「病人なのに見捨てちゃいけない」離婚後、脳梗塞で車椅子生活となった元夫との関わり


『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第19回佐々木久美子さん(仮名・70代後半)の話(後編)

高校卒業後、ラジオの真空管の工場で働いていたが、通勤電車で知り合った市場勤務の男性と昭和40年代初めに恋愛結婚。2人の娘を授かり、仲良く暮らしていたが、突然夫が仕事を辞め、夫婦で食堂を始めることになった。しばらくはうまくいっていたが、浮気を疑いだした夫の嫉妬がひどくなり、食堂の経営にも支障が出るようになったため、家を出た。

前編はこちら:昭和40年代、DV・モラハラという言葉がなかった時代の「夫からの恫喝と暴力」の悲劇

■小学生の娘を置いて家を出た

――別居したのが42年前とのことですが、とすると1976(昭和51)年ですね。別居するとき、2人の娘さんは、どうされたのですか?

家を出るとき、連れていこうと思っていました。ところが「子どもは置いてけ!」と、また怒鳴られてしまって。怖くなって、1人で家を出てしまったんです。

――とすると、その時点ではシングルマザーではないですよね。その後、どういった経緯で娘さんたちを育てることになったんですか?

実は1週間後に、子どもたちと一緒に住むことになったんです。私はそのとき一番上の兄が継いでいたこのお寺に一時的に滞在していて、ちょうどその頃、子どもたちは夏休み。娘は8歳と9歳の小学生だったんです。

――娘さんたちは、どうやってお寺へ来ることになったんですか? 普通に考えると、警戒され、家から出してもらえないんじゃないかと思うんですが。

主人はその頃、私がいなくても店を切り盛りできるようになっていました。料理は作れるし、仕入れとか、計算とかも1人でできた。娘たちは主人が食材の仕入れに出た隙を見計らって、2人でこのお寺までやってきたんです。このお寺のことは、以前にも連れてきたことがあったので覚えていたんですね。

もちろんその日のうちに、主人は気がついたはずです。このお寺の場所も知っているから、それこそ私たちを殺しに来るんじゃないかって怯えました。結局、来なかったですけど。でも、お寺にいると、親族の好意に気を使ってしまうでしょ? だから、どうも居心地がよくなかった。そうした事情から、1カ月ほどで出ていきました。

――次は、どこで暮らしたんですか?

学生時代の恩師の家です。恩師は病気を患い、体が不自由になっていました。身の回りの世話をするという条件で、子ども2人と共に住まわせてもらうことになりました。結局そこには2年半住んだのかな。その恩師が亡くなったから、また引っ越しです。

――そしてまた別のところに、娘さんたちと共に引っ越しをされたと。

働いて子どもたちを育てていかなければならない。そこで、寮のある病院で働き始めました。昭和55年のことです。親子で寮に暮らしながら、私は日中、看護婦(看護師)見習いとして働き、夜は看護学校に通いました。学校を2年かかかって卒業して資格を取って、正規の看護婦になりました。

――その頃、離婚は成立していたんですか?

いいえ、まだです。というのも、調停が終わらなかったんです。昭和51年に別居して、離婚調停が始まりました。ところが不調に終わったため、裁判に移行して和解しました。それが3年後の昭和54年でした。「両親で子どもを養育する義務がある」ということで、養育費は父母に課せられました。子どもが2人の場合は、父親が3万円、母親が3万円、というような感じです。ですから私は主人の養育費負担分の3万円を毎月、受け取っていました。

――当時の家庭裁判所はどんな感じだったんですか?

今から40年以上前、裁判では親権は夫側に認められるほうが多かったかな。生活費があって育てられるほうに親権を認める傾向がありました。ただ私の案件を担当してくれた裁判官は、生活費のことだけではなく、どちらの親が親権者として相応しいかを総合的かつ冷静に見てくれました。実生活に関しては、病院で働きだしてから2年後に、看護婦の資格を得て、それ以来は同じ病院でずっと働きました。途中、子どもたち2人と住むための家も建てました。

――別れた後、元の夫に子どもを会わせるようなことはあったのでしょうか? 当時だと離婚=親子の別れ、と捉え、会わないのが普通という傾向が今よりもさらに強かったのでは?

ほかの家はそうかもしれませんが、少なくとも私は、子どもたちの意思を尊重しました。だけど、子どもたちが会いに行くかどうかは別。というのも、長女は浮気してできた子どもだと主人に思われて、勝手に疎まれてたんです。後で長女本人が言っていましたね。「妹と全然対応が違っていた」って。そうした苦い経験から、長女は決して会いに行くことがなかった。

一方、次女は、ちょくちょく会いに行っていたようです。父親に対しての愛情も次女は持っていて、彼女が20歳になったとき、「お父さんがひとりでかわいそうだから、私一緒に住んであげるの」。そう言って私の元から離れてきました。成人していたから、そこでもまた本人の意思を尊重しました。

――下の娘さんのほうが自発的に、父親のところへ戻っていったんですね。

それから数年後に、長女と次女が立て続けに結婚しました。主人は長女の結婚式には出ませんでしたが、次女の結婚式には「お前は出るな」と言ってきてモメめました。ところがそんな折、主人が50代後半に脳梗塞で倒れて、車椅子生活になりました。平成に入って間もなくの頃ですか。そのとき私、主人に対して「病人なのに、見捨てちゃいけない。この人は、私への嫉妬心はあるけど、それ以外はすごくまっとうな人なんだから」と思いました。私がそんなふうに思うのは、私がお寺出身だからなんでしょうか。個人的な恨みよりも慈悲の心を大事にし、世の中を平たく見る癖がついているということかもしれません。

――下の娘さんの結婚式は、どうなったんですか?

普段、同居して世話をしている次女の代わりに、私がずっと結婚式で主人に付き添いました。それで復縁しようとか、また愛情が芽生えたかですって? とんでもない。ただ人として、やっぱり看てあげないとって思ったんですよ。そうした考えなのは先ほども申し上げたように、私がお寺の育ちだからかもしれませんが。結婚式を挙げた後は、次女が中心になって、私も時々加わりながら、主人の世話をするようになりました。だけど、長女だけは加わらなかったですよ。

――娘さん2人を嫁がせた後は、どうされたんですか?

結婚して1年ぐらいたってから、長女と次女がそれぞれ、交互に子どもを産み始めました。姉妹は仲が良かった。それに子どもたち同士の交流もあったので、主人の家に子どもを連れて長女が行くこともありました。長女と次女の子どもたちはすごく仲が良くて、ほとんど兄弟姉妹のような関係です。

主人は、生きたいという執着がすごく強かった。必死になってリハビリをして、膝を曲げてすり足で、不自由ながらもなんとか歩く練習を家の中でしていました。孫たちは、足を引きずって歩く主人の後ろについて、歩き方をまねしながら歩いてましたね。今では、孫が7人います。

――ご主人は、今もご健在なんですか?

3.11の後までは生きました。つまり、倒れてから20年後に亡くなったんです。お葬式は、私が次女と一緒に出しました。主人が残した財産については、すべて行き先が決まっていました。というのも、食堂の土地の名義が次女の名前になっていて、振込先とかそういうものも含めて、すべて次女のものになってたんですよ。それが約1,000万円分あったのかな。いわゆる生前贈与ってやつでしょうか。そこにもやはり長女の名前は一切なかったです。

――とするとご主人は結局、ありもしない元妻の浮気を本当のことだと信じ切って、長女は自分の子ではないと思い続けて亡くなったんですね。なぜ何も確かめずにそこまで思い込んで亡くなっていったのかが、これまで話を伺っていて、わからないままです。

実は別れる前から、精神科の先生に相談はしていたんです。するとはっきりとした病名はつけられなかったけど、こうしたこだわりは治らないと。「本来なら患者側の立場に立つべきだけど、奥さん、これは別れたほうがいいよ」と言われたんです。私も相当、ひどい目に遭ってきてこりごりでしたから、別れました。彼は病気だったというだけです。だから、恨みはまったくないです。結婚はすぐにできるけど、離婚は簡単にはできません。子どもが生まれたわけだし、子どもたちには何の責任もないわけです。本当だったら、離婚なんかすべきじゃなかったですね。

――今は、どんな生活をされてるんですか?

看護師をしています。具体的に言うと、病院で勤務したり、デイサービスの仕事をしたり。年金ももらってますよ。主人は必死になってリハビリをしたりして、生きることに執着していましたが、私はそんなに長生きしたいとは思いません。そこは仏様の判断に任せたいです。

***
 離婚をすると、多くの場合、母親に親権が行き、生活が不安定で貧しいながらも母子家庭で暮らしていく。その一方で、元夫は孤独感に耐えながら元妻に頭を下げ、子どもにはたまにしか会えない。そのような現在の一般的な離婚後の元夫婦の姿が、かつては違っていたということがよくわかった。

当時はまだDVという言葉もなく、面会交流という言葉もなかった。どちらに生活力があるかという、いわば現実的な判断に任されていた。それは、家制度を守るという意味もあったのかもしれない。それと同時に、女性の権利が認められていなかったともいえるのだろう。私感では、双方の権利が認められるべきと考えている。子どもからすれば、どちらかしか親を選べないというのは、酷なことだからだ。

今回お話しいただいた方は、持ち前の粘りと力強さによって、子どもを育て上げた。その力強さと、仏教的な考えがバックグラウンドとなっての慈悲深い心があったからこそ、ひどい仕打ちを受けた元夫の面倒を見られたのだろう。しかし、これはなかなかできることではない。今後、彼女やお子さんたち、そしてお孫さんたちの健やかな生活を願っている。

西牟田靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『〈日本國〉から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

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