50年後には「過去の遺物」になっていそうなものは? 専門家に大予想してもらいました

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Image: Chelsea Beck (Gizmodo US)

50年後には、私自身も「過去の人」だけどね。

一昔前、アメリカの一軒家といえば地下室がついていて、それは映画鑑賞やコレクションを楽しむことのできる「イカした」設備でした。ただ、それも今や昔。現状はほこりだらけの物置状態になっている人も多い様子。時代遅れのビデオデッキやコード付き電話、ウィンドウズ95以前によく使われた大きなパソコンモニターなど、90年代の遺物の倉庫になっています。

わざわざゴミを置くために地下室を作るなんて、ミレニアル世代はやらないでしょうから、これからどんどん廃れてくるかもしれませんね。そもそも、マイホームっていう言葉すら、死語になりつつありますから。この先、気候変動が深刻化したら、みんな共同シェルターを借りて、小さなロッカーに荷物を入れるような時代が来るかもしれませんし。

こんな風に、今は「斬新な新技術」であっても、将来「価値のない過去の遺物」になる可能性は大いにあります。今週のGiz Asksでは、数名のテクノロジー史研究家の先生方に、今後50年で「無用の長物」になりそうなものを予想していただきました。

ピーター・ノートン氏


バージニア大学の科学技術・社会学准教授。専門はテクノロジー史の研究。

もし2019年の私が、毎日大学の講義に黒板とチョークを使っていると知ったら、50年前の未来学者たちは予測研究のさじを投げたことでしょう。50年前のNASAでは、20世紀末までに月面基地ができて、有人の火星探査が行なわれていると考えていました。逆に、SNSやウィキペディア、自由に乗り捨てできるドックレスのスクーターを予測した人はいませんでした。

「50年後にはなくなっているだろう、と予測するものは?」という質問を当時の人たちにしたら、きっと「紙、石炭による火力発電所、亜音速旅客機」という答えが主流だったはず。でも、50年たった今、どれもまだまだ現役で、50年前に登場したボーイング747は今も生産中です。

古い技術が完全に消滅する、ということは実はめったにありません。ホワイトボードとLEDスクリーンが登場してからも、黒板とチョークを使って授業しています。固定電話も減ってはいますが、電話自体はなくなっていませんし、フィルム式のカメラがすたれても、カメラは今もあります。タイプライターは使いませんが、タイピングそのものは今もあります。また、ビニール盤のレコードのように、マニア向け商品として息を吹き返す「別格アイテム」もあります。こうしてみると、今後50年以内に「遺物」になるものは、予想以上に少ないのかもしれません。

何らかのイノベーションが起きて、もともとあったものが役に立たなくなったとき、私達はそれを「時代遅れ」と呼びます。でも、そんなこと本当にあるのでしょうか。掃除機があっても、ほうきは使いますし、自動車があれば自転車はいらない、ということもありません。飛行機が誕生してからも、乗客は電車を利用します。実際、これら3つのケースを見ると、昔からあるテクノロジーのほうが優れている点もあるのです。

たしかに「テクノロジーの陳腐化」は現実に起こりますが、商業主義がそれを誇張しているふしもあります。「新商品は、これまでのものとはまったく違います」というのがビジネスの王道で、売り手側は消費者に対して「この商品は他のものよりも役に立つ」、そして何より「今までのものより優れている」と言いたいですから。企業は、自分たちのイノベーションが既存の市場に加わるというだけでなく、まったく新しい市場を創り出す、と投資家にアピールします。

イノベーションの多くは、ニーズを満たすことよりも新たな需要を生み出すことに力を入れ、問題の解決よりもマーケットを作り出すことを重要視するものです。

ハイテクイノベーションこそが今ある問題を解決するもの、というバイアスがあり、「陳腐化」という概念がそれを守っています。逆に言えば、今あるものを陳腐化するものでなければ、それがどんなに魅力的でも、必要なものだとは言えません。

たとえば、ハイテクの自動運転車はとても魅力的で、安全で、便利で、エキサイティングなので、いくらお金をかけてもいいから手に入れたくなります。ただ、今私たちが直面している問題を解決するのに、実はハイテクな無人運転車は必要ありません。私たちはただ、自分たちの希望やニーズを満たしつつ、運転の労力を減らしたいだけで、それに必要なものは、実はもうすべてそろっているんです。暮らしやすい密集度、歩きやすさ、サイクリング、そして基本的な公共交通機関があれば、ハイテクユートピア人が語る素晴らしい未来像なんかより、はるかに多くのことを実現可能になるのです。

50年後に何が時代遅れになっているか、というのはわかりませんが、ハイテク機器が生まれたからローテク版が陳腐化する、というわけではありません。古臭いとされる自転車でも、新たな性能が付加されることで、ドックレススクーターのような超ハイテクな人気アイテムを凌駕するイノベーションが起きるかもしれません。そうなれば、逆陳腐化現象が起きる可能性もあります。

もしかしたら、「ハイテクは常にローテクよりも優れている」、あるいは「消費主義の解決策は、さらなる消費主義」という、人々を惑わす迷信こそが時代遅れになるかもしれません。今や完全アナログから、スーパーハイテクまで、幅広い選択肢があるにもかかわらず、私たちはそれを無視しすぎています。今後50年間で、そんなスペクトル全体を再発見していきたいと思います。それが、確実に賢い選択をするための、唯一の方法なのです。

エイミー E.スラトン氏


ドレクセル大学、歴史学教授。History & Technologyの共同編集者 。

テクノロジーは人間が作り出したものです。その歴史的起源やインパクト、つまりそれが人間の文化にいかにして入り込んだのか、という経緯を考えると、陳腐化という概念自体が間違っているように思えます。

テクノロジーというのは、イマジネーションの衝動に入り込んでくるものだと思うのです。テクノロジーは自立した物質的な人工物、つまりアーティファクトとして、人間の特異なニーズや欲求を満たし、そのニーズや欲求の消滅とともに消えてしまいます。

私たちはこれまで分析的なアプローチでテクノロジーを生み出してきました。今後50年以内に起こり得る大きな技術的変化について真剣に考えるなら、それはつまりテクノロジーへのアクセスパターンの変化について考えることになるのだと思います。言い換えるなら、私たちが「アクセス、コントロール、リスク」といった言葉で疑問を組み立てたとき、テクノロジーと人間との関係性の変化を理解できるようになるのだと思います。

たとえば、今から50年後、清潔な水や新鮮な食料を手に入れられる人もいるでしょうが、それにありつけない人も出てくるでしょう。生態系の喪失、難民人口の急増、そしてそれに伴う世界規模の経済危機により、こうした需要を満たすためには、さらにコストがかかるようになっていると思われます。

また、化石燃料を使った航空旅行や寿命の短い電子機器、安価なプラスチック製品を使える人々がいる一方で、海沿いのコミュニティや農業経済、そして海面の上昇や異常気象に耐えられない貧しい国々の機能などはすべて消滅しているでしょう。テクノロジーについて深く予測した場合、「陳腐化」というのはこういうことになります。

アメリカでは、富がますます集中し、市場論理がますます強くなるにつれて、もともと少なかった公共利益への投資がさらに縮小していくと思われます。「市営バスと地下鉄」も例外ではないでしょう。テクノロジーは富を効率的に向上させることを前提としたものではありませんから、政治家やエンジニアの公共交通システムへの関心もまた、民間の自動運転車などのイマジネーションに向かうことになるでしょう。

そもそも「テクノロジーには寿命があるから」という考え自体が問題なのかもしれません。私たちは発明、イノベーション、生産(および陳腐化)というプロセスを「簡単に追跡できる、文脈のない」いつか誰かが来た道、ととらえることに慣れすぎているからです。産業資本主義が利潤の源泉となる余剰価値のために生産活動を追及するのと同じです。

だからこそ、私は「史上初」あるいは「史上最高」を強調するテクノロジーはあまり好きではないし、将来的に何が導き出され、何が残り、あるいは失われていくのか、と考えるのも好きではないのです。

デビッド・エドガートン氏


キングスカレッジ・ロンドンで科学技術史と現代イギリス史の教授職に就く。『The Shock of the Old: Technology and Global History since 1900』の著者(2019年)

奇妙で素晴らしく、変幻自在なコンセプトである「テクノロジー」を語る際、私たちはそれと時間の概念を切り離すことができません。私たちはテクノロジーというものを「ある時点で時代遅れとなり、終わりを迎え、新しいものに置き換えられるもの」と考えています。この考え方は根深くて、1つの時代は特定の機械やプロセスによって特徴づけられる、と考えられています。今の時代を特徴づけるキーワードは、AIになるでしょう。

こう考えると、「時代を先取り」している人がいる一方で、少数のリーダー達が示す「未来」の重要性を理解していない人も多く、そういった人たちは間違いなく「時代遅れ」ということになるでしょう。

ただ、この支配的な考え方自体、時代遅れなのです。それは私たちと付き合いの長い「テクノロジー」を、ナイーブに、プロパガンダ的に扱う、特徴的な語り口です。

私達の世界の中核となるアーティファクトを、もっと良い方向から見ていきましょう。常に古いタイプのものを置き換えるのではなく、新しいものが古いものに追加されるという議論もいいですね。既成概念にとどまる必要はありません。「古い」と思われているものが、変貌を遂げることもあります。古いけれど、斬新、というものも存在します。同様に、新しいと言われるものでも、とても古い要素が含まれていることもよくあります。もちろん、次第に使われなくなるものもありますが、復活を遂げるものもあります。

では、一体、あるものを消滅させるプロセスとはどんなものでしょうか?スペアパーツや燃料が何らかの理由で手に入らなくなるときでしょうか。もっと性能の良いものが登場して、古いものを使うのをやめて新しいのを買った方がいい、となったときでしょうか。ある機械や製品の所有や生産が違法とされた時かもしれません。フロンガスは、こういう経緯で激減しましたし、1930年代と比べて化学兵器も圧倒的に縮小しました。

今後50年間でどんな「テクノロジー」から解放されたいか、とたずねたら、多くの人が「石炭を燃焼させ、使用する機械」と答えるでしょう。化石燃料を使った、内燃機関を持つ機械なんかも挙げられるかもしれません。ただ忘れてはいけないのは、私たちがもし本当に望むのなら、目新しいものを取り入れなくとも、こうしたものを排除できるということです。すでにある代替手段を広めれば、今すぐにでも実現できるのですから。

コリーナ・シュロムス氏


ロチェスター工科大学の歴史学准教授。

新しいテクノロジーは古いものに置き換えられるというよりは、古い技術を補完するために使われ、人間はその両者をうまく使い分けてきました。

たとえば、情報通信技術の分野では、電信が郵便制度に取って代わったわけではなく、それぞれが別の用途で使われました。新聞は選挙の開票結果のように速報性のある情報を伝えるために電信を使い、政治解説などスピードを求められないものには圧倒的に安価な郵便を利用しました。

ただ、ここで特筆すべき例外が、電信です。2006年にウェスタンユニオンがアメリカ最後の商業電信を打って以来、モールス信号の電信でやり取りされた情報は、インターネットという媒体を通じて送られるようになりました。

確かに、時間の経過とともに情報技術は変化し、著しい変貌を遂げた瞬間もありました。用途、目的、状況、とすべてが進化したのです。たとえば、アメリカの郵便制度は19世紀初頭、ニュースを運ぶ媒体として機能していました。印刷業者の言い値で料金は決まり、1832年には新聞が重量ベースで郵便事業の95%を占めつつ、歳入全体としてはたったの15%にとどまっていました。

フランスの法律家、アレクシス・ド・トクヴィルが1831年に言ったように、郵便の存在によって情報が「野蛮な森」、つまり一般社会に広がるようになり、歴史家リチャード・ジョンは「最新の政治問題を討論する国民共同体を作り上げた」と言いました。まだ高価だった郵便に資金を投じるのは、新聞の流通に貢献した企業だったのです。

1840年代になって議会が郵便料金の大幅値下げに踏み切ると、アメリカの人々は家族や友人と定期的に連絡を取るようになりました。彼らは愛する人々からの便りを、首を長くして待つ、熱心な手紙作家になったのです。そしてその過程で、郵便システムはニュースの媒体からSNS的なものへと姿を変えました。

今後、変化する可能性がある情報通信技術は、テレビとラジオでしょう。ニールセンの調査によると、ミレニアル世代のテレビ視聴時間は団塊世代の半分、ラジオも3分の2に減少しています。これまでの歴史を振り返れば、動画やオーディオコンテンツが時代遅れになることはなさそうです。ただ、配信方法がPodcast、ストリーミングあるいはオンデマンドなのか。決済方法や視聴者層はどう変わっていくのか、など、視聴方法は未知数なのです。

トーマス・ヘイ氏


ウィスコンシン大学ミルウォーキー校、歴史学准教授。専門はテクノロジー史とビジネス社会史など。

この15年間を一言でいえば、あらゆる消費者向け電子デバイスがスマートフォンに「食われていった」ということになります。カメラやゲーム機、従来のノートパソコンが使われなくなる日も近いでしょう。しかし、今後50年間でそのスマートフォンもまた、別の何かに取って代わられることを期待しています。それが何なのか、まだ誰にもわかりませんが、利用率の高い時計と眼鏡にデザイナーたちが注目していることは見て取れます。

ただ、私が今後衰退していくと予測しているのは、ネクタイです。ネクタイは多くのデバイスよりもずっと前から使用されていますが、私自身はこの10年ほど、ネクタイをつけたことがありません。それだけ、カジュアルな服装が受け入れられるようになっています。

美術史家のアン・ホランダー氏が著書『Sex and Suits』で説明しているように、スーツとネクタイの組み合わせが生まれたのは、1700年代後半のことです。当時、華やかな男性服は時代遅れになり、かさばるコッドピースに代わって男らしさを誇示するアイテムが必要になったのです。ヒトラーの存在が口ひげを過去の遺物にしたように、ネクタイに引導を渡すのはドナルド・トランプ大統領になるのでは、と踏んでいます。

当記事はギズモード・ジャパンの提供記事です。

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