世紀末ウィーンを代表する2人の画家、クリムトとシーレが登場 『エゴン・シーレ 二重の自画像』書評

SPICE

2019/4/17 17:22


2019年の春は、ウィーンの世紀末芸術に関わる展示が目白押しだ。2019年4月13日(土)~6月9日(日)に目黒区美術館で『世紀末ウィーンのグラフィック-デザインそして生活の刷新にむけて』が、4月23日(火)~7月10日(水)の期間、東京都美術館にて『クリムト展 ウィーンと日本 1900』が、そして4月24日(水)~8月5日(月)に国立新美術館で『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』展が開催される。

19世紀末のウィーン、代表的な2人の画家


ウィーンを首都とするオーストリアでは、18世紀に女帝マリア・テレジアが統治した時代の啓蒙思想が徐々に発展し、芸術運動の萌芽となる。19世紀後半にオーストリア=ハンガリー帝国が成立すると、国は多様な民族を抱えることになり、特にウィーンにはユダヤ系の人々をはじめとするさまざまな民族が集まった。そして19世紀末になると、ウィーンで歴史上まれにみる文化的多様性と芸術の爛熟が成立し、今日ではそうした事態を「世紀末ウィーン」と呼んでいる。世紀末ウィーンにおいては絵画や建築、デザインやファッションなどがジャンルを超えて盛り上がり、芸術方面だけではなく心理学や哲学などにも広く影響が及んだ。

ウィーンの世紀末芸術を代表する画家といえば、グスタフ・クリムトとエゴン・シーレが思い浮かぶだろう。古い伝統との断絶を信条とする「ウィーン分離派」を創立したクリムトは、金やガラス、真珠層をふんだんに使った大作壁画《ベートーヴェン・フリーズ》や、恍惚の表情を浮かべる官能的な女性が描き出された《ユディトⅠ》など、かずかずの華麗な代表作を持つ。一方、ウィーン分離派とは距離を置いたエゴン・シーレの画中の人物は、身体を捻じ曲げて思いつめた表情を浮かべており、見ていて苦しくなる画風だ。しかし一般にタブーとされる要素を濃密に閉じ込めた絵は強烈な引力を放ち、人の本質を追い続けるという作家の行為を含めて高潔さを感じさせる。
グスタフ・クリムトの肖像写真/Josef Anton Trčka 出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
グスタフ・クリムトの肖像写真/Josef Anton Trčka 出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
《ユディトⅠ》グスタフ・クリムト/1901年/油彩、カンヴァス/(パブリックドメインの芸術作品の忠実な写真の複製)出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
《ユディトⅠ》グスタフ・クリムト/1901年/油彩、カンヴァス/(パブリックドメインの芸術作品の忠実な写真の複製)出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

貫禄ある体躯で生活のゆとりを感じさせるクリムトと、カフカやウィトゲンシュタインに通じる永遠の青年といったルックスのシーレ。見た目も画風も対極的な印象だが、シーレはクリムトの弟子だった時期もあり、シーレのモデルを務めた女性、ウァリー・ノイツィールはもともとクリムトのモデルだった。それでは、シーレの人を惹きつける孤高の作品はどうやって生まれたのか。彼の創作と生涯を追ったのが、坂崎乙郎による『エゴン・シーレ 二重の自画像』である。
平凡社公式サイトより(https://www.heibonsha.co.jp/book/b160429.html)
平凡社公式サイトより(https://www.heibonsha.co.jp/book/b160429.html)

画家シーレとモデルのウァリー、鏡のような関係性


エゴン・シーレは、1890年にオーストリアのトゥーレで生まれた。国有鉄道の駅長である父・アドルフ、意志強固な母・マリーを持ち、兄や姉に先立たれ、残った男児は自分ひとりという環境で、姉や妹に囲まれて育つ。父・アドルフは絵ばかり描いていたシーレに業を煮やして絵を燃やしたというから、息子の才能に理解があったとは思えない。アドルフは精神病になり、数年後に妻子を残して亡くなった。
エゴン・シーレ /1918年 出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
エゴン・シーレ /1918年 出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

父の死後、シーレはウィーン美術アカデミーに進学する。そこはヒトラーが憧れ、受験して不合格になる学校だったが、シーレは教授と反りが合わず、クリムトを師として選んだ後、自発的にアカデミーを退学している。クリムトに心酔していたシーレだったが、やがて独自の画風を確立し、クリムトのもとにいたウァリーと知り合う。
《自画像》エゴン・シーレ/1911年/油彩、板/ウィーン・ミュージアム蔵 出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) 
《自画像》エゴン・シーレ/1911年/油彩、板/ウィーン・ミュージアム蔵 出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

『エゴン・シーレ 二重の自画像』は、シーレとウァリーの、互いを映し出す鏡のような関係性に着目する。著者である坂崎の視点はたびたびシーレやウァリーと同一化し、読者は坂崎がシーレに限りなく共感しながら執筆したことを実感するだろう。シーレとウァリーは孤独だった。2人は絵画の制作過程で没頭して自分を見失い、相手を理解しようとする過程で、自己をより意識するようになる。

シーレのキャリアの中で特に優れた作品は、ウァリーと一緒だった時期に描かれたものが多い。シーレの絵は、何が対象であってもすべて自画像のように見えるが、特にウァリーはシーレが女性になった姿のように描かれており、シーレはウァリーを通して自分、ひいては人間全般の孤独や悲哀を見出したのだと思われる。
《Wally von Egon Schiele》エゴン・シーレ/1912年/Öl auf Holz/Leopold Museum 出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
《Wally von Egon Schiele》エゴン・シーレ/1912年/Öl auf Holz/Leopold Museum 出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

やがてシーレは恵まれた家庭の女性、エディト・ハルムスと結婚してウァリーと別れるが、エディトはシーレが自己同一化できる人間ではなかった。シーレの絵からは急速に力が失せ、著者である坂崎はその過程を「宝石の硬度と透明度を奪われ」たと形容する。エディトはスペイン風邪で亡くなり、シーレも同じ病で息を引き取る。28歳の若さだった。

対照的な美の共演 彩り豊かなウィーンの世紀末芸術を堪能


他者である女性をきらびやかな装飾の中に閉じ込めたクリムトと、自分を通してウァリーを見つめ、ウァリーを通して自分を描き出したシーレ。師弟関係にあった彼らは、それぞれに唯一無二の存在であり、対照的な美の世界を体現した。

『クリムト展 ウィーンと日本 1900』では、日本で過去最多となるクリムトの油彩が紹介され、『世紀末ウィーンのグラフィック-デザインそして生活の刷新にむけて』『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』では、クリムトとシーレの作品を同時に堪能することができる。優雅と退廃を併せ持ち、生の喜びの中に死の影を感じさせるウィーンの世紀末芸術をたっぷりと味わうことができる展示の数々を、この春、是非堪能してほしい。

当記事はSPICEの提供記事です。

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