目に見える形で手応えが得られない……。歌い手・白川裕二郎が味わった苦悩~純烈物語<第18回>

日刊SPA!

2019/11/9 08:30

―[白と黒とハッピー~純烈物語]―

◆第18回 目に見える形で手応えが得られない……歌い手・白川裕二郎が味わった苦悩

毎週土曜朝に当連載が更新されると、酒井一圭は自身のツィッターでそれを告知する。しかも多くの情報をアップする中、常にタイムラインのトップに固定しているのでこちらとしてもありがたい。

朝にもかかわらず、必ずひとことコメントを添えて。それがあるのとないのとでもファンの関心はまったく違ってくるし、これなら更新日を過ぎたあとも目につくので、より多くの皆さんに閲覧してもらえる。もっとほかに重要なニュースがあっても、スタート以来その位置にほかの情報を持ってくることがない。

「AさんとBさんがいて、Aさんの方が力を持っていたとしたら、Bさんを傷つけない形でAさんを盛り立てて、その上でBさんもフォローするみたいなことを器用にできるのがリーダー。人を喜ばせ上手なんでしょうね」

言うことが都合よく変わるリーダーについて白川裕二郎が語った時、それでも人心を掌握できる理由として、そんなエピソードを口にしていた。芸能畑の人間ではないプロレス村の一ライターなど、数多い関係者の中では遠い位置にいるはず。にもかかわらず、ツィッターのトップに持ってくるというやり方で酒井は、そんなポジションの人間でさえもじっさいに“喜ばせて”いる。

ちなみに、白川が「逆襲」に出た前回分のリツィートには、こう書かれていた。

<俺の嘘が暴かれていく訳だ。ま、確かにあの日TUBEを歌っていたのは西岡の龍ちゃんなんだけどな。金の話もプラスワンのイベントでギャラを乗せてあげただけの話なんだけどそれが後に親孝行のワードと共にボディに効いてくるわけさ。純烈物語は酒井わらしべ長者物語だからな>(顔文字略)

じっさい、取材の中で白川も「TUBEは西岡竜一朗君が歌っていた」と言ったので、リーダーはそれをちゃんと記憶として残っている上で、史実を上書きしてきたことになる。京都のカラオケの時点では、まさか自分が歌い手になるなど想像さえしていなかった。

「芝居をしていて声がいいと言われたことは何回かありましたけど、声に自信があるわけでもなかったので気にしていなかった。だから歌自体には、リーダーに言われた時にまったくピンとこなかったです。それでもやろうと思ったのは、役者じゃないところから頂上を目指すのも面白いんじゃないかという考えだけで、どうすればなれるかまで考えは及ばなかった。

◆「白川さん、考えながら歌いすぎですよ」。今でもファンによく言われる

そもそも僕は“後ろ要員”(コーラス)で入ったんですから。でも、同じように誘われた西岡君が純烈を続けられなくなったことで(連載第11回参照)おまえがリードボーカルをやれよとなった。こうして続けている今も『俺、何やってんだろう?』と思う時があります。それまではどちらかというとアスリート的な道を選んできて、目に見えて鍛えた結果がわかる方が好きだったんです。でも、歌って声帯とかだから見えないじゃないですか」

スポーツ競技は数値や数字によって成果が見え、実感できる。相撲なら番付で自分が上がっているかどうかが一目瞭然だ。それに対し歌は進歩の形がつかみづらい。自分では上達したと思ってもボイトレの先生はダメだと言うし、逆に伸びないなあと悩んでいたら「うまくなったよ!」と言われる場合もある。

筋トレのように自分が好きでやっていればモチベーションも維持できるが、歌唱力はまったくの畑違い。うまくならなければと向上心を持って続けても、それが歌に対していいのかどうかの判別もつかなかった。

「今でもファンによく言われるんです。『白川さん、考えながら歌いすぎですよ』って。ステージから見えちゃっているんですよね。歌いながら、これをやったらダメだとかもっと楽な声の出し方があるんじゃないかなって、確かに考えている。スタートからそういう感じでやってきたから、染みついちゃっているんでしょうね。

ホントね、自分の実力のなさにがく然とします。ほかのメンバーが歌えるようになってきたから、みんなの方がうまいなと思ってしまう。そのたびに、自分は自分なんだからと思うようにはしているんですけどねえ」

人生初の博打に出ながら、勝ったか負けたかの手応えさえつかめぬ日々が続いた。一度は踏ん切りをつけたつもりだったのに、役者の方へ心が戻りそうにもなった。じっさい、純烈をスタートさせたあとも出演の話は舞い込んでいた。その頃は、余りあるほどの時間があったので、出ようと思えば出られたのだが……。

「確かに時間はあるんですけど、それが純烈の活動とぶつかる可能性がある限り、メインの自分がいなかったら成り立たないからセーブをかけられて。あの時、せっかくオファーをかけていただいた方々には今でも申し訳ないと思っているんですけど、後ろ髪を引かれる思いで断っていましたね。

だからよけいに、続けられるなら役者もやりたいと思うようになった。そういう時に、リーダーから言われたんです。『役者を続けるって、セリフがあるのかないのかみたいな役どころで満足しているのか? そうじゃなくて、紅白に出て売れればそっちの方から番手が上がっていくんじゃないか』と。コツコツとやるのも素晴らしいけど、そういう形でグレードを上げるやり方もあるということだったんでしょうね」

歌い手として成長の感触がつかめぬ中で、純烈は出航当初は大海を迷走していた。ムード歌謡をやるという名目で集まったのに、ステージでは米米クラブやSMAPを歌っていた。白川と小田井はなんとか家賃が払える程度の給料をもらっていたが、ほかのメンバーは違った。食えていない仲間たちを見て、申し訳ない気持ちになるのも嫌だった。

◆トレーニングに励むなか、襲いかかった「悲劇」

役者をやっている間は、しがみつこうとする気持ちが強かったと白川は言う。常に、自分の代わりはいくらでもいるというプレッシャーが背後から肩を叩いてくる。一度、一線を引いたら元のポジションに戻れないのはわかっていた。

だからといって、今やっていることで明るい未来が見えているわけでもない。どちらに進んでも怖さを覚えるしかなくなった結果、白川の頭に3つ目の選択肢がチラつく。

「普通に働いた方がいいという考えは、何度も浮かびました。やめるなら今だろうというタイミングも訪れて……おそらく、これがグループではなくソロのプロジェクトだったらやめていました。そもそも、一人だったら僕は潰れていたでしょうね。僕がやめることで、みんなに迷惑がかかってしまう。その意味で、メンバーの存在は本当に大きかった」

そんな白川にとって、一つの武器だったのがスポーツを続けてきたことで培われた努力気質。相撲も筋トレも普段のトレーニングをしないと本番で力が出せないから、コツコツとやれるようになる。

“努力”と書くと、シンドいことを嫌々やるようなイメージが付随してくる。でも、要は自分が欲するものを形にするための過程。そう考えれば、むしろやらないことこそが耐えられなくなる。

スポーツマンとしての経験と姿勢が純烈を続ける上で力になった。発声練習をしなければ声が出ない自分の実力がわかっているから、白川は人一倍ノドのトレーニングに励む。

そうした努力を重ねてきたにもかかわらず、どうしても自分だけ音を外す時があった。ずっと、それは自分がヘタだからと認識していたのだが、思わぬところに原因が見つかった。

2年ほど前、風邪をひいた時に耳の調子がおかしくなったため耳鼻科で診てもらったところ、難聴と言われた。まさかの思いを拭えぬまま、もっと大きな病院で精密検査を受けると「感音性難聴」とわかった。

ある一定の高さになると音が聴こえなくなる先天性の病気――しかも両耳ともだった。白川の頭の中に、聴こえるはずのない衝撃音が鳴り響いた。

撮影/ヤナガワゴーッ!

―[白と黒とハッピー~純烈物語]―

【鈴木健.txt】

(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。Twitter@yaroutxt、facebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」

当記事は日刊SPA!の提供記事です。

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