歴代総理の胆力「大平正芳」(4)「弱気でどうする」と角栄

アサ芸プラス

2020/3/26 09:55


 この「40日抗争」に一応のピリオドが打たれたあとの第2次内閣でも、「反主流」の3派はホコを収めず、それから約半年後の5月には社会党が提出した内閣不信任決議案の本会議採決で、福田、三木の両派が欠席(中曽根派は一応出席)、ために不信任決議案は243対187で可決してしまうといった異常事態が続いた。大平は内閣総辞職を選ばず、衆院の解散・総選挙を選択した。与党が野党提出の不信任決議案に同調、通してしまうなどは与野党ともに“想定外”であったことから、この解散は「ハプニング解散」と呼ばれている。

また、この年6月には参院の通常選挙が予定されていたことから衆院選とその日取りが重なり、史上初の衆参同日選挙(「ダブル選挙」)となった。大平はと言うと「40日抗争」で疲れ果てていたこともあり、内閣総辞職を選択しようとしたが、ここで「盟友」田中角栄が大平に言ったのだった。

「弱気でどうする。衆参の同日選挙だ。野党の衆院の候補者は立ち遅れている。衆参同日なら、さらに野党支持者の投票行動が乱れ、自民党は間違いなく勝てる」

ダブル選挙突入。しかし、参院選公示の5月30日夜、大平は心筋梗塞で倒れ、31日未明に入院、6月12日に死去した。その10日後のダブル選投票の結果は、両院で自民党が大勝した。選挙の勝利は、大平の「弔い合戦」として自民党により気合いが入った一方で、誰もが考えつかなかったダブル選という“奇策”を強行させた「選挙プロ」と言われた田中の知略ぶりが目立った。「40日抗争」を含めて大平の死までを取材した当時の大平派担当記者の、次のような証言が残っている。

「大平と田中の仲は、常に信頼感があったが、一方で実直な大平は『田中の影響下にある政権』という言葉を嫌った。『40日抗争』が一休みの中で成立した第2次大平内閣の党3役人事で、田中は自派の二階堂進を総務会長に押し込もうとした。大平はこれを突っぱね、鈴木善幸を総務会長にするなどで、大平は精一杯、田中に抵抗もしていた。大平の死を知った田中は、その枕元で号泣した」

一方で、大平を、次男・裕はこう振り返っている。

「父の人となりは、寡黙で言い訳を極端に嫌った、誤解に基づく批判に対しても“そのうちわかってくれる人は、わかってくれるだろう”と言って、取り合わなかった。『総理はいつも二言足りない』という話を聞いたことがあるが、私もまったくその通りだと痛感しました。シャイな父の本姿が、世の中に理解されることを期待してやみません」(『一億人の昭和史・日本人8・三代の宰相たち』毎日新聞社)

振り返れば、大平は「矩(のり・守るべきこと)」をわきまえた、愛すべき「鈍牛宰相」だったと言ってよかった。そこに、世論の拍手もまた多かったのだった。

■大平正芳の略歴

明治43(1910)年3月12日、香川県生まれ。東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、大蔵省入省。昭和27(1952)年10月、衆議院議員初当選。昭和53(1978)年12月、大平内閣組織。総理就任時68歳。昭和55(1980)年6月12日、衆参同日選挙のさなかに急性心不全で死去。享年70。

総理大臣歴:第68・69代 1978年12月7日~1980年6月12日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

当記事はアサ芸プラスの提供記事です。

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