「そばかすミルク」でカジヒデキが描く、叙情的官能美

UtaTen

2019/10/6 12:00

この歌は少女との思いがけない出会いから始まる。





には、うっとおしいどんよりとした空と、いつまでも途切れることのないしつこい雨が感じられる…が、

によって、彼は彼女との出会いの爆発しそうなときめきを、暗い雨雲に隠してもらおうと必死なことがわかる。

注目は「真っ赤なセーターとリップ」だ。セクシーな女性の表現としてよく使われるのが、“燃えるような赤い唇”であるが、カジヒデキはその間にセーターを橋渡ししている。
激しすぎる表現の緩和、こなれ感を出すために橋渡しの描写が使われることは珍しくない。

しかし、カジヒデキはあえて「セーター」という、色気や魔性から縁遠い言葉を挟みこむことで、リップの赤をより強調しているのだ。

さらに「セーター」という結界があるせいで、リップの赤が単なる口紅の色ではなく、この少女のもつ何とも言えない色気と、将来とんでもないいい女になっていくであろう果てしないエロティシズムにまで発展させている。



この詞によって、彼は少女に全く面識がないわけではなく、教室の中で、隣同士ほどではないが、かなり近い席にいる身近な存在であることがわかる。

そして「意味ありげに笑った」から、彼はただ黙って見ているだけで、彼氏に発展するにはほど遠い、彼女にとって微妙にどうでもいい存在であることがうかがえる。

この歌詞は『そばかすミルク』のハイライトである。

「そして目線をそらして」の主語であるが、当然彼女と考えるのが普通である…が、「僕は追いかけてみたんだ」と対比させると、彼があまりのときめきの強さに耐えきれなくなり、ふと目線をそらしたスキに彼女が消えてしまったという裏の意味を、カジヒデキが訴えたかったのではないかと私は思うのだ。



もはやカジマジック炸裂としかいいようがない。つまりここに書かれていることが事実なのかどうかだ。

「すこし小さめの林檎をかじって」であるが、これが事実なら、人の庭に植わっているまだ成長しきれていないか、小さめの品種の林檎を盗み食いしたことになる。

しかしここに書かれている場面は、土曜日の、ほんの一瞬で彼女を見失ってしまうような雑踏なのだ。そんな渋谷か、原宿のメインストリートに林檎の実がぶらさがっているわけがない。

また、彼がわざわざ林檎の入った弁当箱を持参して、土曜日に渋谷か原宿に繰り出したとも考えにくい。

つまりこれは事実ではないと考えるのが普通だろう。妄想というより、あまりにもでかいこと長いことをコンパクトにまとめて、彼女との距離を何とか縮めている健気さが見て取れるのだ。

「雨はいつの間にか 虹に変わって 僕らを照らす」には、人混みに消えた彼女、僕の手の届かない場所に消えた彼女だって、ほら同じ虹の下にいるじゃないかという、やや強がりな気持ちが込められている。

そして、「すこし小さめの林檎かじって目線あげたら」には、彼が人混みに消えた彼女を、諦めと期待と悔しさの入り混じった鬼の形相で追いかけた末に、しれっと目の前に立っている彼女を見つけた瞬間の、喜びと果てしなく長く苦しい時間の流れが凝縮されているのだ。



この歌詞には、千葉や埼玉にまだカフェがなかったころ、田舎の少年とちょっと“進んでる”少女が、おしゃれして渋谷のカフェで仲睦まじくお茶する風景が見える。が、その根底には、人混みに消えた自分を必死で追いかけてきたことのご褒美として、カフェラテ1杯だけつきあってあげてるのよという、女の残酷な匂いがしっかりと存在しているのだ。

彼にとって不確かすぎる明日よりも、彼女と別れの挨拶を交わしたばかりの現在完了形の今のほうがずっと確かで鮮やかである。

しかし、彼女との明日を呼びつけないことには彼の時間はないに等しいのだ。この現在完了形が明日に向う滑り台となって、“僕”を勢いよく落下させてくれるのか。

それともこの瞬間から、己の力で彼女との明日を建設していくのか。今と明日との対比と、終わることのない揺らぎ。

それは確かに魔性の女にふりまわされる馬鹿な男そのものだ。しかしそこにはなぜか男女の性差 段差が全くないのだ。

男ってこういうものだ、女ってこういうものだという抗えないイズムを、一本の硬い芯として詞の奥底に完全に埋め込むことで、表面には、すべてのひとに当てはまる悲しみや、切なさだけを自然に浮き上がらせることができるのだ。

『そばかすミルク』。何度聴いても涙が浄化されていく傑作である。

TEXT 平田悦子

当記事はUtaTenの提供記事です。

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