考察「なつぞら」感動の電話シーンはどこまで現実を再現していたのか。昭和電話事情を振り返ったら凄かった

エキレビ!

2019/7/7 09:45

NHKの連続テレビ小説「なつぞら」では、第13週の終わりに、ヒロイン・奥原なつ(広瀬すず)の育った北海道・十勝の柴田家に電話が取りつけられ、東京に住むなつと家族が連絡をとりやすくなった。先週放送の第14週では、さっそくこの電話が活躍した。十勝の家に、なつの実妹・千遥(清原果耶)が突然現れたと、なつの養母の柴田富士子(松嶋菜々子)が彼女の勤務先の東洋動画まで電話をかけて伝えてくれたのだ(7月1日放送の第79話)。千遥は、戦争で実の両親を失ったあと、なつと兄の咲太郎(岡田将生)とも終戦直後に生き別れ、10年以上行方不明になっていた。富士子から知らせを受け、なつは会社を早退して下宿先に戻ると、咲太郎とともにあらためて十勝に電話をかける(同2日放送の第80話)。

千遥は、姉たちには自分がここへ来たことは黙っていてほしいと伝えていた。しかし富士子たち家族はなつが千遥をずっと探していたのを知っているだけに、伝えないわけにはいかなかった。なつからの電話を取った富士子の父・泰樹(草刈正雄)は、千遥を電話口に出す。しかし千遥は、なつに替わって電話に出た咲太郎がいまからそっちに行くと伝えた途端、電話を切ってしまう。千遥は、いままで兄と姉の記憶はほとんどなかったのが、二人の声を聞いてすぐ自分のきょうだいだとわかった瞬間、何を話せばいいのかわからなくなってしまったという。そして今度は千遥のほうから電話をかけた。受話器を取ったなつが、咲太郎とすぐにそっちに行くから待っていてほしいと言うと、千遥も「私も……会いたいです」と応える。それまで十数年も離れ離れに暮らしていたきょうだいが電話を通じて心を通わせた瞬間だった。


1950年代における市外通話の正しい手順
さて、ここまであげたシーンで、私が感心したことがある。それは、東京のなつと十勝の家族が電話でやりとりする際、必ず電話局の交換手を介していたことだ。たとえば、第13週の終わりで、十勝の家から初めてなつの下宿先である新宿のおでん屋「風車」に電話がかかってくる場面では、なつが受話器を取ると、まず交換手が「北海道音問別(おといべつ)4141番からです」と相手方の番号を伝えてから電話をつないだ(6月29日放送の第78話)。千遥が十勝の家に現れたとき、なつが確認のため「風車」から電話をかける場面でも、泰樹が受話器を取ると交換手が「お出になりました。どうぞ」と取り次いでいた。

「なつぞら」の舞台である1950年代には、市外に電話をかける場合、交換手が手動で回線をつないでいたため、こうした手順を踏む必要があったのだ。市外通話をしたいときは、まず電話の受話器を上げると電話局の交換台に通じるので、そこで相手方の電話番号を伝えてつないでもらうというシステムである。このあと1960年代以降には、ダイヤルを回すと(のちに登場したプッシュホンではボタンを押すと)回線が自動的に相手方につながるシステムが順次整備されていった。これを「自動ダイヤル化」「ダイヤル化」「自動即時化」などと呼んだ。全国にわたる自動ダイヤル化が完了したのは1979年のことである。

電話をかける際、交換手を介して先方を呼び出す光景は、宮崎駿監督の「となりのトトロ」でもあったし、ほかにもドラマや映画で1950年代以前が舞台になる場合にも、登場人物が電話をかけるとなると、必ずこの手順を踏まえていた。それが最近の昭和物のドラマでは朝ドラも含め、この手順をすっ飛ばした描写がたびたび見られ、どうも気になっていた。「なつぞら」の前の朝ドラ「まんぷく」でも、時代はまだ1950年代のはずなのに、登場人物が大阪府の泉大津から大阪市内に電話をかけるとすぐに相手が出るという場面があった。

「なつぞら」電話の描写における“ウソ”
その点、「なつぞら」は、電話の手順一つとってもおざなりにせず、できるかぎり当時の習慣を忠実に再現しようというスタッフの姿勢がうかがえる。私が感心したのもそのためだ。ただし、「なつぞら」の電話の描写にも、じつは幾分かのウソが含まれる。一番大きなウソは、電話が相手方につながるまでの時間だ。

実際のところ、自動ダイヤル化以前に市外へ電話をかける場合、交換手に通話を申し込んで即座につなげてもらえることはほぼありえず、しばらく待つ必要があった。それというのも、交換手は手動で、空いている回線を探してつないでいたからである。たとえば、東京から名古屋や大阪に電話をする場合、混雑時には8時間近くも待たされるのが普通だった。同じ東京都内の府中市から都心にかける場合ですら、3時間半以上待たされることが珍しくなかったという(吉見俊哉・若林幹夫・水越伸『メディアとしての電話』弘文堂)。

滋賀県の彦根市では、1960年代半ばにいたっても、市外への通話を申し込むと、同じ県内の大津までは2時間、京都までは4時間40分、大阪までは4時間30分、東京までは7時間かかってようやく通話できた。当時、彦根から大阪までは電車で1時間44分もあれば行けるようになっていたので、彦根市民が大阪と連絡をとろうとしたら、電話が通じるのを待つよりも、自分の足で往復してしまったほうがよっぽど早かったことになる。事実、彦根にあった大手電機メーカーの工場では、大阪へ品物を発送しても、それを伝える電話がなかなかつながらず、いつ届くかやきもきした先方が確認のため大阪から自動車を飛ばして来ることもよくあったとか(草柳大蔵『ルポルタージュ ああ電話』ダイヤル社)。彦根市でダイヤル自動化が実現したのは1966年だが、それよりも先に彦根と大阪のあいだは名神高速道路や東海道新幹線で往き来できるようになっていた。このほか、ダイヤル自動化以前には、電話がつながらないと通話の申し込みを途中で断って、代わりに電報を打つ人も多かったようだ(藤井信幸『テレコムの経済史 近代日本の電信・電話』勁草書房)。

こうした当時の事情からすると、東京と十勝のあいだでも、実際に電話をかけるとなると、かなりの時間待たされたに違いない。そうした状況は大都市から離れれば離れるほど著しかったというから、下手をすれば、東京から名古屋や大阪に電話するよりもかなり時間がかかったのではないか。ましてや、いったん電話を切って再度かけ直すとなると、当然ながら、あらためて通話を申し込まねばならなかった。実際に千遥がそうしたとすれば、電話がつながるのを待っているあいだに十数年ぶりに肉親の声を聞いた感慨も薄れて、その後の感動の場面もなかったかもしれない。

このあたりは、再現よりも物語の進行を優先せねばならず、悩ましいところではある。進行を妨げないよう、ある程度の簡略化はやはりやむをえないのだろう。江戸時代以前を舞台とする時代劇や大河ドラマなどでは、その手の簡略化が少なくない。たとえば、江戸時代には、庶民や下級武士が、たとえ藩主と面会が許されても、直接口を聞くことはできず、家臣を介して話をせねばならなかった。実験的な試みも多かった1970年代の時代劇「天下御免」では、若き日の平賀源内が高松藩主と面会した際、両者が言葉を交わすたびに、あいだに入った何人もの家臣がリレーしながら伝える様子が戯画的に描かれていた。もちろん、普通の時代劇でこれをやると物語が成立しないので、こうしたシチュエーションでは簡略化して、直接会話させてしまうか、せいぜい家臣を一人置いて話を取り持ったりする。

もっとも、江戸時代に藩主と会話した人間はとうに亡くなっているが、交換手を介して電話をかけた経験を持つ人は、まだたくさん存命している。そうした世代にとって、先にあげた「まんぷく」のように、交換手をすっ飛ばして電話がつながる場面は違和感があったのではないだろうか。そう考えると、「なつぞら」での描写は現実に必ずしも忠実ではないものの、ほどよい簡略化だともいえる。まあ、通話に時間がかかるところまで含めて物語に取り込んだなら、それはそれで面白い展開になりそうな気はするが。

「なつぞら」に関してもう一つツッコんでおくと、なつの下宿先「風車」の店内にある電話は、1959年に登場したいわゆるピンク電話(特殊簡易公衆電話機)で、飲食店や個人病院、旅館など比較的客の出入りの多い場所に設置された。それはいいのだが、じつは初期のピンク電話では市外には電話をかけられなかった。したがって、厳密にいえば、あの電話では十勝の家族と通話できなかったことになる。

昔の習慣をドラマで再現する意義とは?
ともあれ、たとえ簡略化しても、昔の人の習慣や暮らしぶりをドラマや映画のなかで再現することは意義のあることだと思う。それは物語にリアリティを持たせるという表現上の意義だけではない。受け手にとっても、たとえば親と子、祖父母と孫など世代の異なる者同士が一緒に見ていたら、そうした描写から話が広がるということもあるはずだ。

そもそも私が、昔の電話は交換手に頼んでつないでもらっていたことを知ったのも、子供のころに「いのち」という大河ドラマ(大河では珍しく戦後を舞台としていた)を親と一緒に見ていたときだった。「いのち」ではほかにも、昔の救急車のサイレン音が消防車と同じ「ウーウー」だったこと(現行の「ピーポー」に変わったのは1970年らしい)など、親と話題にしながら色々なことを知った。おそらくいまでも、たとえば戦時下の庶民生活を圧倒的なディテールで描いたアニメ映画「この世界の片隅に」(片渕須直監督)などを家族で見て、昔の暮らしについて話し合ったりすることはきっとあるはずだし、できればそうであってほしい。

私が家族と一緒にドラマを見ていたときのエピソードとしては、こんなことも思い出す。それは、戦時中を舞台にしたあるテレビドラマ(早坂暁作の「花へんろ」だったか)が放送されたときのこと。劇中、広島への原爆投下を報じる新聞が大写しになったのだが、その見出しには「原子爆弾」と記されていた。これに対し、私と一緒に見ていた大正生まれの祖父が、ふいに「当時は『新型爆弾』と言ったはずだが」と指摘したのだ。実際、かなりあとになって当時の新聞紙面を確認すると、たしかに「原子爆弾」ではなく「新型爆弾」という言葉が用いられていた。自分の昭和史や時代考証への関心は、案外こういう何気ない家族との会話が発端になっているのかもしれない。

余談ながら、1950年代から60年代にかけては、市外通話がなかなかつながらないことに加えて、増加の一途をたどった電話加入申し込みに対し、架設が追いつかないこと(これを「積滞」と呼んだ)も大きな問題となっていた。電電公社は6次におよぶ拡充計画によって、自動ダイヤル化とあわせて積滞の解消を図り、1978年に達成された。そう考えると、十勝の片田舎にある柴田家に電話が設置されたのはかなり早い。これは、農協に勤める婿養子の剛男(藤木直人)が地元の電話局に強いコネクションを持っていたからなのか、それとも、地元の開拓者として住民たちから尊敬を集める泰樹のカリスマ性のおかげなのか……つい想像をふくらませてしまう。
(近藤正高)

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