歴代総理の胆力「原敬」(3)原政権の誕生は時代の流れの象徴だった

アサ芸プラス

2019/8/8 05:55


 わが国の政党政治の立役者にして、抜群の政治力を発揮した原敬の本格的な社会への第一歩は、新聞記者から始まった。「郵便報知新聞」「大東日報」の記者をやる中で、フランス語の堪能さと人一倍の努力家が買われ、外務省に採用された。

ここで出会った人物が、「陸奥外交」で知られた第二次伊藤博文内閣の外務大臣、陸奥宗光であった。人間は人との好運な出会いがあってこそ、伸びるべき人物は伸びるチャンスを得る。陸奥が松方正義内閣で農商務大臣として入閣した際、原はこの陸奥大臣の秘書官に抜擢され、これを機に二人は「反藩閥」の同志となったのであった。

その後、原は陸奥外相の下で外務省通商局長、そして次官のポストを得ることになる。やがて、朝鮮特命全権公使に任命されるが、このあたりでもはや人脈づくりは整ったとして官僚生活にピリオド、改めて記者生活に戻った。「大阪毎日新聞」に編集総理として入社、やがて社長を務めたあと政友会に入党、ここで念願の政治家への夢を実現させたものだった。「大阪毎日新聞」の社長を辞めたのも、社内の中立主義の空気にイヤ気がさしてのものであり、ここでも気骨と闘争心のカタマリを証明した形だったのだ。

その後、第四次伊藤博文内閣で逓信相として初入閣、第一次・第二次西園寺公望内閣と山本権兵衛内閣では内相と重用され、今の岩手県盛岡から総選挙に出馬、衆院議員として議席を得たのであった。衆院議員となった後は、大隈重信、西園寺公望のあとを受けて第三代政友会総裁に就任。ここでようやく「初の政党内閣」は手の届くところまで来たのだった。陸奥の死後、陸奥と原の人脈は一致して政党内閣の実現を目指したものであった。

原政権は、寺内正毅内閣が「米騒動」などで民衆の怒りを買い、退陣に追い込まれたことで巡ってくる。ここに明治維新以来50年を経て、それまで大隈重信(佐賀)、西園寺公望(京都)以外は薩摩(鹿児島)と長州(山口)で多く占められていた政権は、初めて「一山百文」とヤユされた東北の南部藩出身という異例の形で発足したのだった。この原政権の誕生は、まさに民衆の意識の変化、大きな時代の流れの象徴ということでもあった。原内閣は、全国的なブームを起こし、「平民」という言葉がいち早く流行語にもなったのである。

「初の政党内閣」を率いた原は、「太く短くやる決心だ」と語ったうえで、閣僚は民衆の期待に応えるべく藩閥の圧力をはねのけ、陸・海相と外相を除いてすべて政友会から登用した。そのうえで、原は大の政党嫌いにして原の政敵でもあった元老・山県有朋に対して「情と理」をからめての懐柔策にも腐心、スムースな政権運営を目指したのだった。

しかし、振り返ればその実績は圧倒的なものではなかった。その背景には、第一次世界大戦終結による不況の深刻さ、頻発する疑獄事件の対応などに追われ、骨太な政策を打ち出す余裕がなかったという不運さがあった。外交的には、前内閣のシベリア出兵の後始末に明け暮れたにとどまった。内政的には当時、過熱一途だった“試験地獄”を解消するために大学や高等学校の拡充に着手したほか、政党政治の基盤強化を目指しての小選挙区制導入を含む、選挙法改正にとどまったと言える。

■原敬の略歴

安政3(1856)年2月9日、陸中国(岩手県)盛岡城下の生まれ。生家は旧南部藩家老職。分家独立して、平民に。第四次伊藤内閣逓信相を経て、衆議院議員当選。総理就任時、62歳。大正10(1921)年11月4日、東京駅にて暗殺される。享年65。

総理大臣歴:第19代1918年9月29日~1921年11月4日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

当記事はアサ芸プラスの提供記事です。

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