藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#61 所作 

NeoL

2018/12/6 15:30



所作の美しい人が、美しい。最近しみじみとそう思う。

電車内や歩道で、つい目が止まってしまうのは、背筋がすっと自然に伸びている人ばかりだ。容姿や服装が格別秀でているわけでもないのに、群衆の中で静かに目立っているのである。 写真家という仕事上、多くの人をファインダー越しに見つめてきたが、いわゆる見られることを仕事にしているモデルや俳優の方々は、さすがに姿勢が整っていて、こちらまで背筋が伸ばされてしまう。だが一般の人々の中にも姿勢の良さでは引けを取らない人も見受けられ、それは結構稀な例でもあるから、おのずと目立つのだ。 そういう人を見かけると、自分の姿勢のふがいなさを素直に反省する。背筋を伸ばし肩の力を抜いて颯爽とコピーし始めるのだが、まあ、半日ともたない。気づくと足を組んで座り、テーブルや机に肘をつき顎を乗せていたりする。 姿勢。こればかりは一夕一朝では身につかないようだ。それだからこそ、姿勢の良い人を見かけると、目が奪われてしまうのだろう。 人のせいにするわけではないが、姿勢という点だけでいえば、現代の日本人のそれは江戸時代の人々に劣るのではないだろうか。目に映るものの影響力を考えれば、姿勢の悪い人ばかりに囲まれていては、基準値も下がってしまうというもの。姿勢の悪さを咎めない世相のせいにするわけではないが、せめて自分こそは姿勢良く在りたいという願いの根は、いったい何処にあるのだろう。見栄えを気にする虚栄心なのか。それも皆無とはいえないが、おそらく正しく健康で在りたいという生物的な本能に属したものではないか、と思う。

だが、私が惹かれるのは、単に姿勢の良さだけではないようだ。佇まいと言えばいいのだろうか。その人が内側から醸し出している何かが、私の注意を捉えるのだと思う。心の整いが、身体の整いとして現れ、姿勢を美しく見せている。そういう状態の人に惹かれるのだ。 日本語には、所作という言葉がある。品の良い、優雅な立ち居振る舞いをいうのだが、ある年齢に達し、物を見る目を程々身につけてしまうと、形ある物への興味や執着は落ち着き、それにとって代わるように形を持たない美しさ、形あっても止まらない美しさへと興味は移ろうようだ。 所作もその一つで、自分の人生に折り目をつける頃に、人として美しく在りたいという願望を叶える一つの方法として現れる。どんなに素敵な服を纏い、趣味の良い品々に囲まれ、話題のレストランで食事をするとしても、その人そのものが、それにそぐう品性と所作を身につけていなければ、とても残念である。

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所作を整えると聞けば、堅苦しい決まりごとを沢山覚えて、1ミリのズレもなく全うするような、古臭いものに思えるかもしれない。いわゆる、道がつく習い事を学ぶお稽古事などを連想しがちだが、今回ここで言う所作は、もっと気楽なものである。気楽とはいっても、道や流派の決まりからは自由だというだけで、真面目に向かい合うべきものである。

禅語に「行住坐臥」というのがある。行は歩く事、住はとどまる事、坐は座る事、臥は寝る事を意味し、生活場面の全てが修行だとする。修行とは自分を高めていくことだが、生活の場面全て、つまり今の今を十分意識して、美しく没頭して生きる事を説いている教えである。 私は、常々この言葉を意識するように心がけているが、実際は忘れている事の方が多い。だが、この教えを心の何処かに掛けておくだけでも随分と違う気がしている。時々行住坐臥を思い出しては、心と身を正し、その時の行いに清々しさを呼び込む。

禅と聞けば、坐禅を連想する人が多いと思う。その坐禅において、大切にされていることに、調身、調息、調心という三語がある。 まず、調身だが、これは姿勢を整えること。調息は、呼吸を整えること。調心は、心を整えること、である。順番通りに整えることが大切とされ、姿勢を整えることで、呼吸が整い、呼吸が整うことで、心が整う。まずはしっかりと形を作ることが大切というのは、意外かもしれない。精神的な教えだと、まず心を整えてから外側へと意識を向けるものだと思いがちではないだろうか?だが、ここが禅の深いところでもある。実際、姿勢を整えると胸が開き、複式呼吸がしやすくなる。猫背だと、胸も内臓も圧迫され、圧迫された部位は当然のこと、体全体の血行もが悪くなる。 血行を良くするというのが、健康や美容の大前提でもあるから、まずは姿勢を整えるというのは、科学的にも辻褄が合う。 呼吸が整うと心が整うというのも、ほとんどの人が経験済みだと思う。 緊張した場面で深呼吸して冷静になろうとするのは、誰もが試みることだ。また、怒っている時、興奮している時には、呼吸が浅くなっていることからも説明がつく。心の安定には、呼吸の安定が必要なのだ。 幸福とは、心がゆったりと落ち着いている状態だとすれば、幸せであるためには、まずは姿勢を整えることが必要なのだ。 だが、人は動物なので、ただ姿勢を正してじっとしているわけにはいかない。日頃から、歩いたり、しゃがんだり、座ったり、登ったり、様々な複雑な動きをしている。それを姿勢良く行うためには、何か軸が必要である。それに当たるのが所作ではないだろうか?

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前述したように、所作と聞くと、堅苦しくて、逆に肩が凝ってしまいそうに思われるが、それも最初だけで、慣れれば長い年月によって整えられてきた所作というものが、実は効率的で快適さをもたらすことに気づくと思う。 禅の修行僧である雲水は、厳しい修行をまずは100日続けることから始める。始めは決められた作法の一つ一つが辛いものではあるが、それに慣れ板についてくることには、無駄を省いた動作が所作となって身につくのである。 例えば、箸はどうとでも持てはする。だが、いわゆる正統的な持ち方を用いることが、最も機能的で効率的であることに気づくはずである。長い年月をかけて良しとされ、伝統となっているものには、理由がある。 所作は、自身の体の効率だけを求めているわけではない。例えば挨拶においては、「語先後礼」という言葉がある。まず相手をしっかりと見て挨拶の言葉を述べ、次に礼をするということだ。この二つを同時にやる人が多いと思うが、これを区切ってやるだけで、相手への伝わり方に、真摯さが加わるはずだ。つまり、相手を思いやることが、所作には含まれている。むしろ大方の所作の美しさは、相手への思いやり、気配りのためであると言ってもいいだろう。 所作の整っている人の醸し出す美しさは、そこにいる人々を和ませ、また背筋をのばしてくれるのだ。利他の思いやりである。 所作の美しさを身につけている人は、TPOを選ばずに、常に安定して落ち着いている。心乱れることなく、すっと自然にその場所に佇んでいられるので、人として信頼される存在になる。

では、日常で所作を磨くにはどんなことに気をつけたらいいだろう? 大方の人は、仕事や家事に追われる慌ただしい毎日を過ごしていると思うが、そういった日常に無理なく収まっていける所作でなくては、額縁の中の絵と同じで、憧れでしかなくなってしまう。 何はともあれ、背筋を立て、姿勢を整えることである。とは言うものの、これが実は一番難しいかもしれない。シンプルなことは大概そうであるように。 姿勢というと背骨や背筋を意識しがちだが、内臓にゆったりしてもらう、というように、内臓を押し潰さずに身を起こし、十分なゆとりを与えるイメージの方が、堅苦しくないかもしれない。同時に、顔や腕など外側の目立つ部分ばかりに気をとられている意識を、内側の臓器に向けることで、新たな気づきが生まれる期待も持てる。いったいどれだけの人々が、自分の内臓に意識を向ける時間を持っているだろうか? 内臓にゆったりしてもらったら、次は肺を広げてあげることだ。姿勢が悪いとこの部分も縮こまっていて呼吸が浅くなる。背骨や背中などの裏ではなく、内臓や肺などの表へと意識を向けて姿勢を正すのは一つのやり方になると思う。この場合の裏とか表は、あくまでイメージとしてである。

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姿勢を整える、という基本ができたら、いよいよ所作である。 まずは、ゆったりと一つ一つの動作を行うことだ。あの青信号で渡ろうと走って向かったら、間に合わなくて、後からゆったり歩いてきた人と結局同じになってしまう例もあるように、急いてもさほど変わるものでもない。むしろゆったりとした間違いのない動きで行う方が、結果的に効率的なこともままあるだろう。動作をゆったりとすれば、当然呼吸もゆったりとして、精神状態もゆったりと安定する。1日というのは1息の連続の繋がりなので、ゆったりと過ごしていれば、ゆったりとした心の広い1日を生み出すことになる。周囲に与えるイメージが断然こちらの方がいい。 また、効率至上を刷り込まれていることが多い為、常にながらで行うことが習慣化されていがちだが、これも所作としては美しくない。一つ一つに心をこめ、動作を同時に重ねないとする癖づけは、長い目でみたら、その人を大らかに幸せにすると思う。 とはいえ、それが仕事場の雰囲気から不可能であることもあるだろう。そうした場合は、姿勢だけにでも留意するといい。正しい姿勢は、正しく美しい仕草や言葉を生むので、所作まで意識を向けなくても、まずはいいと思う。 私は、毎朝家の入り口あたりを掃き掃除するのだが、禅では掃除第一の修行と考えている。掃除をしながら悟ることもあるのだ。掃除は、心の掃除へと繋がり、わずか10分ほどの時間だが、やるとやらないでは、その日が違ってしまう。その時は、なるべく姿勢を整えゆったりと優雅に行うように気をつけているつもりだ。朝の習慣として、外の空気に触れ手を動かし血を巡らす掃除を、是非取り入れてみてほしい。

所作というのは、つまり、整った姿勢で、落ち着いて、一つのことに正対して丁寧に行うことであり、自由にやればいいと思う。日常の全ての動作を所作として整えていくことで、その人は内側から美しく変わっていける。伝統的な所作にも興味があれば、触れてみるととても参考になる。所作には、それに至った背景も一緒に知るとなおさら楽しい。 外見的な容姿は、いつかは必ず衰えるが、所作の美しさはずっと続く。また、所作に意識を向けるということは、美意識を外見から内面へと転換させるためのツールを持つということだ。 全ての立ち居振る舞いをもう一度チェックしてみてほしい。歩き方、座り方、喋り方、言葉の選び方。そこに人としての成長と、成熟が現れている方が、楽しいと思う。それは手にした方がいい。なぜなら買えないものだからだ。

※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。「#62」は2019年1月7日(日)アップ予定。

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