泣いた「いだてん」26話「人見絹枝物語」。でももっと純粋に感動できたのではないかと思わなくもない

エキレビ!

2019/7/14 10:00

「男は負けても帰れるでしょ。でも女は帰れません」
「日本の女子選手の夢が、希望が、私のせいで断たれてしまう」

1928年のアムステルダムオリンピックに日本女性として初めて出場した陸上選手・人見絹枝(菅原小春)は、期待されていた100メートル走でまさかの予選敗退を喫したあと、予定になかった800メートルで勝負したいと訴えた。これに監督の野口源三郎(永山絢斗)や男子の陸上選手たちは、彼女には800メートルの経験がないだけに猛反対するが、人見は冒頭にあげたセリフを涙ながらに発して、出場を押し切る……。先週7月7日放送の大河ドラマ「いだてん」第26話での一幕だ。

「いだてん」では、教師として女子スポーツの普及に尽力したが、その途上、関東大震災で行方不明となった増野シマ(杉咲花)の意志を、人見が引き継ぐ形で描かれてきた。第26話ではそれがついに実を結んだ。


シマや二階堂に後押しされ、人見は国際舞台へ
800メートルで決勝まで進んだ人見は、スタートダッシュするも、フィールドで見ていた野口たちの「下がれ、下がれ」の声を受けて、いったんはほかの選手たちの後ろにつき、後半に入って次々と抜いていった。その途中、未経験の競技ゆえ足が思うように動かなくなるが、それでも野口たちの「腕を思い切り振れ」との指示を受けて無我夢中で力走する。ラストスパートではドイツのラトケとの死闘の末、2位となり、日本女子初のメダリストとなる。自身もダンサーとして国際舞台で活躍する菅原小春は、まるで人見絹枝が乗り移ったかのような気迫であった。

人見にはシマ以外にも恩師がいた。それは二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)の校長・二階堂トクヨ(寺島しのぶ)だ。アムステルダムオリンピックの2年前、国際大会(国際女子競技大会)への出場権を獲得したあと、母校を再訪した人見は、二階堂から「ご幸福ですか?」と訊かれる。しかし人見は走るたびに、心ない観衆から「化け物」「六尺女」などと中傷を受けていた。そのため国際大会の出場は辞退すると告げ、二階堂の質問に対しても「結婚して子を産むこと、それを幸福と言うならば、私は幸福などなれないし、ならなくて結構です」とまで言い切る。だが、これに二階堂は「それは違うわよ、絹枝さん。あなたはメダルも取るし、結婚もする」「どちらも手に入れて初めて女子スポーツ界に革命が起きるんです」と諭す。競技スポーツにもオリンピックにも否定的な二階堂だが、人見には品と恥じらいがあり、負けん気もあると、国際大会への出場を後押ししてくれたのだ。

国際大会に出場した人見は総合優勝を果たす。さらに国内大会では100メートルで世界新記録を打ち立てた。そこへ来てアムステルダムオリンピックで女子の陸上競技が採用されることが決定する。

しかし人見がオリンピックに出場するまでには、ひと悶着あった。大日本体育協会(体協)では、理事の野口が女性の身体に陸上は向かないと反対し、これまで女子スポーツの普及に努めてきた金栗四三(中村勘九郎)でさえ、女子には自分がオリンピックで体験した周囲からのプレッシャーには耐えられないと懸念を示したのだ。しかし、ここで陸上には関係のないはずの田畑政治(阿部サダヲ)が、「男でも女でもいいから、勝てる選手出してよ」と口を挟んできた。さらには「選手の気持ちを面倒見るのが監督であり、我々(体育関係者)でしょうよ」「選手に全部背負わせるから、プレッシャーに押しつぶされて実力が発揮できんのだよ!」と畳み掛ける。これを受けて体協名誉会長の嘉納治五郎が「人見絹枝は負けん! 必ず勝つ!」と吠えると、人見の出場が決定したのだった。

果たして、人見はその期待に応えてメダルを日本へ持ち帰る。人見だけではない、三段跳びでは織田幹雄(松川尚瑠輝)が日本勢初の金メダルを獲得、水泳では鶴田義行(大東駿介)が200メートル平泳ぎで金、800メートルリレーが銀、高石勝男(斎藤工)が100メートル自由形で銅とメダルラッシュとなり、水連理事の田畑を歓喜させる。

人見死すとも、その遺志は受け継がれる
帰国後、人見はラジオ放送で、かつてシマが手紙で「あなたに対する中傷は世界へ出れば賞賛に変わるでしょう」と励ましてくれたことを明かす。そして実際そのとおりであったと、「だからみなさん勇気を出して走りましょう、跳びましょう、泳ぎましょう。日本の女性が世界へ飛び出す時代がやって来たのです」と、女性たちに向けて訴えかけた。それとあわせ、このころ和歌山の高等小学校の生徒だった一人の少女が力泳する姿が映し出される。のちにオリンピックで活躍する前畑秀子(上白石萌歌)だ。

第26話のラストでは、アムステルダムから帰国した人見がメダルを持って二階堂を再訪する。このとき、「次は結婚ね」と言う二階堂に、人見は「もう少し走ります。私は走るのが大好きです。私の走る姿を見て勇気づけられる人がいるかぎり、私は世界中を駆け巡ります」とほほ笑みながら応えると、出された洋菓子のシベリアをほおばった。窓の外からダンスの音楽が聴こえ、いつしか人見も後輩たちのダンスの輪に加わる。そんな楽しげな様子に、「3年後、人見絹枝は24歳の若さでこの世を去ります」と美濃部孝蔵(森山未來)のナレーションがかぶせられ、「人見絹枝物語」は幕を降ろす。あまりに早すぎる死ではあったが、それでも彼女の遺志はさらに後進へと引き継がれていくことを示唆する、そんな締めくくりだった。

今回の第26話については、放送前からツイッターの「いだてん」公式アカウントが「#人見絹枝に泣いた」というハッシュタグを用意してPRするなど、ちょっとした祭りの様相を呈した。実際、人見絹枝の物語は感動的だったが、事前に「泣ける」といった前情報がなければ、もっと純粋に感動できたのではないかという気もしないではない。まあ、公式の宣伝に乗っかって、放送前に人見絹枝について記事にしていた私が言うのもどうかとは思いますが。なお、ドラマでは脚色されたところもちらほらあったが(実際のアムステルダムオリンピックの陸上監督が野口源三郎ではなかったことなど)、どこからが史実で、どこからが脚色であったのか、くだんの記事と対照しつつ確認いただければ幸いである。

スポーツへの政治の介入を促す田畑
ところで、第26話は、主人公の田畑政治の発言に危うさを感じさせる回でもあった。あらかじめ断っておくと、それは田畑が人見絹枝に面と向かって2度も「化け物」と口にしたことではない。


1度目は、アムステルダムオリンピック出場にあたり、田畑の勤める朝日新聞社での人見のインタビューに乱入したときだが、このとき彼は「化け物じゃありませんな」と、実際に会ったら世評とは印象が違ったという意味で「化け物」という言葉を使っていた。2度目は、帰国した日本選手団を国府津駅で迎えた際、人見と握手しながら「やっぱり化け物だな」と口にしたが、こちらは、オリンピックで予想以上の活躍を見せたことへの賞賛の意から出たものだろう。シマが人見への手紙に書いた「あなたへの中傷も世界に出れば賞賛に変わる」という言葉を、田畑が現実化したともいえる。

こうして振り返ると、田畑の言う「化け物」はけっして悪口ではなかったことがわかるだろう。これに対し、私が危うさを感じたのは、たとえば第26話の冒頭、前回からの続きで田畑が大蔵大臣の高橋是清(萩原健一)を訪ねた場面で、アムステルダムオリンピックへの選手派遣費を引き出すべく高橋を説得するにあたり、「富める国はスポーツも盛んで、国民の関心も高いんです。先生方もスポーツを政治に利用すりゃいいんですよ」と促したことだ。

政治のスポーツへの介入といえば、1916年のベルリンオリンピックが第一次世界大戦のせいで中止になり、金栗四三が全盛期にもかかわらず出場を断念せざるをえなかった苦いできごとが思い出される。それを知ってか知らずか、田畑はいとも簡単に「カネも出して口も出せばいい」と政治家相手に言い放ったのだ。

さらに先述の人見絹枝の出場が議論された体協の会議では、田畑は女でも男でも勝てる選手を出せと訴えて、体協会長の岸清一(岩松了)から「勝ち負けにのみこだわるのはオリンピックの精神に反する」と諌められるも、懲りずに「それは明治の話だよ~。いま、昭和だよ~。参加することに意義……ないわ~!」と反論していた。あからさまな勝利至上主義である。このとき田畑は国民の思いを代弁するかのような口ぶりだったが、彼としてみれば、国からカネを出してもらった以上(それも自分がぶんどってきたものだ)、成果を出さねばならないという考えもあったはずだ。

ドラマではかなり脚色されているが、田畑が、オリンピックで日本選手が活躍すれば、国内でもスポーツが盛んになるという考えを終生一貫して持ち続けたことは事実である。彼が設立に参加した水連(大日本水上競技連盟)も、発足まもない1926年以来、オリンピック第一主義を方針に掲げていた。

田畑の考えは、いわばトップダウン型のスポーツ振興策である。これに対して、これまで「いだてん」で描かれてきた嘉納治五郎や金栗四三のやり方は、まずスポーツを楽しむ人を増やすことに力を入れ、裾野を広げながら、そのなかからトップアスリートを育てていく、草の根型というべきものだった。オリンピックについてもまず参加してみるが、結果よりもプロセスを重視するという姿勢をとった。それを田畑は、オリンピックは勝たなければ意味がないとひっくり返したわけである。

このように「いだてん」では、国のスポーツへの介入を促し、オリンピックでの勝利を至上命令とした張本人として田畑が描かれている。ただし、史実では、スポーツ関係者が国を取り込もうとしたというよりは、むしろ国がスポーツを取り込もうとしていたというのが正しいようだ。

じつはオリンピックへの選手派遣のため初めて国庫補助金が出たのは、アムステルダム大会の前、1924年のパリ大会のときである。詳細は省くが、このとき文部省と内務省が、選手派遣費を支出するスポーツの主管庁の座をめぐって激しく対立した。文部省は明治以来ずっと学校体育を主管してきた立場から、スポーツは「体育」にして教育の一部だと譲らない。これに対して内務省は、スポーツにおける「教育的」なものは一部にしかすぎず、その全体は(同省が主管する)保健行政に属するものとみなすべきだと主張した。結論からいえば、この問題は1928年1月、文部省を主管とすることで決着がつく。同年のアムステルダム五輪では、選手派遣費6万円を文部省が支出している(スポーツの主管庁問題の経緯については、坂上康博『権力装置としてのスポーツ 帝国日本の国家戦略』講談社選書メチエにくわしい)。

アムステルダムで自信をつけた日本選手たち
史実では政治からスポーツ、ドラマではスポーツの側から国へと、歩み寄る方向は逆ではあるが、スポーツに対し国が大きな影響力を持ち始めたのが、大正から昭和にかけての時期だったことは間違いない。そのなかにあって、日本選手たちは国民の期待に応えていよいよ活躍を始めた。

しかしアムステルダムオリンピックが終わった時点で、田畑はそれがまぐれなのか実力なのか、わかりかねていた。そこで第26話でも描かれていたように、「彼ら(日本水泳陣)が肌で感じた手応えを知るため」、帰国した選手たちが東京に到着する前に、途中の国府津駅まで迎えに出かけている。田畑の後年の述懐によると、このとき選手の実感を聞いたうえで、もし彼らが絶望していたのなら、水連のオリンピック第一主義という方針を転換し、国内普及活動に専念つもりであったという(ベースボール・マガジン社編・発行『人間 田畑政治』)。しかしそれは杞憂に終わり、選手たちが、これから4年間みっちりやれば、強豪アメリカにも十分勝てると自信満々に述べたのは、ドラマで見たとおりである。

余談ながら、神戸港から列車で帰京する選手たちが国府津駅で途中下車したのは、おそらくそれまで列車を牽引してきた蒸気機関車を電気機関車に付け替えるため、時間的に余裕があったからではないか。当時、東海道線は東京から国府津までの区間が電化されたばかりだった。

昭和に入るころ、東海道線をはじめ国鉄の幹線鉄道も徐々に電化されつつあった。すでにドラマのなかでたびたび描かれているように、大正末にはすでにラジオ放送が開始され、中等学校野球(現在の高校野球)などスポーツの実況中継も始まっていた。甲子園球場が「東洋一のスタジアム」とのふれこみで完成したのは1924年のことである。時代はまさに大きく変わりつつあった。きょう放送の第27話のサブタイトルもずばり「替り目」だ。予告ではいきなり、ある人物が亡くなったという“ネタバレ”があったが、それも含めて気になるところである。(近藤正高)

※「いだてん」第26回「明日なき暴走」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:大根仁
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)

当記事はエキレビ!の提供記事です。

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