるという結論へと辿り着く。

筆者個人の意見としては、そこまでして国家を存続させることはないし、多様な概念を持つ方が、より進歩的なのではないかという考えに至った。しかし、国家が人間の概念によって作られているのであれば、それを理想に変えていくことは、じつは思ったより簡単なことなのではないか。本シリーズから、そんな希望が与えられるのである。
クオリティ面での不満
 一方で本シリーズや、近い時期に制作されていたTVシリーズ『映像研には手を出すな!』(NHK)には、中盤で作品の品質が著しく落ちている箇所が見受けられる。この点に関しての批判は、その多くが真っ当なものなのではないだろうか。

限られたリソースを、第1話や最終話などに集中させることで、作品全体の印象を強めるというのは、他の多くのアニメーション作品にも見られる演出手法である。しかし、それが本シリーズでは相当に顕著で、力の入ってないシーンではスカスカなヴィジュアルが多くなってしまっているのは事実であろう。このあたりは、スケジュール策定やスタジオの制作能力のマネージメント部分での失敗であると感じられる。

本シリーズは、前述したように、普遍的な感覚を持ちながら、これまでにないような語り口で描かれた意欲作である。日本のアニメーション作品のなかでも、優先して見たい部類のものであることは間違いない。だからこそ、それを支える部分にも期待したいところだ。

(小野寺系)

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