「ゲルニカの夜」なぜ櫻井敦司は戦争を“夢”と描いたのか

UtaTen

2019/11/8 15:00

「そんな夢」とは誰が見た夢なのか




櫻井敦司が、自らの記憶を単にデータ化して描いたとは思えない、あまりにも儚い言葉たちだ。

「星屑 き集めて」にはどこか心の飢え、乾きが感じられる。

つまりそこに、大好きな兄と二人で映画館に行ったことを、“知らない大勢のひとびと”の助けを借りて、確かな事実にしようする櫻井敦司の強い欲求が感じられる。

通常は雨や雪を降らす空。「狂い出す」「僕らは消えた」から振ってきたものは爆弾であることがわかる。



この「千切れちゃう」は大好きな兄との、距離的な別れの寂しさだけが書かれている。

この時点での櫻井敦司の歌唱にはまだ穏やかさと幼さが残っている。

メロディが突如退廃的になり、櫻井敦司の声は先ほどの少年のようなかわいらしさから一転、老いさらばえた男娼のような、貴腐ワイン的な香りに満ちている。

「首の取れた」から、“僕”は肉体的損傷を受けたように感じられる。

が、「踊れないんだ」「笑えないんだ」から、肉体は無傷のまま、運動機能が、精神制御が、何らかの衝撃で破壊されてしまったことがわかる。

"僕"とっての"君"という存在




この歌の山場である。難解な「僕は雨降り」を飛ばし、まず「君は君で無くなった」を見てみると、“僕”を「首の取れたマリオネット」にしたのは“君”であることがわかる。

“君”の人物像を考えると、“僕”をマリオネットにできることから、“僕”の精神をコントロールしていた人物なのだ。

それは“僕”を支配していたー“僕”にとって服従せざるを得ない人物ではなく、むしろ鉄壁の信頼を寄せ、愛しみ、助け合い、“僕”の悪さえも救ってくれるような、なくてはならない友達と考えられる。



再び彼は神様にお願いをするが、その内容は前の歌詞とは少し違ってきている。

つまり最初は“僕”の身に起こった災難に対して、“僕”は被害者なのだと神様に訴えている。

しかしここでは「君の躰 吹き飛んでいく」と「僕の町が燃えているよ」という、“君”と“僕”の両者に起こった事件に対して、神様に許しを乞うているのだ。

そこで先程ペンディングしていた「雨降り」が鍵になる。

その答えとなるのが、「君の躰 吹き飛んでいく」だ。何が“君”の躰を吹き飛ばしたか?それは「雨降り」なのだ。

つまり「溢れて落ちていく君に ごめんよ 僕は雨降り」とは、“僕”を人形にした“君”に対して、すまないが仕返しをさせてもらうよという意味になる。

「糸の切れたマリオネット」状態の“僕”、つまり愛する“君”との一体化から独立した僕は、“君”をそして“君”と“僕”が愛した者までも殺していくのだ。

そして“僕”によって愛するものを殺された者達は、今度は“僕”の町を燃やしてしまうのだ。

現実と空想とが絡まり合い最後は…




ここで歌詞の内容は現実と空想とが絡まり合う。

「僕はどうだい~誰かが誰かを殺すよ」までは、現実の櫻井敦司が、今愛とか恋とか歌っているこの時間にも、君たちが殺し合いをしているねと言っている。

それは武器を捨て、平和へと進めという命令ではない。君たちが今やっている事の確認をしているにすぎない。

そして「君の躰 吹き飛んでいく~さようなら」では再び櫻井敦司は、戦禍が激しいその場所に立つ“僕”に戻っている。

“僕”は一体どうなるのか、そして“君”は“僕”の問いかけに何も言わないのか。

と、この歌がクライマックスを迎えると思った瞬間



と、実にあっさりと終わってしまうのだ。

このあっさりがこの歌詞の怖さそのものである。

「そんな夢見」たのはまぎれもなく“僕”である。“僕”は“君”に対しては精神を破壊されたが、“僕”については全く異常がない健全な精神の持ち主だ。

つまり生きていくということは、争いや戦い、裏切りといったものがすべて夢として昇華され、その結果残された焦土、ずたずたに傷ついた人間の心の上に、真新しい愛や正義が上書きされ、また争いや戦いが起こり、それが昇華され・・・の繰り返しなのだ。

生きている人間が死者の未来を想像する



では一方で争いや戦いで死んでいった者達はどうなったのか。

彼らにはもう何も残っていない、自分自身が残っていないのだから。

果たしてそうだろうか。

この歌が「そんな夢見て 目覚めた」で終わっていたなら、生きているものには始まりがあるが、死者については終結しかないというメッセージだけを残すことになる。

が、この歌の最後は「早くママに会いたいよ」で締めくくられている。

そこには生きている者による死者の時間の延長ー“僕”の時間は、“僕”の町が燃える以前の状態で止まっていて、真っ黒焦げになったテーブルには、灰になった母親が作ってくれた美味しいごちそうが今夜もぐつぐつと音を立て、“僕”の帰りを待っているという、未来が存在しているのだ。


死者の未来を想うこと。これは別に狂気でも何でもない。肉親を失ってしまった人間にはよくあることだ。

おかしな話になるが、私は時々、初めて降りる駅に着くと、この町のどこかで、死んだ母が、私の知らない男性と、私よりずっと優秀な娘とつつがなく楽しく暮らしているのではないかと思うことがある。

もちろん母はこの世のどこを捜してもいない。

死んだ人間が現世のどこかで実はひっそりと暮らしているという考えは、生きている人間の単なるわがままにすぎない。

しかし不慮の死を遂げた人間ー特に戦争で亡くなった人たちには、終わりの続きがあってもいいのではないかと思うのだ。

つまり戦争で死んだ者にとっては、この世で起こった残虐な殺戮は夢なのだ。

そして夢から覚めた彼らー戦争に巻き込まれた罪なき人々、そして実際に人殺しをしてしまった人たちもー私たちの知らない場所で、争いを放棄し、互いを理解し合い、本当に何も起こらない、平穏な営み=真の平和を永遠に守り続けることができるのだ。

「そんな夢見て 目覚めた」瞬間、生きる者たちは、この美しい地上に巨塔と瓦礫を吐き出し続け、死者たちは、前世の功罪をすべて洗い流し、崇高な無だけを築き上げていくのだ。

TEXT 平田悦子

当記事はUtaTenの提供記事です。

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