安倍政権、北方四島返還を事実上断念…元島民の思いを蹂躙した「プーチンへの手紙」事件


 北方領土をめぐる交渉で安倍晋三首相は来年1月にもロシアのプーチン大統領と首脳会談を行う。2016年12月にプーチン大統領が来日した際にも日露首脳会談が行われたが、その場で安倍首相がプーチン大統領に渡した「旧島民の手紙」について、国境学の第一人者である岩下明裕九州大学教授・北海道大学教授は疑念を持った。

筆者は17年2月に岩下教授を取材したが、今、その内容を掲載する。そこからは、安倍政権の「まやかし外交」が透ける。

――日露トップ会談の2日間について教えてください。

岩下教授 12月15・16日の両日、私はテレビ番組に出演して解説などをしていました。安倍・プーチンの共同記者会見の直後に旧島民の3人が会見する映像が入るはずでしたが、「時間がほしい」と退席してしまいました。声明では「返還」どころか「北方領土問題の解決」の文言すらない。「プーチン大統領が目の前で読んでくれた」と安倍首相が胸を張った元島民の手紙や、元島民の島への墓参りの手続き簡素化には驚きでしたが、当初はさほど疑問は持たなかった。

ところが翌朝、NHKのニュース番組を見て「あれっ」と思ったんです。番組では元島民の児玉泰子さんが手紙を配り、「これがプーチン大統領を動かすことになった」と美談仕立てで手紙の意義が強調されました。『NHKスぺシャル』で安倍首相に会う前に別室で手紙とおぼしきものが配られ、手紙の一部が映されましたが、私は返還にまったく触れられないのが不思議でした。元島民がロシアに「島を返せ」と言わないはずがない。最初は、手紙には「島を返せ」という主旨の文面はあるのに、それを出さずに報道したと思ったのです。

――手紙は公開されたのですか。

岩下教授 公開されていません。一部報道によれば「島で朝を迎えたい。いつでも墓参りしたい。自由に島に行きたい」などと書かれていますが、「島を返してほしい」とはまったく書かれていない。あたかも自由渡航が一番望むことのような仕立てです。7人が署名したはずの手紙を誰も持っていない。NHKでは手紙を児玉さんが配るシーンが出てくる。あらかじめ用意されていた手紙にサインさせたなら、元島民が持ってないことと辻褄が合う。

NHKが手紙の作成時から関わらないと、非公開の手紙を配る場面など撮影できない。手回しよくロシア語も用意されていたが外務省がこんな手紙を用意するとは思えないので、仕組んだのはおそらく首相官邸。官邸サイドとNHKが絡んで本来の争点をそらし、成果を演出したといわれても仕方がありません。

――争点そらしとは?

岩下教授 2005年の小泉・プーチン会談と同様に、実は今回の会談も共同声明を出すのに失敗しました。しかし、それでは格好がつかないと判断したのでしょう。どの程度の意味があるのかよくわからないのですが、プレス向け声明というのを出して成果を取り繕ったように思います。

これは2枚あるのですが、その1枚で「元島民の墓参渡航の簡素化」がうたわれている。実は現在、根室から船で入るとき、入境手続きは国後でしかできないため、そこから歯舞に行くには時間がかかります。そこで根室に近い歯舞には直接行きたいという元島民の希望にこたえたのがこれなのです。島民の希望に寄り添っているようにみえますが、実は昔はやっていたことなのです。あるときからロシア側が歯舞での手続きを拒否してきたので、長年やれないままになっていました。目新しいといえるのは、中標津空港から空路の利用を行うことの合意でしょう。

ただ不思議なのは、冬場でも往来ができるかもしれませんが、元島民が行きたい墓地は道がなく、船でしか行けない場所にある。空路の提案は、政府が仕掛けようとしている共同経済活動、これがプレス向け声明の2枚目なのですが、そのためのように思えます。私には元島民はダシにされたようにみえます。

おそらく官邸サイドは当初、「二島プラスアルファの返還」で進めたかったが、それができず、プーチン大統領から「今そういう話はしないでくれ」と言われた。二島も駄目なら、駄目元で四島論に戻すか、あるいは二島返還すらも厳しいが、この道を進むか、どちらかです。いずれにせよ、あの手紙は表向き四島返還で団結してきた元島民の返還運動に大きなダメージを与えた。

●日本政府の“思い込み”

――昨夏、急にメディアが盛り上がり「二島が返還される」かのような報道がなされました。

岩下教授 これは官邸しか取材していない政治部の声で、国際部のようにロシア取材をすればそんなに簡単ではないことはすぐわかるはずです。プーチン大統領の姿勢は一貫している。

日本は、ロシアが1956年の日ソ共同宣言を認めるのならば二島は無条件で返還されるように思い込んだ。一方、ロシア側は二島とも渡したくないが、宣言は認めざるを得ず、そこからの交渉なら返還の条件を決めるだけになる。いわば択捉、国後の返還は論外で「色丹をいくらで買いますか」という姿勢です。それを日本側は「この道を行けば二島が返還され、さらにプラスアルファがある」と思い込んだ。

――「56年宣言」の解釈すら日本は誤ったのですか。

岩下教授 誤ったというより、自分の解釈を相手も共有して当然と思い込んでいた。ここまでやろうとした以上、2005年の小泉・プーチン会談のような決裂では困る。「手紙の演出」で安倍首相が元島民に寄り添ったような美談を仕立て、領土に触れない声明を「成果」とした。

先にも触れましたが、根室市の会見場で元島民も共同記者会見のテレビ中継を見守りましたが、会見席の3人はすぐ感想を述べずに、退席してしばらく協議をしました。退席と手紙との関係はわからない。ただ、元島民はトップ会談のたびに何度も裏切られ、今回の「成果なし」は予想もできたはず。会見した千島歯舞居住者連盟の脇紀美夫理事長は手紙に署名した一人ですが、「こういうふうに使われたのか」と歯噛みしたのでは。

「成果ゼロ」の結果を恐れた官邸は、プーチンをあまり刺激したくなかった。共同経済活動だけでは弱いし、ロシアがどうこれに応えるかもわからない。だから元島民の手紙を使って、今回の会談の成果とみせたかったように思います。

会見で連盟の河田(弘登志)副理事長が「主権を棚上げにした経済活動とはいかがなものか」と怒りを見せました。河田氏は外に向かっては四島返還論を主張する強い方だと私は考えています。主権を棚上げにする交渉を外務省が進めない間隙に、経産省筋が入りこんだ。今井尚哉首相秘書官が外務省のロシアスクールを外したとのニュースもあります。興味深いのは、トップ会談の後、異動の季節でもないのにロシア課長など外務省の交渉の担い手が替えられた。新しい課長はロシアスクールのエースともいわれる(編注:その後、同課長は私事により停職となり職を解かれた)。この人事をみて、官邸そのものも会談が「成功」ではないことを自覚しているように感じました。

これから政府は墓参でも共同経済活動でも一生懸命、交渉して、多少なりとも具体的な進展をみせようとやっきになるでしょう。世論に対して「動いている」ように見せることが肝要ですから。でも、私は首相が「プーチンを信じる」ということが信じられません。

●「四島返還は終わった」

――安倍首相の言う「解決」とは、返還ではないのでしょうか。会談の評価は?

岩下教授 私の評価は「墓標」です。少なくとも「四島返還は事実上、あきらめました」と宣言したに等しい会談だと考えます。今後は二島をめぐる交渉になり、色丹を「高く買わされる交渉」。歯舞プラスアルファ、あるいは二島マイナスアルファの段階に入りつつあります。択捉・国後は論外。もちろん四島に関しては返還交渉も返還運動も終わりの始まりだと思います。元島民のなかには表では「四島」と言っても、内心あきらめている人、ひとつでもふたつでもいいと思っている人も少なくない。さらに元島民一世と違い、二世の多くは返還よりも、往来や交流でいいと考える人も多い。

皮肉ですが、運動も交渉も「四島返還は終わった」という意味では、今回の会談は結果として歴史的な道筋をつくったのです。必ずしもこれは首相の意図ではないでしょうが、四島をあきらめ、現実的な領土返還の道筋をつくる「偉業」をなし得たと後世に評価されるかもしれません。もっとも、

政府の立場はいまだ択捉・国後は日本の「固有の領土」。その領土をあきらめたということになりますから、尖閣など他の領土問題への波及が気になります。

――岩下先生はロシアが中国に領土を返還した経緯から、独自の解決案をお持ちですね。

岩下教授 かつて歯舞、色丹、国後の「三島返還論者」と評されたこともありますが、少し違います。当時の私は「二島プラスアルファ」が持論でした。ただ今の私の解決案は三島でも二島でもありません。色丹島には3000人のロシア人がいるので断念し、代わりに国後の一部の警備隊しかいない地域をもらうことを提案したい。

昨年暮れの元島民の手紙などの仕掛けは個人的には許せませんが、大局的に考えれば「択捉・国後はない」という方向へ政策を転換させたとすれば、領土問題解決のきっかけになるかもしれない。ただ色丹をどうするのか、厳しい交渉は続くでしょう。
(構成=粟野仁雄/ジャーナリスト)

あなたにおすすめ

ランキング

もっとよむ

注目ニュース

もっとよむ

あなたにおすすめ