藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#60 落書きで癒す

NeoL

2018/11/8 07:00



ご存知のように、世の中には、様々なヒーリング法がある。古今東西、定番、流行、それらをぐるりと見渡せば、さしずめ市場のような景観ですらある。心へのアプローチ、身体へのアプローチ、心身両方へのアプローチ、先端科学技術を応用したもの、伝統的な民間療法、まさによりどりみどりだ。 その中から現在の自分にとって最適なものを見つけるのは、想像しただけでも難しいことが分かるだろう。ご縁次第と言ってしまえばそれまでだが、すべて受動的にならずに、自分から探していく意識を保つことは大切だ。試行錯誤は決して無駄にはならない。知識を深まるし、おのずと意識も高まる。 心身は、それぞれに切り離せないものだと言うことは、ホリスティックな立場から説明しなくても、生物としての直感として誰しもが持っていると思う。だが、医療や治療へのセルフケアは、どうしても目に見える身体に偏りがちで、メンタルへのケアは怠りがちだ。 精神疾患になる前に、未然に防ぐことは、特にストレス過多になりがちな都市生活者にとって、たしなみになると思っている。カウンセリングが欧米ほど浸透していないのは、精神疾患に対する偏見と恐れからかもしれないが、虫歯のチェックをするくらいな気安さでメンタルのチェックができるようになると、他人にも自分にも寛容な余裕がある人が増え、暮らしやすい世の中に繋がると思う。

私が最近好んでいるのは、絵を描くことだ。 子供が使っていない画材を引っ張り出して、なんとなく始めたのだが、これがとても面白い。発表したりするような気持ちは全くなく、言って見れば、ただの遊びである。絵を描くことは、もともと嫌いではないが、得意とは言えないレベルである。絵というよりも、落書きにかなり近い。 きっかけは、ふらりと立ち寄った画材屋でスケッチブックのコーナーにあった正方形のクロッキー帳との出会いだった。メーカーはフランスのCANSONで、一辺30センチ弱の結構大きなクロッキー帳である。厚みも2センチほどあり、手にするとずっしりとした量感がある。この手のものはだいたい長方形なのだが、正方形の珍しさと、何やら直感めいたものが働いて、レジへと持参することになってしまった。レジの女の子に尋ねると、正方形は確かに珍しいが、人気はあるのだそうだ。現に最後の一冊ではないどころか、5冊以上は並んでいたのだから。

何やら思い立って買ったとはいえ、特に描きたいモチーフがあるわけでもなかった。絵の具やマーカーなどは、子供のものが家にあるはずなので、一切それらは買わずに、ただ正方形の大きなクロッキー帳だけを手に入れた。実に何年ぶりだろうか?おそらく30年ぶりくらいにはなると思う。画材屋からの帰路は不思議な高揚感に包まれていた。新しいノートや文房具を手にした時の、少年の日が懐かしく思い出された。少し大げさに言えば、探していた欠けたピースを見つけたかのように嬉しかった。自分は描かなくてはいけない、そう思えたのだ。

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帰宅すると、さっそく子供の部屋の収納を漁り、埃を被った箱から色鉛筆やクレヨンやらを取り出して、自分の机の上に並べた。LYRA社のクレヨンは、まだ未使用で、水を含んだ筆でぼやかせるものだった。机の中央に買ったばかりの正方形のクロッキー帳を据えて、さらに筆ペンやマッキーを脇に並べてみた。さあ、何を描こう。 クロッキー帳の最初のページをめくると、当たり前だが、朝の雪原のように何にも汚されていない姿があり、息をのんだ。この美しさを忘れていたのだ。始まる前のことを真っ白なキャンバスなどと言うが、まさにそれであった。 さあ、何を描こう。さしあたって描きたいものは無いのだが、それが素晴らしいことのように思えた。描きたいものが無いのに、描こうとしている。それはどう生きていいかわからないのに生まれてしまった者と対応しているかのようで、自然現象の荘厳の香しさがあった。また、懐かしい原風景のようでもあった。もっと分かりやすく言うならば、子供の頃に戻ったようだった。そう、描きたいものなどなかったのに、アスファルトにチョークで描き始めたあの最初の瞬間を思わせたのだ。 真っ白な最初の1ページを眼下にして、これはヒーリングになるなとすぐに思いついた。何か描きたいものが心に浮かんでしまう前に、どんどん指先に任せて描いていく。誰に見せるためでもなく、まして、「表現」という呪縛に絡まれることもなく、ただひたすらに遊びとして描いていく。没頭し、熱中し、ただ描くだけの行為は、セルフヒーリングではないだろうか、そう直感した。

セルフヒーリングにおいては、普段は論理的な思考などに覆われてしまっている私たちの裸の心に自ら触れることが大切である。社会的な責任や道徳を優先させて人の世界は保たれているのだが、そこには本心を押さえてしまうが故の歪みが程度の差こそあれ誰にでもある。本当の自分と、社会的な自分とが大きく引き離されてしまうことで分裂してしまう人格を、手なづけるようになんとかしつつ私たちは暮らしているのだが、時々はギャップに心を配る必要がある。メンテナンスである。 そのためには様々な方法があり、カウンセリングなどは他者との対話によって導かれるものだし、セラピーと名のつくものは大方が自分と折り合いをつけていく術である。 だが、医療がそうであるように、これからはセルフヒーリングの時代であり、医術をはじめ特殊な能力を持った他者に頼り切るだけでなく、メンタル面も自己管理し、予防や、対処に勤しむことが必要となる。 スマホなどの普及によって、投資や芸術表現などが特殊技能分野から解放されたように、情報や手段、方法がオープン化されるに伴い、大方の物事が個人的に習得可能になった。もちろんセルフヒーリング然りである。 これからの世の中では、解放されたかつての特殊技能、技術を比較的容易に身につけることで、それぞれが個人商店経営者のように存在することが可能だ。その分、多くのことを出来る多芸さが求められる。投資をしつつ音楽制作をし、さらにボランティアに精を出すような多面性を持ったライフスタイルが、これからはさらに可能となり普及するだろう。

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少し話が逸れたが、セルフヒーリングは歯磨きぐらいの当たり前になる流れの中で、日々の習慣に例えばマインドフルネスを取り入れるように、何かしら自分に合った方法を一つ二つ持っていることになるだろう。 そのうちの一つに、我を忘れて何かに没頭する趣味的な何かがあるといい。忘我というのは、ひとつの到達すべき宗教的、精神的な境地でもあるくらいで、座禅などしてみると分かるが、これが案外難しい。だが、実は好きなことに没頭している時がまさに忘我の境地である。だが気をつけたいのは、没頭しつつも思考がフルに回っているのは、ただの熱中であり忘我とはならない。論理的な思考を使いながら将棋を差したり、受けを狙いながら音楽を作ったり、あれこれ試行錯誤しながらゴルフの打ちっ放しをするのは、忘我には至らない。 忘我とは、我を忘れるばかりでなく、その過程で左脳活動を停止し、いわば普段の生活からあちら側へと越境を試みている状態である。

で、話を始めの方へと戻すのだが、大きな四角いクロッキー帳を机に起き、真っ白なページに向かい合った時の高揚は、左脳活動停止の気配に満ち満ちていたのだ。仕事で写真撮影をする時は、やはりどこか冷静であり、クライアント、顧客、自分の表現欲求を、滑らかにバランスよく満たすことを無意識に行っていて、熱中してはいるが、決して我を忘れてしまってはいない。それは仕事を離れた個人的な作品に対しても、すべて我を忘れて没頭することはない。なぜなら表現には受け手に届けたいという気持ちが前提にあり、つまりエネルギーの交換を目的としている以上、ベクトルは常に外部へと向かう。外部が喜んで受け取ってくれるかどうかのプラオリティは人それぞれだが、全く無視はできない。少なくとも私の場合はそうである。もちろん芸術家には、作品制作にただ没頭し、その結果としての他人の評価が後から付いてくるという考えをしている方が多い。そういう人もいる。これこそ忘我である。だが、緻密に心をたどっていけば、その先には受け手の顔がわずかでも見えて来る人たちも多い。普段は意識してないだけのこともある。

私は絵が苦手である。そんな者がクロッキー帳を前にして心を踊らせてしまうのだから、そこには今の私にとって必要な何かが潜んでいるのである。心が踊ること、それを見つけること、ここまで至れば、あとは容易い。右左右と足を進めていくだけのことだ。心踊ることのない人は、好奇心のアンテナを始めは無理やりでもいいから立てて、あちこち出かけてみることだ。そのうちに直感が芽を出したり、眠りから覚めるだろう。とにかく座り心地のいいソファに深く沈んだ体を起こし、心の重石を取り除くのだ。 クロッキー帳に向かいはしたが、生き癖のような、多角的な思考が邪魔をしようとし始める。どう描けば見栄えがするか、見る人が喜んでくれるか、ひょっとしたら画才が開くのではないかという有りがちな期待まで出てくる。

(4ページ目につづく) そういった欲望から離れるために、熱中から忘我へとシフトチェンジするには、速度を心がけてみた。とにかく5分で描き切ると決めて、ひたすらペンを走らせた。実に単純だが、思考や邪念が追いつかないように仕向けたわけだ。これは結構功を奏し、初めてペンを持った子供が衝動に突き動かされるようにして紙に描きなぐるような感覚を得た。それはとても懐かしく、感動的であった。私は誰にも邪魔されずに、自分にさえにも邪魔されずに、主体と客体とが無くなって、私自身が、紙となりペンとなって、嬉々として動き続けているのであった。 そして、やおら左手でもペンを持ち、つまり両手で描き始めたのだ。意図的に稚拙な筆跡を狙ったのではなく、ただ、そうしたかったのだ。二つの手を使って描いてみたかったのだ。そのように遊んでみたかったのだ。私は、これまでの生きてきた歳月を一気に駆け上り、幼少時の息吹を取り戻していた。知らない間に、何もかもが最初の体験であったあの頃へ帰着していたのだった。

私は60ほどの国を訪れたことがある。少しばかり旅慣れているという自負もある。地球の表面を様々な場所と文化へ横へと移動してきた。南極を含む全ての大陸を踏んできた。だが、それよりももっと遠い場所があったのだ。それは時間軸を縦に移動する旅であった。 私はクロッキー帳を出発駅として、幼少の頃へと数十年分遡る旅を果たしたのだ。体は机の前に置いてあったが、心、もしくは魂は過去へと旅をした。親の影響、育った土地の環境の影響、出会った人物の影響、様々な影響が私を形成していく前の、私がつるんとした私でしかなかったあの幼い魂を、僅かな時間とはいえ取り戻したのは素晴らしい体験だった。 やがて設定した5分が過ぎると、しだいに現在へと再着地した。劇的な変化というのはなかったが、5分前の自分とは明らかに違うのはわかった。湯上がりのようなすっきりした気分である。我を忘れるというのは、実に爽快なものだ。少し大袈裟かもしれないが、幼い頃に戻るというよりも、その頃の自分と対面してきたかのようだった。大人になったのび太が机の引き出しを通って小学生ののび太と会ってきたかのように。 何が癒されたかと聞かれたら、はっきりこうだと答えられないもどかしさはあるが、自分をより愛せるような気がしたのは確かだ。いつの間にかずれてしまっていた自分自身とのギャップをわずか5分の出来事が埋めてくれたのだ。

崩れたバランスを取り戻すことは、ヒーリングの大きな役割である。熱中の先にある忘我を得て、心を芯からリラックスさせること。左脳の働きを止めて、思考から離脱すること。まずはその入り口を見つけるのが大切だ。手軽にできることがいいと思う。無心で絵を描くことは、おすすめだ。落書きをするつもりが丁度いいだろう。週末までに、仕事帰りの一時を利用して、スケッチブックかクロッキー帳を選んでみてはどうだろう?

※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。「#61」は2018年12月7日(金)アップ予定。

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