丞威インタビュー 子役から『HiGH&LOW』、ドニー・イェンとの共演、そして世界へ!25歳の「アクション俳優」波乱の半生と未来

ガジェット通信

2019/4/24 12:00



『HiGH&LOW THE MOVIE 2 / END OF SKY』のトルネード・リーゼントことブラウン役、『孤狼の血』養豚場の怪しいチンピラ・善田大輝役など、邦画屈指の話題作で強烈な印象をスクリーンに残してきた25歳の若手俳優をご存知だろうか。彼の名は、丞威。ダンス、空手、トリッキングをミックスした独特の動きと圧倒的な身体能力を評価され、アクション映画の製作時には必ずと言っていいほどキャストに名前があがる若き実力者だ。

そんな丞威が、ドニー・イェン(『イップ・マン』シリーズ、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』)主演の最新作『肥龍過江 Enter The Fat Dragon』出演を契機に、海外へと活躍の場を移すという。ガジェット通信では、海外活動資金を集めるためのクラウドファンディング実施にあわせ、インタビューを敢行。生後3ヶ月から育ったアメリカでの“ダンサー”人生、日本人としての精神性を学んだ“空手”、そして、「アクション俳優」として中国・香港をはじめとした世界へと打って出る理由など、ロングインタビューで語ってもらった。

「職業にはしたくない」ダンサーとしての人生





――ご両親がともにダンサーで、LAでダンス教室を経営されていた。丞威さんは、この影響で幼い頃からアメリカで子役として活躍し、ディズニー・チャンネルなどにも出演されていたそうですね。

アメリカでは、ダンス、芝居、歌の3つをセットで子役に全部やらせて育てるんです。ジーン・ケリーやフレッド・アステアの時代は、みんな踊れて、芝居が出来て、歌えた。そういうやり方がベースにあるので、子どもには全部やらせて、一番伸びた方向に行かせるんです。ぼくが子役だった頃は、キッズがアーティストのミュージックビデオに出るチャンスが増えてきた時期だったので、ダンサーがダンスだけで食べていける時代になり始めていました。それでも、3つ(歌とダンスと芝居)を比べると、どうしても歌か芝居を選ぶ人が多くて、ぼくが当時一緒だった子役のダンサーたちは、今はもうほとんど踊っていないですね。

――ライアン・ゴズリング、ジャスティン・ティンバーレイク、テイラー・ロートナーも同じように子役からスタートして、俳優や歌手を選んでいます。

子役はみんなスタートが一緒なんです。幼い頃から色んなオーディションに行かせて、ディズニー・チャンネルとかに出演する。ぼくも運よく、『Movie Surfers』というディズニー・チャンネルのミニ番組に出させていただきました。5分くらいの枠で、ディズニー映画の舞台裏を紹介するCMみたいなプログラムです。ぼくは、『カーズ』とか、ポール・ウォーカーさん主演の『南極物語』の回でインタビューさせていただきました。

Joey Beni L. Tee w/ Aja George(Kreative Humor)(YouTube)

https://youtu.be/X7erDIp8_W0

――11歳ごろには、日本でジャニーズの舞台によく出演されていらっしゃいました。どういう経緯があったのでしょう?

父親(Tony Tee/七類誠一郎)と母親(七類古倖)は、田原俊彦さんの振付をずっと担当していました。東山紀之さんの「千年メドレー」も振り付けています。そんな中で、両親が日本にもダンススタジオを作るので、ぼくも2年ほどこちらに住むことになりました。オーディションも色々と受けていたんですが、両親との繋がりもあり、ジャニー(喜多川)さんに「会いたい」と呼ばれたんです。場所はNHKホールだったんですが、リハーサル室に入ると、知らないおじさんが出てきて。「誰だろう?」と思っていたら、それがジャニーさんだったんです(笑)。ぼくは、アメリカでの活動をまとめた映像資料を持っていて、ジャニーさんが「見たい」とおっしゃるので、それも見せて。「すごいね。ちょっとアレがあるから、踊ってよ」って、急に『ザ少年倶楽部』という番組に出されました(笑)。

――すごい急ですね(笑)。

ぼくは「ステージだ!」と、楽しくてしょうがなかったですよ。踊るのが大好きですから。そこからジャニーズさんとの関係がどんどん続いていって、色んな人たちと出会って、あっという間に2年経ちました。最終的にジャニーさんは、「きみはアメリカでやっていかなきゃダメだよ。日本でやっていたら、きみの才能は潰れる」とおっしゃってくださって。ぼくも、その時から日本にずっといようという気持ちもなかったです。本当に、ジャニーズさんにはよくしていただきました。滝沢秀明さん主演の『滝沢演舞城』に出演させていただいたり、KAT-TUNさんのバックで踊らせていただいたり。そこから、赤西仁さんの専属バックダンサーをやらせていただいていた時期もありました。今でもジャニーズのみなさんとは、ご縁が続いています。

――同期だったり、特に仲が良かった方は?

当時は、Hey! Say! JUMPの中島裕翔さんとぼくがシンメ(シンメトリー。左右対称の立ち位置のこと)で踊ってました。なので、Hey! Say! JUMPさんとか、Kis-My-Ft2さんと仲が良かったですね。特にKis-My-Ft2のみなさんは、お兄ちゃんみたいで。アメリカから来て、何もわからなかったぼくの面倒を見てくださったので、今もTV・映画で活躍されているのを見るたびに、「嬉しいな」と思っています。

――生粋のダンサーという感じの経歴ですが、職業にはしたくないそうですね。

ダンスは大好きで、ぼくにとっては呼吸そのもの、それぐらい当たり前に周りにあるものなんです。学校に行っても、下校中もとりあえず誰かがスピーカーを持っていて、音楽にのって踊る。親が迎えに来るまで、スターバックスの前でたむろいながら踊ったりしました。でも、仕事にすると、“愛せないダンス”も踊らないといけない。愛しているダンスと、愛せないダンスがあるんですよ。例えば、そのアーティストが良く見える動きを考えて、合わせないといけない。別に好きじゃない曲でも、お金のために踊らないきゃいけない。そういう感覚がすごく嫌で。幼いころはただただ好きで踊っていたんですが、14歳くらいには「本気でダンスを上手くなりたい」と思って、16、17歳頃には、「仕事にはしたくない」と考えるようになりました。そんな時に、日本に引っ越してきたんです。ダンスは仕事にはしたくないけど、ずっと好きでいたいし、自分のダンスを追求したい。変なこだわりと思われるかもしれませんが。

日本人としてのアイデンティティを求めて





――空手も、ダンスほぼ同時に始められたんですよね?

母親が高校時代にガッツリ空手をやっていたから、というのが空手を始めたきっかけです。母は、のちにぼくが日本で入る道場の道場生でした。アメリカに日本人として住んでいると、アイデンティティがあいまいになってくるんですよ。日本人だけじゃなく、アメリカに住んでいるアジア人、日系の人たちはそうだと思います。自分も人も守れる力がつくし、日本人としてのアイデンティティも築けるだろうということで、「武道を一つ学びなさい」と。5歳くらいの頃はふざけてやっていたところもありました。空手を始めてから2年ぐらい経って、道場の先生が急にいなくなったので、極真空手を始めました。LAのトーランス市というところに、リトル・トーキョーという日本人街に道場がありました。そこからぼくの住んでいたところまで、渋滞の時間も含めて、車で2時間、往復で4~5時間くらいかかるんですが、母は毎日のように送り迎えしてくれて。本格的に空手をやり始めたのは、その頃からですね。当時は、試合に出てもなかなか勝てなくて、悔しくて。何度も挫折するんですが、その挫折を乗り越えるのが快感になって、自分が強くなるまでの連鎖がすごく楽しくなっていきました。そんな中、日本に引っ越して、ジャニ-ズにいた時期に、佐藤塾という道場に通うようになりました。そこで初めて初段・黒帯までいったんです。それまでは、途中で先生がいなくなったり、引っ越したりしていたので、白帯を4回くらい繰り返しました。

――いろんな道場に入り直されたんですね。

ええ。全部フルコンタクトなんですけど。佐藤塾で初めて本気で空手に取り組みはじめました。試合にも出始めて、当時の一番いい成績は、小学生の部の全国3位だったかな。佐藤勝昭師範は世界を獲った方(全世界空手道選手権大会・初代チャンピオン)なんですが、稽古では勝つ空手よりも綺麗な空手を好む方でした。だから、ローキックを使わないんです。「押し相撲のような空手はしたくない」ということで、ちゃんと一本が決まるまでやり続ける試合を重視されていて、佐藤塾の試合には判定がありませんでした。一本が決まるまで、延長、延長が続く。ただ、その中でぼくは全然勝てなかった。だから、アメリカに戻ったときに、めっちゃ調べて、八巻建弐師範の八巻道場をみつけました。そこに通うようになって、ようやく大会で優勝できるようになったんです。



――アメリカで「空手をやっている」という方は、エクストリームマーシャルアーツ(XMA)をさしていることも多いです。丞威さんはそうではなく、ガチな空手家だったんですね。

XMAをやっている友達もいますし、あれを空手というアメリカ人もいます。でも、XMAは武道ではなくて、スポーツだと思います。肉体の極限を追求するものなので、それも悪くないとは思いますが、空手ではないですよね。武器も使ったりもしますし。

――丞威さんにはもっとアメリカンなイメージを強く持っていたのですが、ここまでのお話で、ちょっと印象が変わりました。

意外と“日本人”の感覚なんです。ぼくも、日本人としてのアイデンティティを探していた部分はありました。「日本人とはなんなんだろう?」と。これは、みんなそうだと思います。“アメリカ人”は、実際にはいないので。

――なるほど。おじいさまは、丞威さんを取り上げた産婦人科医であり、かつ武道家でもあったんですよね。日本的な礼儀や作法について、おじいさまから影響を受けた部分もあるのでしょうか?

おじいちゃんは、たしか居合五段、剣道六段だったと思います。意識的に影響を受けたとは思わないんですけど……ただ、おじいちゃんがそういう人でよかったな、と今でも思います。年に一回は、必ず別府のおじちゃん・おばあちゃんの家に遊びに行きました。温泉にも入ったり。ただ、おじいちゃんおばあちゃんの家のほうが、LAよりも(礼儀作法について)厳しかったです。朝六時半ごろに起こされて、佐賀鍋島藩の“葉隠四誓願”を読まされたりしました。「一、武士道に於いておくれ取り申すまじき事。一、主君の御用に立つべき事。一、親に孝行仕るべき事。一、大慈悲を起こし人の為になるべき事。」というのを、ぼくはぼんやり読んでいたんですけど(笑)。

――(笑)

でも、そういうことをやっていたからこそ、日本に越して来ても、そんなに困らなかったんだと思います。最初は理解できませんでしたが、感覚がアメリカ人っぽかったぼくが、「日本人とは、こういうものなのかな」という、ふわっとしたイメージを持つことが出来たので。あと、何よりおじいちゃんが大好きでした。

――おじいさまは、丞威さんの生き方をどうご覧になっていたのでしょう?

おじいちゃんは大正生まれで、もともとは戦医でした。戦争を経験して、七人兄弟の長男としてひとりで家族を守って、産婦人科医になって。色んなものを築き上げてきた人が、自分の娘がダンサーと結婚するというのを聞いたとき、どういう気持ちだったかは、ぼくも知らないですけど。そういうことをひと通り経験している人だったので、(丞威の生き方にも)そんなに驚きはしなかたんじゃないでしょうか。たまに、アメリカでの仕事の映像を見せたりすると、喜んでくれましたし。

「アクション俳優」としての目覚め





――本格的に俳優を志したのは、いつ頃なんでしょう?

俳優としてのスタートは、菅田将暉さん主演の舞台『タンブリング』です。それが、15、16歳頃でした。事情があって日本に引っ越してきたタイミングですが、ダンスは仕事にしたくないので、「何を仕事にすればいいんだろう?」と考えていました。そこで、映画が好きだったので、「お芝居をやってみようかな」と。もうひとつ、家族で支え合って稼がないといけなかった、というのも理由です。そこから事務所に入れていただいたんですが、当時はそこまで本気で俳優をやろうとは思っていませんでした。それでも、『タンブリング vol.2』にも出させていただけて、そこからオーディションにも受かって、どんどん仕事が決まっていったんです。最初の映画は、『闇金ウシジマくん』ですね。

――最初から「アクション俳優」を意識されていたんでしょうか?

いえいえ。最初は、「とにかく勉強しないと」と思っていました。そんな時に出会ったのが、武田梨奈さんが初主演した映画『ハイキック・ガール!』の西冬彦監督です。オーディションで西さんに拾い上げてもらって、『TOURNAMENT』に出演させてもらって、ありがたいことに、『琉球バトルロワイヤル』では主演させてもらいました。そこから、アクションの練習も勉強もして、「これなら、ハリウッドに行けるかもしれない」と思ったんです。

――当時から、ハリウッドを目標にされていたんですね。

ハリウッドで、アジア人で主演を張るなら、アクションしかないんです。最近ようやく、『クレイジー・リッチ!』みたいなアジア人が主演の作品も出てきましたが、それでも「アジア人のスター」は誰かと言われれば、ジャッキー・チェン、ブルース・リー、ジェット・リーですよね。そこにたどり着くには、アメリカ人が求める“アジア人のステレオタイプ”も必要だと思いました。それに、アクションで評価されれば、「アメリカに戻れるかも」と思ったんです。それと、当時ぼくが習っていたトリッキングの師匠たちが、みんなスタントマンになっていました。スタントで出来るなら、アクションや芝居で同じようなことが出来るだろう、と。トリッキングも取り入れるようになって、俳優として、そういうことを本格的にやっている人がいなかったので、「これはいけるんじゃないかな」と思い始めて。

丞威(ジョーイ) Joey Iwanaga Action REEL(YouTube)

https://youtu.be/Lmg4rjp51vU

――そこからなぜ石原プロに入ることに?

きっかけは、本当にたまたまなんです。石原プロに入るまで日本で6年過ごして、21歳になっていました。アメリカでは21歳を「成年」とする習慣があるので、このタイミングで一度帰ろうと思いました。永住権もまだ残っていたので、ぼくだけアメリカに帰って、やり直そうと思ったんです。LAに帰ったところで、姉から「こういうのがあるよ。行ってみたらどう?」と石原プロのオーディションを勧められました。石原プロは、日本のアクションの先駆けになった事務所ですし、「優勝者にはアクション映画への出演が約束される」という話もあったので。「受からなくても、アクション映画は撮るだろうし、オーディションで名前だけでも覚えてもらえれば、繋がるんじゃないか」と思いました。上手くいけば、第四次審査でハワイにも行けますし(笑)。

――(笑)

最初はそのくらいの考えで参加しようと思っていたのですが、勉強のつもりで裕次郎さんや渡さんの映画を観たり、音楽を聴いていくうちに、どんどん好きになっていったんです。裕次郎さんの感覚は、とてもアメリカ人っぽいんですよね。当時も今も、日本にはない感覚です。新しいものを求めて、色んなものをぶち壊して切り拓いて、創り上げていく。裕次郎さんは、フランス・アフリカを舞台にした『栄光への5000キロ』を製作されたり、日本だけじゃなく海外も志向されていらっしゃいました。そういう姿勢がカッコいいな、と思ったんです。裕次郎さんご本人はもういらっしゃらないですが、こういう人が作りあげたところで、ぼくも新しい道を切り拓ける。そういう野望が芽生えたので、オーディションを受けることに決めました。

――いきなり受けたのではなく、色々と考えてのことだったんですね。オーディションでは、ハワイで合宿にも参加されたんですよね。いかがでしたか?

ただ単に楽しかったですよ。もちろん、合宿の前に、面接や特技を披露するPR審査もありました。映像でも残っているんですが、石原プロでは、みんなでBBQして、料理をふるまうのも、オーディションのひとつなんです。ぼくたち(オーディションの候補者が)作るほうなんです。炊き出しにもつながることだと思いますが、カレーを作ったり、食材を切ったり、そういうことが出来るのか、というのを見ていらっしゃったんだと思います。ところが、BBQがひと段落した頃に、テンションが上がっちゃって、みんな片付けをしなかった。

――(笑)

金児憲史さんにバチコーン、と怒られました。「人に対して愛のない人は、愛されない。それだとスターになれない」と。それは、石原プロに入ってから、舘さんや神田さんとお会いして、痛感しました。みなさん人間性が素晴らしいんです。「スターというのは、こういう人たちのことなんだ」と思いました。当たり前のことなんですけど、舘さんのような方も“当たり前のこと”をされるわけです。初対面で、座っていた裕次郎さんが立って、自分から「石原裕次郎です」とあいさつされた、という話をされる方もすごく多い。人に会ったら挨拶して、名前を名乗るというのは当たり前のことなんですけど、それを裕次郎さんのようなスターがやる。それが、みなさんの心に残っているんです。どれだけ有名になっても、人間として当たり前のことは忘れてはいけない。そういうみなさんの姿勢に、また惹かれました。

『HiGH&LOW』と『孤狼の血』





――石原プロでの仕事といえば、『HiGH&LOW THE MOVIE 2 / END OF SKY』のブラウン役がとても目立っていました。

「どうにかして爪あとを残さなきゃ」と思って、必死でしたから(笑)。『HiGH&LOW』のブラウンも、石原プロの方に売りこんでもらって、オーディションでいただけた役です。石原プロからは新人3人が参加して、ぼくだけが受かりました。たぶん、アクションが出来たのが良かったんだと思います。

――村山良樹役の山田裕貴さんは、役をいいものにするために色々と工夫して、提案もされたそうです。丞威さんも?

山田さんは素晴らしい俳優さんです。ただ、ぼくの演じたブラウンは、村山よりもさらに小さな役ですし、「どうしたものか」と思いました。台本を読んだら、セリフが「ひとこと(英語で)」とか、ほとんど一言ずつだったんです。だから逆に、「これは自由にやっていいんだ」と思いました。もちろん、脚本を大事にしている作品ですけど。ぼくは(久保茂昭)監督とお話をして、脚本上の気持ちの整理だけはちゃんと決めて、「何を言ってもいい、どんな動きをしてもいい」という気持ちだったんですが、現場に入ったら案の定そうだったので、「よし、やるだけやってやろう」と思いました。

――リーゼントや身に着ける服は、最初から決まっていたんですか?

衣装合わせのときに(久保監督と)話し合って決めました。『デメキン』も『孤狼の血』もそうなんですが、当時のぼくはリーゼントの役しかやっていなかったんです。なぜかリーゼントに縁があったので、「とりあえず、リーゼントにしよっか」ということで(笑)。ブラウンは黒にピンクの柄が入った上着を着ていますけど、もともとはヒョウ柄を着る予定だったんです。後々、NAOTOさんがヒョウ柄を着ることになったので変わりましたけど。ヒョウ柄に黒のタンクトップで、黒のスキニーを穿いて、ゴールドのチェーンを着けて、刺青がある……70年代の横須賀っぽい、ロカビリーをイメージしています。リーゼントもこれ以上ないくらい高く盛りました。映画の後半になると、リーゼントが潰れて開いてくるんですよね。それくらいカチカチに固めて、イメージを強くしよう、と。

「HiGH&LOW THE MOVIE 2 / END OF SKY」Action Special Trailer(YouTube)

https://youtu.be/k9cLd-WpJCo

――『HiGH&LOW』はアクションでキャラの個性を出すことで有名ですよね。

『HiGH&LOW』はキャストの人数が多いので、一人ひとり、1分ずつ自己紹介していたら、1時間かかっちゃう。当然、もっと短い時間で性格を印象付けようと考えると、やっぱりアクションですよね。アクションとアクションの間のリアクションに性格が出てくるので、大内貴仁さん(アクション監督)はそこを大事にして下さいました。例えば、中盤でブラウンとヤマトが初めて商店街で戦うシーン。ヤマトがぼくのナイフを避けて、こちらもパンチを避けて、ちょっと当たって、クルクル回って、ドン……という手(構成)があるじゃないですか。ここでは、ブラウンが絶対に当たると思っていた攻撃を避けられたので、その時の気持ちを表すように、次の手までの間に、「えっ?」という動作や表情を入れる。そういう芝居を大事にしていました。たぶん、意識的に観ていなくても、芝居でリズム感やテンポがちょっとずれることで、お客さんにもふわっと伝わっているはずです。ブラウンが印象に残っているとすれば、そういうところなんだと思います。

――「強いのに卑怯」な性格も、丞威さんが考えられた?

脚本に沿っていますけど、実はみなさんで集まって本読みをしたときに、「ほかの人と違うキャラをやらないと」と思ったんです。じゃないと、埋もれてしまうので。本読みで、メンディさん、NAOTOさん、武尊さんや城戸(康裕)さん、それぞれ「こういう感じ」というのがわかったんです。ブラウンはロカビリーで、英語を使うし、一人だけナイフを持っている。だったら、卑怯で、できるだけウザイやつになろう、と。本読みのときにそういう感じでやったら、「いいね」と言っていただけました。もちろん、やってみて、「それはちょっとやりすぎ」と言われることもあるので、そういうのはやめました。結構自由にやらせてもらえましたよ。

――もうひとつ印象に残っているのが、『孤狼の血』。取り調べ室で、役所広司さんにボコボコにやられるシーンが、とても感情が伝わってきてよかったです。

あのシーンで決まっていたのは、「(役所が丞威を)椅子から引きずり下ろす」「(役所が)テーブルをひっくり返す」「(役所が)テーブルの脚に(丞威の)口を突っ込む」「椅子を上げる」ということだけでした。あとは、役所さんに身を任せて、引きずられて、来るのものにリアクションして、という、完全なエチュード(即興劇)です。3回くらいやりましたが、いやあ、楽しかったですよ! 今までで、一番楽しかったです。そういう芝居は最近あんまりないでしょうから、役所さんもすごく楽しそうで、カットかかった瞬間に満面の笑みで、「楽しいねえ!」っておっしゃってくださいました。

ドニー・イェンと中国の現場、日本の未来





――ここからは、海外に拠点を移されるのですか?

ぼくとしては、拠点にこだわらずに色々とやりたいと思っています。ドニー・イェンさん主演、谷垣健治さん監督の『肥龍過江 Enter The Fatdragon』に参加して、中国の現場がすごくいいな、と思ったのがきっかけです。日本の現場と比べると、若いスタッフが、いい意味ですごく生意気なんですよ(笑)。それが現場の活気に繋がっていて、とてもいい。(助監督も)フォース、サード関係なく、DカメがAカメくらいの勢いで入ってくる。そういうのが、すごく気持ちよくて。

――みなさん、主張が強いんですね。

正直、撮影を終わらせるためには作っていないな、と思って。日本よりも予算があるから、というのもあるんでしょうけど、とにかくいいものを作りたい、というのが伝わってきました。だから、こういう現場でやりたいな、と。アクションでやっていくなら一度は本場で勉強しないといけないし、現場を見ないといけないというのもあります。それに、倉田保昭先生もいらっしゃいました。そういう方々をちゃんとリスペクトして、本物を学ばないと。アクションを商売としてやる以上、プロとして「知らない」なんて言っちゃいけないと思っています。

――ちなみに、ドニーさんはどうでした?

ドニーさんはすごいですよ。あの人も“スター”だと思いました。アクション自体ももちろんすごいんですけど、ブルース・リーの影響が強いのか“寄りの画”の力が凄いんです。アクションはすべてを本人同士でやるわけではないので、吹き替えを使うこともあります。でも、ドニーさんはいざ本人でやるときの、画の力が凄まじい。例えば、22コマ、23コマ(※編註:通常は1秒24コマ。コマを落とすと、スピード感が速くなる)で撮影するときにも、パンチのスピード感をそれぞれにあわせることが出来る。角度もわかっているから、殴り方も本当に痛そうなんです。これは、キャリアの長さから出てくるものでもあると思います。ぼくは、アクロバットな動きを評価されてきたから、そこまでちゃんとした“手”を経験してこなかったし、「この角度ならこう見える」という勉強もしてこなかった。とりあえずやったアクションに、カメラが入ってくることが多かったので。

映画『肥龍過江 Enter The Fatdragon』予告(YouTube)

https://youtu.be/OrzsB3FibrQ

――ドニーさんは、フィルムメイカーでもありますよね。現場でそういう面も見せたりしました?

もちろん。特にこの作品は、ドニーさん自身が製作に入っていますから、監督さながらのときもありますよ。谷垣さんも監督なので、「それは違う」と思ったら、ちゃんとおっしゃいます。ドニーさんはいい意味で子ども心がある方で、思いたった瞬間に「これ、やろう」「あれ、いいじゃん」と言い出すので、正直、大変な人もいます(笑)。「ええ、今からそれをやるの?」と。そういうことろも含め、いい現場だと思いました。

――どのくらいのスパンで今後のことを考えてらっしゃるのでしょう?

ぼくの性格によるところが大きいとは思うんですが、ダンスにしても、アクションにしても、やるなら掘り下げていくことが重要だと思っているんです。だから、向こう(香港)に拠点を置くというよりも、単身赴任で2、3年、続けばもっと長くいてもいい。広東語と北京語を覚えて、もし芽が出なくても、学ぶことは多いですから。そして、最終的にはハリウッドです。ただ、ハリウッドにも拘っているわけではなくて、いいアクション映画、いい作品に出続けたい。それこそ、イコ・ウワイスのいるインドネシアとか。もう、5年も経たないうちに、東南アジアはすごいことになると思っています。インドネシア、ベトナム、シンガポールあたりは、アクション関係なくても盛り上がってきているので、今のうちに参加して、後につなげたいです。

――ご自分のことだけではなく、「日本人としてやれることを証明したい」とおっしゃっているが興味深いです。

今も、色んな日本人の方が世界で活躍してらっしゃいます。でも、なかなか主役は張れない状況ですよね。なぜなのかと考えると、それは時代もあるかもしれない。ぼくはこういう時代に生まれて、SNSも発達していて、自分の情報を簡単に発信できる状況にあるから、それは上手く使っていきたいです。親や色んな人に出会ったおかげで、ぼくにはダンスや、空手や、アクロバットという武器がありますし、訴えたいこともあるから、いけるんじゃないかな、と思います。それに、日本人が“やれる”ことを証明できれば、夢があると思うんですよ。ぼくがそこに到達できなくても、真田広之さんや千葉真一さんのような方が切り拓いてきた道を、もう少しだけでもこじ開けることが出来ればいいな、と。今後も、すごい人たちが沢山出てくると思うので、そういう人たち、アクションに興味のある人たちのためにも、少しでも可能性を示したい。もちろん、自分でもハリウッドで主演を張って、ブルース・リーやジャッキー・チェンのようになりたいとも思いますが。

――素晴らしい。

もうひとつ、「空手とはこういうものだ」というのを世界に向けて示したいと思っています。ブルース・リーは、功夫を武道としても伝えました。功夫は、「カンフー」というジャンルの格闘技じゃないし、そのすべてが功夫ですから。空手も武道であり、武器を持たないから“空手”なんだよ、というところから説明していきたい。武道としての空手の精神を、世界中に訴えるきっかけになれるよう、日本人として世界で活躍したいです。

――最後に、丞威さんの後に続く方たちに、メッセージをお願いします。

少しでもアクションをやりたいと思ったら、ちゃんと「やりたい」と言ったほうがいいと思います。日本だと事務所に入って、360°を芸能界の人に囲まれて、方針を決められることになります。アクションの需要がないから、アクションをやらない人も多いです。ただ、そういう人は、いざアクションが必要な作品に出ても、全然できないんですよ。それはすごくカッコ悪いし、そうなるなら最初からアクションをやらないほうがいい。ぼくがこういうことを言うのは、日本が「国内だけで売れればいい」国になってしまっていると思っているからです。アメリカで育って外から見ていると、日本のエンタメが中だけで回しているのを、すごく感じるんです。でも、ぼくは日本人として、日本のことを考えたい。

――なるほど。

海外の人たちに「日本の市場に入りたい」と思われなければいけないし、「日本から外に発信したい」という気持ちも持ってほしい。今の日本で売れているものは、海外の人たちにとって、それほどインパクトがないと思うんです。アメリカでの日本のイメージって、いまだにサムライ、ニンジャ、ゲイシャ、カラテ、富士山、ピカチュウなので。日本人なら、もっと一つひとつの魅力を掘り下げようよ、と。日本には素晴らしいものが沢山、奥深くにあるので、それを海外の人たちに提示すれば、もっとワールドワイドになれると思います。どんなに批判されても、ぼくは現在の状況を打破できるのが、アクションだと思っています。だから、今後アクションをやりたい、と思った人は、ガッツリとやって欲しい。特に“殺陣”ですね。ぼくがやっているアクションも、ほとんどが香港のスタイルがベースです。“殺陣”は日本のアクションなので、その作法を勉強して欲しい。一つひとつを深く理解して、礼儀や歴史を知った上で、海外のものに取り組むべきだと思うんです。もちろん、ぼくもまだまだわからないことが沢山あるので、勉強します。そうでないとアクションなんて語れないですし、ちゃんと知った上で、「アクション俳優」を名乗らないといけないと思っています。いっぱい勉強して、世界に通用する、あるいは日本にいても、世界に認めてもらえるアクション俳優が出てきてくれればいいな、と思っています。

丞威の世界進出資金を集めるクラウドファンディング「アクション俳優 丞威(ジョーイ) 世界へ挑戦!!」は、Campfireにて、2019年4月25日23時59分59秒まで実施中。

インタビュー・文=藤本 洋輔 撮影=オサダ コウジ


アクション俳優 丞威(ジョーイ) 世界へ挑戦!!

※募集締め切り:2019年4月25日23時59分59秒まで

Campfireクラウドファンディングサイト:https://camp-fire.jp/projects/view/140630#menu

丞威 Instagram:https://www.instagram.com/ybenormol/

丞威 Twitter:https://twitter.com/JoeyBeni


―― 見たことのないものを見に行こう 『ガジェット通信』

(執筆者: 藤本 洋輔) ※あなたもガジェット通信で文章を執筆してみませんか

―― やわらかニュースサイト 『ガジェット通信(GetNews)』

当記事はガジェット通信の提供記事です。

あなたにおすすめ

ランキング

もっとよむ

注目ニュース

もっとよむ

あなたにおすすめ