【亡命してきた人、亡命した人】アブデュルレシト・イブラヒム×岡田嘉子

TheNews

2019/1/18 16:30


 多磨霊園には亡命してきた外国出身者も多く眠ります。前回紹介したインド独立運動家のラス・ビハリ・ボースや、ロシア革命のあおりを受けて日本に亡命したプロ野球選手のヴィクトル・スタルヒンらがいます。特に多磨霊園にある日本で死亡した外国人を埋葬する専用の墓地として造成された外人墓地区には、ロシア系、欧米系、中国・韓国系の墓石が建ち並び、特にトルコ系の亡命タタール人の方々の墓石が多く見られます。その中で最も世界的に著名な政治亡命者であるアブデュルレシト・イブラヒムがいます。

アブデュルレシト・イブラヒムはロシア・シベリアのトボリスク県タラ郡出身。ブハラ系タタール人ウラマー。故郷で教師をしていましたが、ロシア帝政を批判する論説活動を展開。1905年(明治38年)ロシア第1革命後、タタール語紙「ウルフェト」を刊行、ロシアのムスリム住民の政治参加を訴えます。ロシア・ムスリム連盟を設立し中心的役割を果たしますが、1906年に政府が非ロシア人政治活動の取り締まりを強化したため、国外脱出をしました。以降、中央アジアのブラハ、サマルカンド、セミレチエ、シベリア、モンゴル、満州、日本、韓国、中国、シンガポール、インドネシア、インド、ヒジャーズを巡る大旅行を行い、『イスラームの世界』を著して紹介しました。日本には1909年2月から6月の約半年間滞在し、伊藤博文、大隈重信ら要人との会見、学校等での講演、イスラームの紹介などを行いました。日本での体験の詳細な見聞記述はイスラームの世界での日本観に大きな影響を与えたといわれています。

1917年(大正6年)ロシア革命によりロシア帝政が打倒されると、当初はソビエト政権との連携を図りましたが諦め、トルコに移るも共和政下のトルコでは冷遇されました。そんな折、1933年(昭和8年)日本から招聘を受けて再訪日し、以後は亡くなるまで日本で東京回教寺院(現在の東京ジャーミイ)設立、2代目イマーム(実質的には初代)、タタール雑誌「新日本通報」を発行、アラブ語教室を開くなどイスラームの普及活動に尽力しました。

アブデュルレシト・イブラヒムさんのお墓

世界の混乱時に日本に亡命してくる外国人がいる中で、外国に亡命した日本人もいます。女優として活躍していた岡田嘉子です。

岡田嘉子は広島県広島市出身。父は新聞記者で、オランダ人のクォーター(母方)です。一家は小学校を8回も転校するほど転々とし、1917年(大正6年)父の北門日報主筆になったことを機に北海道小樽へ共に渡りました。翌年同社の婦人記者として入社します。

1919年に父が劇作家の中村吉蔵と縁があり、父に連れられ上京して中村の内弟子となります。中村が松竹と提携し新芸術座を旗揚げし、嘉子は有楽座カルメンの端役で初舞台を踏みました。新芸術座はすぐに解散となり、新文芸協会に身を置きます。1921年の舞台協会帝劇公演での「出家とその弟子」の芸妓楓で一躍脚光をあび、新劇のスター女優として注目され、翌年から日活向島と契約しました。「髑髏の舞」で映画初主演、新派スターとして注目されるも、関東大震災のため日活向島が閉鎖してしまいます。日活京都撮影所と契約し「街の手品師」で高い評価を得、続く「大地は微笑む」もヒットとなり、モダンで妖艶な新しい女優として、この年の映画女優人気投票でトップとなりました。1928年(昭和3年)には岡田嘉子一座を結成し各地を巡業もしています。

映画に舞台に活躍をしていましたが1936年、演劇道場に参加し左翼演劇新協劇団の演出家の杉本良吉を知り、恋におちます。日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、出演する映画にも表現活動の統制が行われるようになった時代でしたが、杉本は共産主義者でありプロレタリア運動に関わっていたため執行猶予の身でした。二人が出した答えは、"愛を貫くためソ連への亡命"でした。1937年12月27日に上野駅を出発し、北海道を経て、樺太国境を越え、ソ連に入ります。これは意外なカップルのセンセーショナルとして各紙新聞に「恋の逃避行」と見出しが躍り、謎の越境と日本中を驚かせました。

不法入国した二人は、入国3日目にして拘束され、離され、GPU(現KGB)の取り調べを受け、スパイ容疑として独房に収容されます。1939年に杉本はスパイ容疑として銃殺刑(長年獄中病死とされていた)。嘉子は10年間強制収容所に幽閉され、1947年に釈放後も日本へ敢えて帰国せず、モスクワ放送局で日本語アナウンサーとなりました。

1950年戦争捕虜から抑留され釈放後もソ連に残留し、嘉子と同じアナウンサーになっていて、かつて共演もしたことがある日活俳優の滝口新太郎と結婚。アナウンサーとして日本のテレビに出演していたこともあり、当時の東京都知事の美濃部亮吉(多磨霊園にお墓があります)らの国を挙げての働きかけにより、1972年、亡くなった夫の滝口の遺骨を抱いて34年ぶりに日本の地を踏みます。

一端ソ連へ戻るも、1974年に再来日し、以後日本の芸能界に復帰しました。1986年ソ連でペレストロイカによる改革が始まったことを機に、国籍のあるソ連へ再び戻り、モスクワの自宅で死去。享年89歳。モスクワ日本人会の手で故国に帰り、多磨霊園に埋葬されました。

岡田嘉子のお墓

*嘉子の墓所は正面に小さめな岡田家之墓が建ち、その右側に滝口新太郎と岡田嘉子の自筆が刻む墓石が建ち一緒に眠っています。その墓石には「悔いなき命をひとすじに」と刻まれています。

岡田嘉子さんと滝口新太郎さんの自筆が刻む墓石

アブデュルレシト・イブラヒム 埋葬場所:外国人墓地区1種別後
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ibrahim.html

岡田嘉子 埋葬場所: 6区 1種 7側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okada_yo.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

当記事はTheNewsの提供記事です。

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