世間から「乗っ取り屋」と、お墓に家宅捜査も 『多磨霊園アラカルト』 西郷従道・根津嘉一郎・小笠原忠忱・横井英樹・井手則雄

TheNews

2019/8/14 16:00


お墓は人生の終着地です。多磨霊園は公園墓地として誕生し、宗教も不問な都営霊園です。区画も大小様々であるため、建立されている墓石も色々です。今回はトピックしたい墓所に眠る人物たちを紹介します。

西郷従道(さいごう・じゅうどう)が眠る西郷家の墓所が多磨霊園の中で一番広い墓所面積を有しています。面積は288平方メートル。87.12坪。174.24畳となります。これはダブルスのテニスコートの面積が260.76平方メートル(約79坪)なので、それよりもやや大きい広さになります。墓所には西郷従道、従道の妻、従道の長男の従理の単独墓と、西郷家の墓が建ちます。

西郷従道は薩摩出身で、「西郷どん」こと西郷隆盛の16歳離れた弟。本名を隆興、通称を信吾。1862年(文久2年)尊王派の志士として寺田屋事件に連座し謹慎となり、翌年の薩英戦争では決死隊に志願。戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで貫通銃創を負うも各地を転戦。明治維新後は明治新政府の要職に付き、文部大臣、農商務大臣、内務大臣など多方面で活躍。陸軍では中将で陸軍卿(大臣)をつとめ、途中から海軍に変更し、海軍大将から初めて元帥の称号を得、海軍大臣も歴任しました。陸海の両方で将官や閣僚を経験した人物は西郷従道のみです。晩年は元老・枢密顧問官や国民協会会頭なども歴任し巨頭として軍・政界に重きをなしました。侯爵も授爵。

万霊供養大石灯篭

多磨霊園には大きな灯篭(とうろう)が名誉霊域の三本道の先端に建っています。高さは40尺です。1尺が約30センチですので約12メートルです。この「万霊供養大石灯篭」は、1940年頃に多磨霊園の正面門と芝生墓地の間のところに建てられました。しかし、新納骨堂建設のため、2002年末に現在の場所に移設されます。移設された現在の場所の目先に、生前この灯篭を寄附し、完成目前に他界した根津嘉一郎(初代)が眠ります。

根津嘉一郎さんのお墓

根津嘉一郎(ねづ・かいちろう)は甲斐出身。最初は郷里の山梨県の郡会議員や県会議員を務めていましたが、1904年(明治37年)衆議院議員に当選。実業家としても帝国石油、館林製粉、日清製粉などの社長を歴任。東武鉄道の初代社長であり、東上鉄道合併など「鉄道王」などとも称されました。他にも徳富蘇峰の「国民新聞」の社長を引き受け、武蔵高校、根津化学研究所の創立など学術・文化事業の方面でも尽力しました。

一般的なお墓は和型と洋型の墓石が主流ですが、蔵状の納骨堂のお墓もあります。多磨霊園には特筆するべき大きな納骨堂があります。最後の小倉藩主で小笠原忠忱が眠るお墓。コンクリートでできた大きな蔵状の納骨堂の上部には、現在は取り外されていますが、「相輪」がありました。

小笠原忠忱さんのお墓

小笠原忠忱(おがさわら・ただのぶ)は、豊前国小倉藩の第9代藩主の小笠原忠幹の次男。1867年(慶應3年)わずか6歳にして家督を継ぎます。戊辰戦争における奥羽出兵に功あり、後に伯爵を授爵しました。廃藩置県まで豊津藩知事を務め、イギリス留学や豊前育英会をつくり郷土の人材育成に尽くしましたが、36歳の若さで亡くなりました。浅草海禅寺に葬られましたが、家督を継いだ子の小笠原長幹が昭和初期に多磨霊園にこの納骨堂を完成させ改葬しました。

小笠原忠忱さんのお墓

多磨霊園の納骨堂で外せないのは、お墓に家宅捜査も入ったことで有名な、株を買い占め、世間から「乗っ取り屋」と称された横井英樹(よこい・ひでき)の墓所です。愛知県出身の貧しい農家で生まれ、15歳で上京し丁稚奉公。戦時中・戦後は軍衣や占領軍関係の衣料製造販売で財を成します。1953年にデパート白木屋の株を買い占め騒がれ、その後も興安丸を買い東洋郵船を設立、強気な姿勢で恨まれ拳銃で銃撃される事件に巻き込まれても、1959年には東洋精糖の株を買い占め、1979年は大日本精糖が経営していたホテル・ニュージャパンの株式を約7割買収し経営権を握ります。そして、防災設備や防災訓練を無視した強引な経営が裏目に出て、1982年2月8日(昭和57年)ホテル・ニュージャパン火災で33人が死亡する大惨事を引き起こします。1993年(平成5年)最高裁まで争われ禁固三年の実刑判決が確定しました。この裁判中、1991年に秘密裡にニューヨークのエンパイアステートビルを買収して世間を驚かせました。

横井英樹さんのお墓

多磨霊園に建つ横井家の納骨堂内は墓所地面積と同じ空間が広がり、昔は電気を引っ張ってきて、納骨堂内をシャンデリアが明かりを灯す豪華であったようですが、2010年に墓所を質素にリニューアルし現在に至ります。

横井英樹さんのお墓

横井英樹さんのお墓

最後は彫刻家・詩人として活躍した井手則雄墓石を紹介します。この墓石は、1999年第5回全優石ニューデザイン賞を受賞しました。

井手則雄さんのお墓

井手則雄(いで・のりお)は東京美術学校在学中より二科展に出品し、1947年(昭和22年)前衛美術会を結成。1950年に第一詩集『葦を焚く夜』を刊行し詩人としても活動。1959年からは鉄彫刻を始めました。宮城教育大学教授、福島県の会津短期大学講師などを務め後進の指導にも尽くします。また美術評論家としても活躍しました。1986年1月3日福島県富岡町小浜海岸を散歩中に転落し不慮の事故死を遂げます。

没後11年目にして建立(1997年建之)されたこの墓石は、子息の矢野創が「ふたり墓(永遠の同伴者)」というタイトルで作成。亡くなった地の福島県の山渓から掘り出した丸石を使用し、ありのままに自由に生きた美術家その人に見立てます。この墓は人生の終着駅として閉じず、むしろ死してなお、訪れる人に豊かなイメージを発する源でありたいと表現したそうです。

西郷従道  埋葬場所: 10区 1種 1側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/saigou_jt.html

根津嘉一郎  埋葬場所: 15区 1種 2側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nezu_k.html

小笠原忠忱  埋葬場所: 2区 1種 4側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ogasawara_ta.html

横井英樹  埋葬場所: 9区 1種 1側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yokoi_h.html

井手則雄  埋葬場所: 12区 1種 6側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ide_n.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

当記事はTheNewsの提供記事です。

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