本当の意味での「育ちの良さ」とは



「育ちが良い」と一言で言っても、それには2つの要素があると私は思います。

一つ目は教養的な面での育ちの良さ。

「箸の持ち方がきれい」「クラシックバレエを習っていた」「さまざまな分野に対して教養がある」「茶道の心得がある」「背筋がピンとしている」「食べ方がきれい」「言葉遣いが上品」「着物の着付けができる」などなど。

数を挙げればキリが御座いませんが、教養的な意味での育ちの良さというのはこういった「上流階級の嗜み」のようなところに現れるものでしょう。

そしてもう一つの「育ちの良さ」が人格面の育ちの良さ。

「人を妬まない」「公平で優しい」「気配りができる」「物腰が柔らかい」「感情が落ち着いている」「素直」「前向きでポジティブ」などなど。

残念ながら教養的な面での育ちの良さについて、私は何かを語ることはできません。幸か不幸か私の生まれた家は、付近にクラシックバレエ教室が立ち並ぶような街では御座いませんでした。

しかし人格面の育ちの良さについては、ほんのわずかでは御座いますが解説ができるかと思いますので皆さまにお伝えさせていただきます。

■育ちの良さは茶道の心得に出る訳ではない

私の想像もつかないような真の富豪階級の価値観は分かりませんが、一般的な価値観でいえば茶道ができるからといって、そのこと自体に魅力を感じる方はそこまで多くないでしょう。

京都旅行に行ったときにしか抹茶を飲まないような一般人にとって、茶道の心得があるかどうかなんて些細な問題でしかありません。

しかし、もしも知り合いの女性が茶道の心得があると知れば、その方に少なからず魅力を感じるのもまた間違いないでしょう。

これは一体なぜでしょうか。

茶道の心得があるということ自体は大した問題ではないのです。

それよりも、茶道の心得がある女性は、子どもの頃から親にきちんとしつけをされていた可能性が高い。つまり茶道以外の面でもきちんとしつけがされている可能性が高く、それは人格面での育ちの良さにもつながるという論理で私たちはその方に魅力を感じているのです。

着物の着付けができることに魅力を感じているのではなく、着物の着付けができるということは良い家庭で育った可能性が高く、人格面でも良いしつけがされている可能性があるということに私たちは魅力を感じているのです。

ですので、着物の着付けができても、人格面での育ちが悪いのであればそれは一部の場合を除き魅力にはなり得ません。逆に着物の着付けができなくとも、人格面での育ちが良いのであれば十分に魅力的に見せることはできるでしょう。

もちろん茶道の心得も着物の着付けもできるに越したことは御座いません。また良いか悪いかは別にして「育ちが良いように見せる」ということは可能ですので、そのスキルを身に付けるメリットも存在するでしょう。

しかし、私が思う本来身に付けるべきは人格的な面での育ちの良さ。

男性にモテるとかモテないとか、いい男と結婚ができるとかできないとかそういう話ではなく、自分の人生を改善する上でも人格的な面での育ちの良さを身に付けることは非常に重要でしょう。

■真に「育ちが良い人」とはどんな人なのか

私は缶コーヒーをよく飲むのですが、自動販売機で缶コーヒーを買うと近くにゴミ箱が無いことも少なくありません。

すぐに家に帰るような場面であれば良いのですが、その後、街を散策する予定がある場合は飲み終わった缶の処理に困ります。

そんなときに、明らかに放置された自転車のかごにごみがたくさん入っていると思わずそこに捨てたくなる気持ちが芽生えるのは決して否定することができません。

周囲に人がいるのであればまだしも、人影がなく絶対にバレないような状況であれば心の中の悪魔が「そこに捨てちまえよ、みんなやってるじゃないか」とささやきかけてくるのです。

おそらく私のような紛い物ではなく、真性の「育ちが良い人」は「自転車のかごに捨てる」という発想すら思い付かないことでしょう。

そもそも自動販売機で缶コーヒーを飲んで街を歩くということすらしないかも知れませんが、いずれにしても私のような邪心が芽生えることはないと思います。

しかし我々俗人はそんな真性の「育ちが良い人」になることはできません。「育ち」というだけのことはあり、何十年という時間をかけて教育されなければそのような真性の「育ちが良い人」になることなどできないのです。

ですがそんな真性になることはできなくとも、せめて紛い物であれば私たちでも到達することが可能な領域でしょう。

「このかごに捨てれば良い」という邪心すら芽生えない真性になることはできなくとも、邪心が生まれつつもそれに抗う程度の育ちの良さであれば、なんとか到達することはできるのです。

育ちが良い人は「妬み」がない、というのもよく聞く話ですが、これもまた同じ。

妬みという感情自体が存在しない真性にはなれなくとも、その感情が生まれたときに必死で抗う紛い物であれば私たちはギリギリなれるのです。

本当の意味での「育ちの良さ」がわかる瞬間とは

ウィル・スミスさんが主演している『アイアムレジェンド』という映画をご存知でしょうか?

コロナウイルスが蔓延している今日では洒落にもなりませんが、『アイアムレジェンド』の舞台はウイルスによって人類が滅亡してしまった世界。そんな世界でウィル・スミスが演ずるネビルはたった一人の生存者になってしまうというストーリーです。

さて、コロナで『アイアムレジェンド』の世界が生まれないことを切に願う今日この頃では御座いますが、もしも『アイアムレジェンド』のような世界に自分が放り込まれてしまったとしたら、そのときにこそ「育ちの良さ」が出ると私は思います。

例えばコンビニの弁当を食べるとき。

誰もいない世界で腐りかけたコンビニの弁当を食べるときに、それでもなお「いただきます」と言える人間こそが「人格的に育ちの良い人」であると私は思います。

人が見ているところで「いただきます」と言うことは誰にでもできることでしょう。育ちの良さが真に現れるのは誰も見ていないときなのです。

とはいえここでも私は紛い物でしかありません。

おそらく真性の育ちが良い人は、たとえ『アイアムレジェンド』のような世界になったとしても何も考えず自然に「いただきます」と言えることでしょう。

しかし私のような紛い物は『アイアムレジェンド』の世界になってしまったら「誰も見てないし」という邪心が絶対に湧いてくるのです。

真性の育ちの良い人ではない私たちは誰かが見ている場面でなければ、正しい行動を取ることができません。たとえ直接見られてはいなくとも「もしかしたら見られているかも」「このことがいつかバレるかも」という不安があるからこそ、正しい行動を取ることができるのです。

■育ちの良い、正しい行動を取るには

それでは私たちのような紛い物が『アイアムレジェンド』の世界で正しい行動を取るには一体どうすれば良いのでしょうか。

私はそれこそが「神」であると考えています。

特定の宗教の話をするつもりは御座いません。キリスト教徒の方はキリストを、イスラム教徒の方はアッラーを、仏教徒の方は釈迦を想像してお読みいただければ幸いです。

さて、自動販売機で缶コーヒーを買い、捨て場所に困っている私の心には「その自転車のかごに捨てればいいじゃん」という邪心が必ずといっていいほど湧いてきます。

しかしその邪心が生まれながらも、私がその邪心に抗えているのは「神は見ている」という感覚があるからでしょう。

私は特定の宗教を信仰している訳ではないので、私が脳内で想像しているこの神に具体的な名前はありませんし、この神の前で善行をしても何かのご利益がある訳でも御座いません。

ですが「見られている」という感覚が最後の一線を超えずに防いでくれているのです。

もしも「人間に見られている」という感覚で生きていると「誰も見ていないから」という言い訳でたやすく邪心に屈してしまうことでしょう。

しかし存在しない神(信仰心のある方の場合は存在する神)に見られているという感覚で生活をしていると、この神はしつこいことに、いついかなるときでも私の行動を観察しているのです。

私は何も信仰を持てとか、宗教を持てと言いたい訳では御座いません。

真性の「育ちの良い人」ではない私たちは、常に「何かに見られている」という感覚が無ければたやすく邪心に流されてしまうのです。

この「何かに見られている」という感覚。その何かを神と呼ぶか自分と呼ぶかは何でも構いませんが、その感覚がある人のことを私は「人格的に育ちの良い人」であると考えております。

そんなものが無くても正しい行動をすることができる真性の育ちの良い人には到底なることはできませんが、紛い物の育ちの良い人であれば今からでもなることはできると私は思います。

(ラブホの上野さん)

※画像はイメージです

当記事はマイナビウーマンの提供記事です。

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