稀勢の里「歪なナショナリズムのアイコン」として政治利用された相撲人生! 受け続けた「日本スゴイ」の重圧が…

リテラ

2019/1/20 06:55


 横綱の稀勢の里引退発表が大きなニュースになっている。しかし、暗澹とさせられるのは、それを取り上げているワイドショーやニュース番組のトーンだ。「唯一の日本人横綱が引退」「日本出身横綱が消滅」「19年ぶりの日本出身横綱だった」「モンゴル勢相手に孤軍奮闘してきた」などと、とにかく「日本人」を強調する報道ばかりがあふれかえっている。

結局、稀勢の里は最後まで、相撲界を覆うグロテスクなナショナリズムと純血主義のアイコンにさせられ続けたということなのか。

周知のように、近年、相撲界では、モンゴル力士の活躍の反動から、ファンやメディアが異常な「日本人力士への肩入れ」を見せるようになっている。モンゴルはじめ外国出身力士を「礼儀を知らない悪役」と位置づけ、それに立ち向かう「日本人力士」を礼儀正しい正義のヒーローに仕立てる。そんな報道と声援が、大相撲を覆い尽くしているのだ。

この歪なナショナリズムと大相撲ブームの相関関係を指摘したのが、相撲ファンとしても知られる作家の星野智幸氏だった。(「現代ビジネスオンライン」2017年1月13日「日本スゴイ」ブームの極み、大相撲人気に覚える“ある違和感”))。

〈場所中の国技館などに足を運べば、このブームの原動力を肌で理解できる。
声援の多寡を決めるのは、「日本人力士」であるかどうかなのだ。この傾向は3年ぐらい前から目につくようになり、2016年にことさら強まった。〉

星野氏は館内中が力士の名を呼んで手拍子を打つ、バレーの日本代表戦などの「日本チャチャチャ」によく似た応援が広まったことを取り上げ、こう指摘した。

〈この手拍子は、モンゴル人力士に対してはまず起こらないのだ。「日本出身」の人気力士か、モンゴルの横綱と対戦する日本の大関陣に対してのみ、起こる。〉
〈これらの現象を見てわかることは、大相撲はまさに「日本スゴイ」を感じるために、人気が急上昇したということである。「日本人」のスゴさを感じられそうな力士を応援し、日本を応援する集団と一体に溶け合って陶酔したいのだろう。〉(前同)

古くからの相撲ファンならではの説得力ある指摘だったが、実は、この「日本スゴイ」エンタメと化した大相撲の象徴が「日本人力士として孤軍奮闘、モンゴル人力士に立ち向かう」稀勢の里だった。

象徴的なのが、2013年の大相撲九州場所で起きた“事件”だった。当時まだ大関だった稀勢の里と白鵬との取り組みで、稀勢の里が勝利をおさめると、会場のファンからバンザイコールが起きたのである。

このグロテスクな光景に、やはり古くからの相撲ファンとして知られるデーモン小暮閣下は、『クローズアップ現代+』(NHK)出演の際、このときのファンの振る舞いについて、「北の湖がいくら強かったからといって、負けてバンザイは出ませんでしたよ。イチロー選手がメジャーリーグでなにかやったときにブーイングが起きたら悲しいですよね? そういうことを思って相撲を見ていかなければいけないんじゃないかなと」と苦言を呈していたが、正論と言っていいだろう。

しかし、稀勢の里が2017年に横綱に昇進し、大相撲の新たなスターとして祭り上げられると、この状況はさらに悪化していく。

もともとこの“日本人力士・稀勢の里”への熱狂的応援は排外主義と表裏一体のものだったが、もっと直接的な外国人力士(特にモンゴル出身の力士)へのヘイトまでとびかうようになってしまったのだ。

●稀勢の里優勝に立ちはだかったモンゴル力士に「ヘイト」ヤジ

2017年3月の大相撲春場所。この場所では、稀勢の里がケガを押して劇的な逆転優勝をおさめ、大きな注目を浴びたが、その稀勢の里と優勝を争っていたモンゴル出身の大関・照ノ富士に対し、観客からブーイングが起き「モンゴルへ帰れ」とのヘイトスピーチまで浴びせられたのだ。

それは、照ノ富士と関脇・琴奨菊の取り組みでのことだった。左膝にケガを抱えた状況で臨んだこの一戦で照ノ富士は立ち合いで変化、はたき込みで琴奨菊を破ったのだが、この内容に観客は大ブーイング。「そこまでして勝ちたいんか」「金返せ」「勝ったら何でもいいんか」といったヤジを浴びせた。そして、そのヤジのなかに「モンゴルへ帰れ」というヘイト丸出しのセリフが含まれていたのだ。

たとえ取組の内容に不満があったとしても、差別ヤジが許されるはずがない。しかも、この春場所では、千秋楽、稀勢の里が照ノ富士に対し、立ち合い変化を見せて勝利した。ところが、稀勢の里に対しては、照ノ富士に浴びせられたようなヤジは一切飛ばなかった。ようするに、照ノ富士は稀勢の里の優勝を阻む可能性のあるモンゴル出身だから攻撃され、「モンゴルへ帰れ」などという差別ヤジまで浴びせられたのだ。

だが、メディアはこうした差別をいさめるどころか、むしろ後押しした。照ノ富士と琴奨菊の一戦を報じたウェブ版のスポーツ報知が、なんと「照ノ富士、変化で王手も大ブーイング!「モンゴル帰れ」」と見出しをつけて報じたのだ。

ヘイトスピーチのヤジを好意的に受け止めているとも読めるこの見出しには批判が殺到。津田大介氏もツイッターで〈法務省がガイドラインとして「アウト」と示しているのにそれを否定せず(何なら肯定的な文脈で)見出しに使う報知新聞が一番アウトではこれ……。「美しい国」だよまったく。〉と苦言を呈するなどしていた。

こうした批判を受けて報知新聞社は翌日、見出しから「モンゴル帰れ」の部分を削除。また、記事本文にある「モンゴルに帰れ!」「恥を知れ!」などのヤジ紹介部分も削除したうえ、29日にはウェブサイト上に〈大関・照ノ富士関の記事と見出しで、観客のヤジを記述した部分に、ヘイトスピーチを想起させる表現がありました。人権上の配慮が足りず、不快な思いをされた皆様におわびします。〉と謝罪のコメントを出した。

●サンケイ、百田尚樹、ネトウヨが“稀勢の里は『カエルの楽園』愛読”と喧伝

稀勢の里が歪なナショナリズムのアイコンとしてかつがれたのは、土俵上だけではない。ネトウヨや右派メディアは、リアルに政治的な主張のために稀勢の里を利用していた。

たとえば、年間最多勝を上げ横綱昇進の期待が高まっていた2016年11月「サンケイスポーツ」(2016年11月25日付)は稀勢の里が父親から百田尚樹の小説『カエルの楽園』を贈られたという話を紹介。こんな信じられない解説を掲載した。

〈とくに「カエル-」は侵略によって国を失ったアマガエルが世界を放浪しながら「カエルを信じろ、カエルと争うな、争う力を持つな」と「三戒」の堅守にこだわるツチガエルの言動に疑問を抱く様子も描かれている。それは、モンゴル勢を中心とする外国出身力士が席巻する勢力図のなかで、あらがわなければならない国内出身力士の立場に置き換えることもできる〉

憲法改正のプロパガンダ小説『カエルの楽園』が描くご都合主義的世界観を、相撲界にあてはめるというのも信じられないが、それ以前に、同作品は、ツチガエルを侵略するウシガエルのことをあらゆるものを飲み込む気持ちの悪い殺戮者として描いている。サンスポは、モンゴル勢をこのウシガエルに置き換えており、その解釈自体がヘイトそのものというしかない。

しかも、この稀勢の里の政治利用には、百田尚樹本人も乗っかってきた。その翌2017年横綱に昇進が決まった直後の1月24日、今度は共同通信が稀勢の里の2014年初場所当時のエピソードとして、「池井戸潤や百田尚樹ら人気作家の小説」を読んでいたことを紹介すると、こんなツイートを投稿したのだ。

〈今日の「京都新聞」などに、「稀勢の里が、心が折れそうになったとき、百田さんの本を読んで頑張った」と言っていたという記事が載っていたらしい。
私の本が稀勢の里に力を込めて与えたと思うと、めちゃくちゃ嬉しい!〉
〈ネット検索したら、稀勢の里は去年の九州場所では『カエルの楽園』を読んでいたようですね。意外です(^^;今回、心が折れそうになったときに読んでいたのも『カエルの楽園』なのかな。)

さらに、ネットでは、ネトウヨも〈稀勢の里関は『カエルの楽園』を読まれて支那国と本気で戦う勇気を与えられたと思います。その結果稀勢の里関のパワーアップに繋がったのでは⁉〉〈『カエルの楽園』を読んだ稀勢の里は、対戦相手をみんなデイブレイク(引用者註:朝日新聞のこと)だと思って突進したんだと思う〉などと、無茶苦茶な解釈をして、稀勢の里を自勝手に分たちのヘイト思想、歴史修正主義の象徴にまつりあげはじめた。

実際は、稀勢の里が心が折れそうになって百田や池井戸潤の小説を読んだのは201​​4年初場所休場の後。『カエルの楽園』は2016年2月の出版だから、そもそも心が折れた当時の稀勢の里が読んでいるはずがないのだが(というか、『カエルの楽園』が折れた心を勇気づけるなんてありえないと思うのだが)、百田やネトウヨは、我田引水の解釈でまんまと政治利用してしまったのである。

●「日本スゴイ」のプレッシャーが稀勢の里の力士生命を縮めた

そして、特筆しておかなければならないのは、稀勢の里をナショナリズムのアイコンとしてかつぎあげたこの政治利用は、彼らがひいきにする稀勢の里自身をも苦しめた、ということだろう。星野智幸氏は前述のコラムで日本人力士に贈られる手拍子の異常性について書いた後、こう続けている。

〈稀勢の里はこの手拍子の重圧に負けたようなものである。象徴的だったのは秋場所初日で、稀勢の里にはとてつもなく盛大な手拍子が起こったときである。ガチガチに硬くなった稀勢の里はいきなり負けた。
 その場所の稀勢の里は負けが込み、優勝は日に日に遠のいていく。すると、手のひらを返したように手拍子は消えた。そして、序盤は何の期待もされなかった豪栄道に優勝の芽が出てきたとたん、まるでそれまでも主役だったかのように分厚い手拍子が送られた。〉

稀勢の里が2017年に19年ぶりの日本人横綱となった後、1回優勝したのみで、ほとんど活躍できなかったのも、ナショナリズムや純血主義を背負わされたことと無関係ではないだろう。

稀勢の里は、2017年春場所に負った左胸周辺の負傷が原因で、それ以前の相撲が取れなくなったと言われるが、この負傷を深刻なものにしたのは、それこそ、観客やメディアが「日本スゴイ」の象徴として稀勢の里を祭り上げ、「日本人横綱」として強行出場し続けざるを得ない空気をつくりあげたためだった。「スポーツ」と「国家」を結びつけ、そこに「日本スゴイ」の象徴をつくりだすこのグロテスクな動きは、アスリートにもマイナスしかもたらさない。

しかし、連中が、そんなことを反省するはずもない。手拍子の対象を変えるように、稀勢の里のことなどすぐに忘れて、また、新たなナショナリズムのアイコンを探し出すのだろう。

前出のコラムで星野氏は、もともと被差別民の文化であった大相撲の歴史的起源を紹介しながら、いま起きている現象をこう批判している。

〈その相撲がいつの間にか、純血を求める国威発揚の場に変わろうとしている。恐ろしいのは、この線引きはごく自然なことであり何もおかしいとは感じない、という人のほうがもはやマジョリティとなっていることだ。それが今の日本社会の反映であることはいうまでもない。〉

こうしたスポーツとナショナリズムの問題は相撲だけに限った話ではない。2020年の東京五輪に向けて、この危険な現象はますます進行してしまうのだろうか。
(編集部)

当記事はリテラの提供記事です。

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