昭和40年代、DV・モラハラという言葉がなかった時代の「夫からの恫喝と暴力」の悲劇


『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第19回 佐々木久美子さん(仮名・70代後半)の話(前編)

これまでの連載では、いくつか例外を除き、30~40代の現役子育て世代のシングルマザーにお話を伺ってきた。では、その親たちの世代はどのように結婚し、子どもたちを育ててきたのか? 同じシングルマザーでも親世代になると、その時代だからあり得る経験というものもあるはずだ。インタビューを引き受けてくださったのは、房総半島の太平洋岸近くのある町に住む、70代後半の女性である。

■昭和40年代初めに夫と恋愛結婚

――佐々木さんは、現役シングルマザーの親の世代。戦後の復興期に多感な時期を過ごし、高度成長のさなかに子育てをされてきた。その点で、現役世代と環境がかなり違っていると思います。離婚体験より先に、まずは、ご自身の生い立ちについて語っていただけますか?

私が生まれたのは、太平洋戦争が始まる直前です。だから、もうすぐ喜寿ですね。ここから東京までは、かなり離れているでしょ? 今もそうですけど、都内に比べると、かなりのどかな場所なんです。私は、お寺の長女として生まれました。ちなみにきょうだいは6人です。

米軍の空襲はあったようですが、よく覚えていません。後から聞いた話だと、東京大空襲(1945〈昭和20年〉3月10日)のときは、東京の方向が一晩中真っ赤っかだったそうです。10万人以上が亡くなった空襲があったあの夜、父親は仕事のため、浅草寺あたりにいて被災してしまいました。ご存じかどうか知りませんが、辺り一帯は焼け野原になってしまったんです。それからしばらく父親の消息は不明だったんですが、6月末になって、ひょっこり家に帰ってきました。顔中包帯でグルグル巻きの大やけど。だけど、何があったのかは話してくれません。大学を卒業し、英語も話せた勤勉な父だったんですが、帰ってきてからは人が変わったみたいになってしまいました。

――お父さんは、どのように変わられたんですか?

生き延びたことで、人生観が変わったんでしょうね。無気力状態で、まったく働こうとしませんでした。数カ月後に、戦争が終わったんですが、やはり働きません。それでも、なんとかなったのは、このお寺には幸い、売るものがいろいろあったから。それらを売り食いしながら、何とか食いつなぎました。

敗戦時期の頃、きょうだい6人は全員学校に行っていて、働いている者はまだ誰もいませんでした。私は小学校に上がろうとしていたんですが、ひもじくてひもじくて、生活はどん底でしたね。そのうち父や上のきょうだいが仕事をするようになったので、生活は少しずつましになっていきましたけどね。

――今の日本と、まったく違いますね。ひもじさが想像つきません。結婚するまでは、どのように過ごされていたんですか?

昭和32年に高校入学、家よりも学校に近いお寺に住み込んで、そこから3年間通ったんです。 昭和35年に高校を卒業、近くの大きな街にあるラジオの真空管の工場(日立製作所)に就職しました。

主人とは恋愛結婚でした。昭和40年代の初めの頃。私が電車で立っていたら、席を譲ってくれたんです。優しい人だなと思って好意を抱き始めて、1年ぐらい付き合った後に結婚しました。それこそ昔の外国人力士の高見山のように背が大きくて、人当たりがすごくいい、優しくて寡黙。そんな非の打ちどころのない人でした。当時、主人は都内の月島市場で働いていました。3日に1回ぐらいしか戻れない、忙しい仕事でした。その分、稼ぎは良かったですね。

――当時はまだ、お見合い結婚のほうが多かったと聞きます。恋愛でスピード結婚されたというのは珍しいですね。では、結婚から出産にに至るまでは順調だったのでしょうか?

私が妊娠して4カ月になる頃、主人は突然仕事を辞めました。理由は後でわかるんですが、そのときは、「都内まで通うのが負担だったからかな」と思っていました。「仕事どうするの?」って聞いたら、「一緒に食堂をしたい」って言うんです。それで、ここから一駅先のところに自宅を兼ねた店舗を借りて、開業しました。

――料理を作ったのは、どちらですか?

主人は板前修業をしていたとはいっても調理師免許は持っていなくて、1人じゃ何も作れない。私はというと、実家はお寺ですし、高校の頃住んでいたところもお寺です。たくさん人がやってくることもしばしばで、その都度、料理の盛り付けなどをしていたので、慣れてたんです。それで、お店を軌道に乗せつつ、昭和40年代前半に娘を2人産んで育てて――と、そんな生活を送っていました。

――家事と子育て、そして仕事と大変そうですね。だけど、順風満帆だとも思えます。

いえいえ。それがね、主人はおかしなぐらいやきもち焼きで、束縛をする人だということがわかってきたんです。月島市場を辞めたのも、「食堂を始めたい」って言ったのも、実はそれが理由だったんです。お店だったら、私と一緒にいられますから。

私がまだ長女を産む前の正月、店舗兼自宅に主人が自分の友達を呼んで宴会をしたんです。夜も遅くなり、皆さん帰っていかれたんですが、1人だけ戻ってきた人がいました。「鍵を忘れてしまった」って言うんです。店の中を見てもらったんですが、なかなか出てこないので、私も店に入って、その方と2人で一緒に鍵を探したんです。そのとき、主人はすでに寝ていたのか、鍵探しの場にはいませんでした。たしか、鍵は無事に見つかったのかな。その方は帰っていかれました。その後ですよ。大変だったのは。

――えっ、どういうことですか?

鍵を探して以降、主人はなぜか私の浮気を疑いだしたんです。おなかの子を「浮気相手と作ったんだろう」と言って聞かないんです。もちろん、根拠は何もないですよ。

疑われていたといっても、私以外の人にはすごく人当たりが良かったので、誰も気がつかなかったと思います。だから私以外からしたら、これ以上ない、立派ないい旦那さんという感じでしょう。しかし、信じてもらえないかもしれませんが、とにかく嫉妬されたり束縛されたりと、いろいろな仕打ちを受けました。

――具体的には、どういった目に遭われたのですか?

いつも、主人の目を気にしていなきゃいけないんです。例えば、隣の家のご主人と話しているのを主人に見られたら、「あの男とデキてるんじゃないか」って一方的に疑われるんです。食堂で男性のお客さんにお茶を出しただけで嫉妬されましたし、家にかかってくる電話を取っても疑われました。浮気のドロドロを描いている昼のメロドラマをテレビで見てると、「お前もドラマみたいに浮気をしたいんだろう」って疑われる始末です。

そしてしまいには、夫婦の間に娘2人を挟んで寝ていただけで疑われました。

「寝てる途中、ほかの男が忍び込んできて、その男といいことしてるんじゃないか。見つけたらただじゃおかねー」

そう言って彼は、枕元に木刀を置いて寝るようになりました。

――猜疑心っていうのはすごいですね。

そうやって何年か過ぎていったんですが、日々疑われているうちに、私も精神状態がおかしくなってきました。近くに住んでいたきょうだいに主人のことを手紙で伝えていたんですけど、「手紙の文面が変だ」って、言われたんです。たぶん私も精神的に追い込まれてたんでしょうね。夫婦で回していた食堂も、お客さんにお茶は出せないし、電話に出ることもできない。隣の人とも話せない。それで私、あるとき意を決して主人のきょうだいを家に呼んで、相談に乗ってもらいました。ところが主人は激高して、包丁を持って暴れだしたんです。話にならないので、結局、私の自分のきょうだいに守られるようにして家を出ました。

――とうとう包丁が出てきたんですか。身の危険を感じますね。

その後も浮気をずっと疑われてて、恫喝されたり、モノを投げられたりしました。そうしたことが続いたので、私は別居することにしました。それは今から42年前のことです。

後編へつづく

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