「令和」スタート。新元号発表から1ヵ月、何が論じられたのか検証しておく

エキレビ!

2019/5/1 10:00

昭和が終わり、平成が始まった1989年1月7日から8日にかけて、日本各地のレンタルビデオ店には大勢の客が詰めかけた。これというのも、土日だったこの2日間、テレビは昭和天皇の追悼一色となっていたからだ。80年代、家庭用ビデオデッキの普及にともない、レンタルビデオ店も急速に増えていった。

その後、レンタルビデオの店頭に並ぶのはビデオテープからDVDやBDに変わったが、いまやレンタルビデオそのものが、ネット配信サービスに取って代わられようとしている。きっと、元号が平成から令和に変わったこのゴールデンウィークも、どこにも出かけず、ネットで配信されている映画やドラマを観てすごしている人が結構いるのではないだろうか。天皇が代替わりした休日の過ごし方一つとっても、この30年間のメディアの変化がうかがえる。それを象徴するように、きのう4月30日の「朝日新聞」の特別紙面は、表の約3分の1と裏の全面を使ってアメリカの映像配信大手・NETFLIXの広告が飾っていた。

というわけで、きょう5月1日、新天皇の即位にともない元号が令和に改められた。先の平成の元号が、昭和天皇の崩御当日に公布され、翌日には施行されたのに対し、今回の改元は前天皇の生前退位によるものとあって、準備も比較的ゆとりをもって進められたうえ、発表も施行の1ヵ月前となった。何より慶賀ムードのなかで行なわれた点で、平成改元のときとは大きく違う。一方で、政令により決定されたこと、テレビを通じて国民にリアルタイムで発表されたことなど、令和改元にあたっては平成改元時の先例を踏襲したことも少なくない。

新元号が発表されてからのこの1ヵ月は、メディアでは元号をめぐってさまざまなことがあきらかになったり、論じられたりした。ここでは、それらについて、平成改元のときとくらべながら振り返ってみたい。


令和の発案者探しに注目が集まる
新元号「令和」は、いまからひと月前の4月1日午前11時40分すぎ、首相官邸にて菅義偉・内閣官房長官より発表された。その日、午前9時32分から、ノーベル賞受賞者の山中伸弥・京都大教授ら有識者9人による「元号に関する懇談会」が官邸で開かれ、政府は6つの元号原案を示して意見を求めた。これに続き衆参両院の正副議長からも意見を聴取したうえで、全閣僚会議を経て臨時閣議で元号を改める政令を決定した。ここまでの選定手続きも、前回、1989年の平成改元時がほぼ踏襲された。

今回の新元号の選定までの過程については、発表前後より各メディアが報じてきた。なかでもクローズアップされたのが元号の考案者である。「毎日新聞」は早くも発表直後、4月1日付の夕刊で、考案者は国文学者の中西進・大阪女子大名誉教授の可能性があると報じていた。その後、ほかのマスコミ各社も、政府関係者への取材から、それがほぼ事実であると伝えた。

当の中西は、自身が令和の考案者とは一貫して認めていない。館長を務める富山市の「高志の国文学館」で4月14日、令和の典拠となった万葉集や令和に関する解説会を行なった際には、《「(考案者は)私ではない。粘土細工の粘土を出しただけ」と、多くを語らなかった。「元号は個人の所有物ではない」とも強調した》という(「読売新聞オンライン」2019年4月16日)。一方で、石川忠久・二松学舎大元学長は、新元号の最終候補に残った6つの原案のうちの一つ「万和(ばんな)」を考案したことを認め、「平和への願いを込めた」と異例の証言をしている(共同通信配信、「佐賀新聞LiVE」2019年4月5日)。

元号の考案者探しは平成改元時にも行なわれたが、今回ほどには注目されなかったはずだ。これというのも、令和が、これまでの元号が典拠としてきた漢籍からではなく、初めて日本の古典(国書)である『万葉集』からとられたというのも大きいのだろう。それにしても、発案者を知りたい、知らないと落ち着かないというのは、現代人の性というか一種の病なのかもしれない。

令和は「小さな物語」志向?
令和の出典は、『万葉集』巻5にある「梅花(うめのはな)の歌三十二首并(あわ)せて序」であると説明された。三十二首の歌は、大宰府帥(だいざいのそち。大宰府の長官)だった大伴旅人が都に戻るにあたり宴を開き、仲間たちとともに詠んだもので、「令和」の2字はその漢文による序文からとられた。

ただ、このくだりについては、中国の東晋時代の書家・王羲之(おうぎし)の代表作『蘭亭序』をもとにしているとの指摘もある(「日経BizGate」2019年4月2日)。とすれば、令和もまた漢籍から採用してきた元号の伝統を引き継いでいるといえる。

なお、漢籍からの影響を指摘した一人、久禮旦雄・京都産業大准教授は、令和について「国家理念や政治スローガンを感じさせない」「自然との永遠の調和といった意味合いで、具体的な思想や事物は指していない」と評し、「今後の新しい流れとなるかもしれない」と示唆している(前掲)。たしかに「平成」が『史記』と『書経』を典拠に、「国の内外にも天地にも平和が達成される」との意味が込められていたのとくらべると、安倍晋三首相の説明によれば「厳しい寒さのあとに、春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が、明日への希望ととともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる」との思いを込めたとされる令和はかなり趣きが違う。これまでの元号が「大きな物語」に依拠していたとすれば、令和は「小さな物語」志向ともいえるかもしれない。

批判もあった平成、歓迎された令和
令和についてはまた、発表直後より、著名人を含め、さまざまな人による感想が各メディアをにぎわせた。その大半は好意的で、少なくとも令和という元号そのものについて批判的、否定的な意見はほとんど見られなかった。

これに対し、30年前の平成改元のときの新聞紙面を見ると、新元号に対し冷ややかな反応が目立つ。ノンフィクション作家・猪瀬直樹は、《明るく、平和っぽいイメージを出したのだろうが、それぞれ関係のない二文字を組み合わせた無意味な新造語でしかない。選定のプロセスを見ても、民意を反映したとは言いがたい》と辛辣だった(「朝日新聞」1989年1月8日付)。同じ紙面では、歴史学者の大江志乃夫が、《元号とは暦の進行まで君子が支配するということで、日本にだけ残っている。現憲法にはそぐわない》と、元号そのものについて疑念を呈している。

《音の感じがフラット過ぎて寂しい。目を閉じて聞くと「昭和」のようなア行が入っておらず物足りない。平安時代を連想させ地味過ぎてガッカリ。(中略)「平成」というと京都の田舎にありそうな地名で、なじめそうにない。これを契機に西暦中心になるのではないか》(「毎日新聞」1989年1月7日付夕刊)とコメントしたのは、今回の新元号選定にあたり「元号に関する懇談会」に出席した作家の林真理子である。

一般人にも、《いいんじゃないでしょうか。平和が続く、という落ち着いた感じで……》という声がある一方で、《昔の中国かどこかの元号のようでなじめない》と述べる人もいた(「朝日新聞」1989年1月8日付)。

このときの人々のネガティブな反応には、昭和天皇が危篤に陥って以来の自粛ムードに対する不満も反映されていたのかもしれない。それとともに、この時点で、即位したばかりの明仁天皇が、昭和天皇あるいは美智子皇后などとくらべて存在感がいま一つ薄かったというのもあったのではないか。事実、即位前、皇太子時代の明仁天皇に対しては、「魅力がない」といった否定的な評価もあった(児玉隆也『この三十年の日本人』新潮文庫)。

結果的に、明仁天皇は、自然災害の被災地への訪問などではっきりと示されたように、国民のなかへ積極的に入っていくことで、憲法に定められた象徴天皇としての立場をまっとうするべく努めた。それによって、発表当初はまだどこかイメージの空虚だった平成の元号も、具体的なものとして人々に実感されるようになったに違いない。

昭和以前の元号は、最終的に天皇の勅定によって決められていた。元号が本来、皇帝が空間だけでなく時間をも支配する意図で中国で生まれ、日本でも導入されたという歴史からすれば、天皇が自ら決めるのは当然である。しかし、戦後に制定された日本国憲法では、天皇の地位は国民の総意にもとづくとされ、政治への関与が禁じられた。これは元号のもともとの存在意義と反する。それを1979年に制定された元号法では、元号は皇位の継承があった場合にかぎり政令で定めるとされ、政府が最終的に決めるものとなった。

元号は将来的に、天皇が亡くなったあとに諡(おくりな)として名前にもなる。それを国民の代表である政府が決めるということは、つまるところ、天皇その人および在位する時代のイメージを国民が決めるのだとも解釈できる。もちろん実際には、平成がそうであったように、令和の元号もまた、新天皇が国民とかかわるなかでつくりあげていくことになるのだろう。

“干支化”する元号
各メディアが元号について質問した世論調査では、最近でも、元号も西暦も両方使いたいという人が多数を占める結果があいついで出ている。ただ、現実には、公的な書類をのぞけば、元号を使う機会は減っていることは間違いない。元号と西暦の年代がすぐに対応できる人も案外少ないのではないか。しかし、そうした時代の流れとは裏腹に、今回の改元は多くの国民が積極的に歓迎するなかで実施された。これは何を意味するのか。

かつて日本では、貴族や武士といった上流階級はともかく、民衆のあいだでは元号はなじみが薄く、年を数えるにはむしろ干支が使われることが圧倒的に多かったという。しかし、その干支も、いまではせいぜい年末年始に年賀状などで使うぐらいになっている。おそらく元号もこれと同様の存在になっていくのではないか。いや、始まるときと終わるときには大きな話題になるという意味では、元号は確実に干支と同じ扱いになりつつある。ただ、それでも干支がいまも限定的ではあれ、私たちが親しみをもって使っていることを思えば、元号もまた今後もけっしてなくなることはないのではないか。

昭和天皇崩御の翌々日、平成改元の翌日となる1989年1月9日、当時の人気番組「ニュースステーション」では冒頭、キャスターの久米宏が次のように述べた。

《おとといで昭和が終わって昨日から平成だというのは、これは日本人だけの内輪の話ですからね。世界では今日は基本的にただの一九八九年一月九日。このことを頭の中で忘れないようにしておかないと、世界で通用する話じゃ全然ありませんので。ここをキチンと押さえて世界の中のニッポンにまた戻っていきたいと思います》(引用は『広告批評』1989年2月号より)

はたしてこのゴールデンウィーク明け、人気番組のキャスターや司会者が、番組内でこうした発言をすることはあるだろうか。元号を日本の文化として継承する一方で、視野狭窄に陥ることなく、相対的に世界や時代をとらえていきたいものである。
(近藤正高)

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