あの駅には何がある? 第24回 舟運から鉄道へ……時代を駆け抜けた要衝地 中書島駅(京阪本線・宇治線)


2019年の1年間に日本を訪れた外国人観光客は約3,188万人におよび、史上最多を記録した。2020年は東京五輪の開催が控え、さらなる訪日外国人観光客の増加が予想されていた。しかし、年明け早々から新型コロナウイルスが蔓延。感染拡大を食い止めるべく、政府は海外からの入国者を大幅に制限した。その結果、訪日外国人観光客はほぼゼロになった。

入国制限前まで、東京と並び訪日外国人観光客から人気を二分していたのが古の都として人気を誇る京都だ。京都市は、京都駅を中心にあちこちに有名寺院が点在する。それらを駆け足で見ても、すべてを1日で見て回ることはできない。訪日外国人観光客の姿が京都から一斉に消えたが、そうした社会情勢の変化で街が盛衰を経ることは長い歴史の中でも繰り返されてきた。

観光都市・京都は"京都"と大まかにくくられる。しかし、細かく見れば栄華を誇った街が、いまは静かな住宅地へと変貌していることもある。京都駅は京都市の中心部に立地している。しかし、京都駅が京都の中心部と認識されるようになるのは、鉄道開業以降のことだ。鉄道が敷設される以前は違った。

京都駅は京都の片隅にあり、京都のにぎわいは別のエリアにあった。なぜなら、京都の中心部に鉄道が入り込むことはできず、スペース的な余裕は市の中心部になかった。なにより、鉄道開業以前の京都は舟運が頼りだった。京都市は海に面していない。それにも関わらず、京都が舟運を頼りにしていたのは商都として経済発展する大坂と淀川によって結ばれていたからだ。

淀川という大河により、多くの物資が大坂から京都へと運ばれてくる。京都側の窓口を担ったのが、京都駅よりさらに南にある伏見だった。物流の要衝地でもある伏見には、河川港が築かれた。しかし、豊臣秀吉の治世下までは、伏見から京都中心部まで陸路で物が運ぶしか手段がなかった。船で大量に運ばれてきた物資は、伏見から陸路へと変わることで物流量を大きく減らした。

物流量の減少は、京都の経済・生活を揺るがす。京都という都市を成り立たせるには、物流の安定は政治的かつ経済的な至上命題でもあった。豊臣から政権を奪取した徳川も京都の安定的な物流に腐心したが、物流のボトルネック解消に乗り出したのは京都の豪商・角倉了以と息子の素庵だった。角倉親子は高瀬川を開削。この開削工事によって、伏見港と京都中心部は河川でつながった。

大型船から小型船へ荷物を積み替える一手間はかかるものの、高瀬川の開削は物流を大きく変えるターニングポイントでもあった。こうした功績から、高瀬川畔には角倉了以・素庵親子を讃える記念碑がひっそりと建立されている。高瀬川の開削により伏見港が物流拠点として重要な地位を築き、伏見港から近い中書島には荷役作業を担う港湾労働者、商人などが集まるようになる。こうして中書島の街は活気に満ち溢れた。

幕末のヒーローとして人気が高い坂本龍馬は、中書島駅の近くにある寺田屋に逗留。その際に襲撃された。龍馬は辛くも難を逃れたが、事件現場となった寺田屋は歴史ファンから観光名所のような扱いを受けた。近年、歴史学者や郷土史家たちの検証により、龍馬が逗留していた寺田屋は鳥羽・伏見の戦いで焼失したことが明らかになり、現在の寺田屋は隣地に再建された建物といわれる。それでも、寺田屋の建物は風情が漂い、中書島の栄華の一端を残している。寺田屋を一目見ようと訪れる歴史ファンは、いまだ絶えない。

1877年に開業した官営鉄道(現・東海道本線)は、淀川右岸を通った。しかも、旅客輸送がメインだったこともあり、鉄道の開業は舟運で栄華を築いた伏見港を脅かすほどではなかった。鉄道開業後も、中書島のにぎわいは衰えなかった。

しかし、1900年代に入ると事情は一変する。鉄道の有用性は多くの人が知ることになり、東京の財界人たちが淀川左岸にも鉄道計画を練り始める。淀川左岸に計画されたのは、当時としては最先端のテクノロジーだった電気で走る鉄道、いわゆる電車だった。汽車と比べて、電車は格段に優れた輸送機関だった。土木・電気の知識に長けていた渡邊嘉一、政治家の岡崎邦輔、さらに資本主義の父として活躍していた実業家の渋沢栄一が電車を開業させるべく奔走。多額の出資もした。こうして、1910年に京阪電気鉄道が開業。天満橋駅−五条(現・清水五条)駅間に電車が走った。

京阪の開業と同時に、伏見港の最寄駅として中書島駅が開設される。そして、1913年には支線となる宇治線が開業した。中書島駅は本線と宇治線の乗換駅になり、それに伴って駅の場所は少しだけ移動した。

本線と宇治線の乗換駅になったことで、中書島駅の重要性は高まった。同時に、駅周辺は利用者で溢れ、街も活性化すると期待は高まった。実際、日本初の路面電車として運行を開始した京都電気鉄道は、京都の中心部と伏見をつなぐ路線を建設。1914年に中書島駅前までを開業させた。そうした点からも、中書島が京都の期待を背負う地であったことが窺える。

京都電気鉄道は1917年に京都市電に買収される。買収後も京都市電として伏見と京都市中心部を結ぶ路線は大いに利用された。1970年に廃止されるまで、中書島駅前の京都市電は市民の足として親しまれた。

伏見を繁栄に導いた伏見港は、明治から戦前期まで重要な港として機能した。しかし、時代とともに貨物の取扱量は減少していき、機能を喪失した。そのため、1967年には港を埋め立てて公園化することが決定する。

現在、跡地は公園として整備され、往時の面影を残す三栖閘門も公園内に残されている。公園がオープンするよりも一足先の1962年に役割を終えた三栖閘門は、伏見港に入港した船が京都市内へ通船するために不可欠な施設だった。河川の水位を調整する三栖閘門は役割を終えた文化遺産として認められ、現在は防災・観光的な役割を担っている。

京阪の開業は、中書島のにぎわいを微妙に変化させた。にぎわいの中心は港に近い中書島付近だったが、京阪開業後は伏見城本丸跡地とされているあたりへ移った。伏見一帯は酒造りが盛んな地で、江戸時代から伝統を守る老舗の酒蔵が現在も酒造りを続けている。黄桜・月桂冠・宝酒造といった酒蔵は全国に名を轟かせ、一部を資料館・博物館として公開している酒蔵もある。酒蔵だけではなく、中書島駅から隣の伏見桃山駅までの間には歴史を感じさせる街並みが広がり、情緒のある佇まいが残っている。

伏見港からにぎわいが消失したことで、中書島駅は単なる乗換駅となり訴求力を失いつつある。それでも、2000年には特急停車駅に昇格するなど、中書島復権の兆しも見られる。今年、京阪と中書島駅は開業110年の節目を迎えた。京阪沿線どころか社会全体は大きく変わったが、中書島駅は伏見の玄関駅として静かにその役目を果たしている。

当記事はマイナビニュースの提供記事です。

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