「ととのう」必要ナシ! ドラマ「サ道」最終回はマニアのこだわりからサウナを解放した

エキレビ!

2019/10/6 09:45

「そもそも私、ととのおうと思ってサウナに入ってないんですね」
「え」

原田泰造主演、サウナ好きによるサウナ好きのためのテレビ東京のドラマ25「サ道」が最終回を迎えた。サウナという“趣味”を取り扱ったドラマとして、かなり踏み込んだ内容の最終回だったと思う。

何度も繰り返して書いてきたが、「サ道」の基本的な構成は、サウナー(サウナ愛好家)のナカタ(原田泰造)がサウナ仲間の偶然さん(三宅弘城)、イケメン蒸し男(磯村勇斗)とダベりつつ、全国のサウナの名店を堪能するというものだ。「孤独のグルメ」のサウナ版と考えれば良い。

ナカタたちのサウナの楽しみ方のベースには、温冷交代浴によって「ととのう」ことにある。それが最終回を目前にして、ナカタはととのわなくなってしまった。熊本県にあるサウナの名店「湯らっくす」でも、ととのわない。「孤独のグルメ」の井之頭五郎が何を食べても美味しくなくなってしまうようなものである。

サウナ引退まで頭をよぎるナカタだが……ということで、最終回が始まった。


西の聖地「湯らっくす」と熊本地震
一旦、ととのうことを諦めて、「湯らっくす」をエンジョイするナカタの前に現れたのは、社長の西生吉孝氏だった。冒頭の言葉は、西生氏のもの。サウナに入ってもととのわなくてもいい!

サウナの歴史は(「サ道」の原作者である)「タナカカツキ前」と「タナカカツキ後」と言われるぐらい(言っていたのは原田本人)「サ道」の影響力は大きい。“サウナのバイブル”と呼ばれることもあるが、本当に「聖典」なのだ。

だから、みんな「サ道」を信じて「ととのいたい」と思うようになった。でも、「サ道」を原作としたドラマの最終回で「ととのわなくてもいい」と言っているのだ。筆者は、つい最近、知人の男性に「サウナに入っても、ととのわないから面白くない」と言われたのを思い出した。「いやいや、ととのわなくてもいいんだよ」と伝えればよかったと後悔している。

「そもそもお風呂屋さんはゆっくりする場所なので、それぞれあまり考えずに楽しんでいただければな、と」と西生氏が語っているとおりだ。

西生氏は、2015年に先代から「湯らっくす」を継いだのだが、そのわずか半年後の2016年4月に熊本地震が発生。休業を余儀なくされたとき、西生氏の知り合い(7話に登場したサウナ界のゴッドファーザー、米田行孝氏)が運んできた移動式サウナを体験したことで、あらためてサウナをやってみたいと思ったのだという。本震の8日後から「湯らっくす」は全国から集まったボランティアに施設を解放し、自治体のボランティアセンターが閉鎖しても続いた。「サウナの新聖地」と呼ばれる前は「ボランティアの聖地」と呼ばれていたのだ。西生氏はブログで「あの地震から復興している間が自分が今まで最も輝いていた時でした」と振り返っている。

若者よ、サウナを信じるな
「湯らっくす」に宿泊したナカタは翌朝、サウナの導師である蒸しZ(宅麻伸)の幻影を見る。メディテーションサウナに入り、これまでのサウナ遍歴に思いを馳せるナカタ。「サウナは憩いの場」「サウナは人生」など、サウナに身も心も捧げた人々の言葉も脳裏に蘇る。そしてサウナ仲間との楽しかった日々。そんなナカタに、蒸しZが語りかける。

「若者よ、サウナを信じるな。ととのうとは何か? ただの言葉だ。特別な状態を追い求めてはいけない。なぜなら、そんな状態はこの世に存在しないからだ。幸せを信じ、追い求めることが、幸せでない苦しみを生み出すのだ。サウナとは、身体を温め、水風呂に入り、身体を休める。ただ、それだけのことだ。そこにあるのは、安らぎと喜びだけ。それ以上求めてはいけない。あるがままに、その安らぎと喜びを感じていればいいのだ。サウナを信じるな。サウナを信じるな」

聖典、聖地、瞑想(メディテーション)、そして導師。サウナを取り巻く言葉には、宗教じみたものが多い。そもそもサウナの本場、フィンランドではサウナは教会に匹敵する神聖な場所だと言われている。「サ道」に足を踏み入れた者たちは、サウナを「信じる」。そして、解脱=「ととのう」を目指す。「サ道」で「ととのったー」というとき、マンダラのようなCGが展開するのもどこか関連している。

蒸しZは「サウナを信じるな」と言う。サウナは宗教なんかじゃない。サウナで身体を温め、水風呂に入り、休憩する。それだけでいいというわけだ。これは「マンガ サ道」1巻の最後で語られている内容でもある。

ととのうことから解放されたナカタは、穏やかで晴れやかな顔を見せる。それからもサウナには通い続けるが、もうととのうことに固執していない。そんな折、ナカタは蒸しZと再会する。蒸しZとは、ただのラーメン屋の親父であり、タオルに染め抜かれた「Z」の文字は「RAMEN」の「N」が横になっただけだった。蒸しZとは、ナカタが勝手につくりあげた虚像だったのだ。

サウナとは一つの趣味である。趣味を追い求めれば、いつしか「古参(マニア)」と呼ばれる層が生まれ、必然的に「新参(ニワカ)」ができて、上下関係なども生まれてくる。「古参」が後生大事にしているのが聖典や教義であり、教祖や導師だ。だが、たかが趣味にそんなこだわりはいらない、一時的にあってもいいが、固執し続ける必要はない、というのが「サ道」の着地点だった。マニアのこだわりからサウナを解放したのだ。

「ととのう」ことを捨てた最終回に、熊本地震を背景に持つ「湯らっくす」を組み合わせたのも上手い。大きな災害を前にしたら、ととのう、ととのわないどころじゃない。風呂は疲れを癒やし、サウナは心を落ち着かせる。それでいいじゃないか。よく出来た最終回だったと思う。
(大山くまお)

当記事はエキレビ!の提供記事です。

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