パナソニック元社長・中村邦夫氏が告白、経営危機から過去最高益への「破壊と創造」


 パナソニックは今年、創業100周年を迎えた。同社は、高度成長期に家電王国としてのしあがった、日本を代表する企業の一つだ。しかし、91年のバブル崩壊と同時に長い停滞期に入り、「変われない日本企業の象徴」といわれるようになった。

そのパナソニックが今、変わろうとしている。2012年に社長に就任した津賀一宏氏は、本社の縮小、カンパニー制導入、事業部制復活などの構造改革、またガバナンス改革に取り組んだ。大量生産大量販売のビジネスモデルと決別し、前面に出していた家電事業のB2C(対消費者)ビジネスから、車載や住宅事業を中心とするB2B(対法人)ビジネスへと大きく舵を切った。さらに、パナソニックの企業文化さえ、根底から変革しようとしている。

私は10月20日、津賀の行った一連の改革をまとめた、『パナソニック、「イノベーション量産」企業に進化する!』(PHP研究所)を上梓した。取材から、パナソニックの変革と再建のストーリー、そして1990年代以降の失墜の理由が見えてきた。

前回に引き続き、津賀氏が主導したパナソニック改革に参加した主要プレーヤーのインタビューから浮かび上がってきた「知られざるパナソニック」の“深層”をお伝えする。今回は、元社長で特別顧問の中村邦夫氏とAP(アプライアンス)社社長の本間哲朗氏へのインタビューを掲載する。

●中村邦夫氏

パナソニックの07年度の過去最高益の土台をつくったのは、00年から06年まで社長を務めた中村氏だ。バブル崩壊後の経営不振を経て、「破壊と創造」という強烈な言葉を掲げ、創業以来初の早期退職の実施、国内大企業の先頭を切る年金改革、さらに縦割組織を脱却するための事業部制の廃止など、社内改革を次々と行った。この改革なくして、現在のパナソニックの改革はない。しかし、突破しきれなかった壁があるのも確かである。中村氏は当時のパナソニックについて、振り返る。

片山 バブル崩壊以降、パナソニックだけでなく、国内の大企業の多くが雇用、設備、債務の3つの過剰に苦しめられ、その調整に手間取りました。結果、企業は内向きになった。しかし、その後の長期停滞を考えれば、原因はそれだけではないでしょう。日本の家電産業が失速した原因は、どこにあるとお考えですか。

中村 やはり、決定的だったのはデジタル革命に乗り遅れたことです。象徴的なのは、マイクロソフトです。85年に登場した「Windows」が節目でした。

片山 90年代は、家電製品のアナログからデジタル、ハードからソフトへの転換に加え、ITインフラの発達によるネットワーク化が進み、複雑化、高度化しました。

中村 アナログの家電をつくり続けてきた家電メーカーは、IT化についていけず、死に絶えていった。コンピュータが、ホストコンピュータからPC(パーソナルコンピュータ)の時代に移り、各家庭に一気に普及するなかで、われわれはまだブラウン管のテレビをつくっていましたからね。家電メーカーにとって、デジタル革命は大きかった。

片山 デジタル化、さらにIT化は、企業の製品やその生産現場、マネジメントなどの分野にまで入り込みました。

中村 ITインフラは、米国にすべて握られていました。日本にはITインフラを担う企業がありませんでしたから、経営へのITの活用が遅れたんです。スピードの速さ、変化の大きさに対応できませんでした。

片山 日本の家電メーカーは、ITを軸とした90年代の世界の構造変化についていけなかったということですね。

中村 松下電器は重くて遅かった。すべてはそこに集約されます。ITを使えば速いことを、バケツリレーでやっていた。IBMのようなITをベースにした企業改革ができなかった。

片山 中村さんは、87年から92年まで、米国法人にいらっしゃいました。米国での体験を踏まえて、当時のパナソニックはいかがでしたか。

中村 米国から見れば、改革が遅れた最大の原因として、労使関係があげられると思います。日本企業には、年功序列、終身雇用、企業内労働組合が根強くありましたからね。われわれの場合、中国やアジアに生産拠点を設けて進出しても、雇用の流動性がないので、国内の雇用を減らすことはできなかった。したがって、生産拠点を移せば移すほど、余剰人員を抱えるという矛盾がありました。

その点、米国の雇用責任は原則として連邦政府にあります。日本では、雇用を守ることは経営者の仕事であるかのようにいわれていましたが、なぜ、企業が雇用責任をもたなければならないのかという疑問は、常にありました。

●本間哲朗氏

パナソニックの“祖業”である家電事業は、今なおパナソニックを支える大きな柱である。17年、黒物家電を白物を扱うAP社が併合し、すべて同社の下にまとめられた。13年にAP社副社長となり、15年に同社長となった本間哲朗氏は、パナソニックの家電事業の失敗をどう見ているのか。

片山 本間さんが松下電器産業に入社した1985年は、松下の黒物家電全盛期でした。そこから、テレビや携帯電話、DVDなどの黒物は一気に下降していったわけですが、敗因はどこにあったとお考えですか。

本間 われわれはデジタル化の本質、恐ろしさを見誤ったと思います。日本のメーカーは、メカ(機構)と電子(エレクトロニクス)を極めて絶妙に組み合わせるメカトロニクス分野が得意で、図面にならないようなモノをすり合わせによってつくり込むことにかけては、世界に類を見なかった。VHSはその代表で、フィリップスでさえ自力でつくれなかったんです。それを、パナソニックやビクターさんなどが、欧州まで出かけて技術援助を行った。そのプロセスのなかで、日本の家電メーカーは本質的意味でグローバル企業になったと、個人的には考えています。

ところが、デジタル革命によって、すり合わせとか精密機械工学的な強みは、だんだんと無効になってしまった。それから、VHSの成功によって、フォーマットを押さえるビジネスに過剰適応してしまった。フォーマットさえ押さえれば大丈夫だと思い込んだところがありました。

片山 パナソニックは、ポストVHSとしてDVDのフォーマットライセンサーになりましたね。

本間 しかし、90年代半ばには光ディスクが登場し、DVDは一気にコモディティ化しました。テレビも同様です。ブラウン管テレビはアナログ技術の塊であり、デバイスの王様だった。しかし、95年に液晶テレビが登場するや、瞬く間にデジタルに置き換わりました。

片山 00年代半ばには、国内大手各社はブラウン管テレビの国内生産を中止せざるを得なくなりました。パナソニックは、液晶テレビではなくプラズマテレビを推進するという致命的な失敗も犯しています。

本間 プラズマの件は話しにくいんですが、プラズマのパネルをつくるプロセスは、焼成ですからアナログで、デジタル化できない。汎用化しないのでコストが下がらなかったことも敗因でした。いい技術ではあるんですが、プラズマ工場は展開性が低く、他に使いようがないんです。しかも、パネルのサイズを大きくするためにも、大きな投資が必要になる。液晶は、たくさんの人が集まった結果、技術の進化のサイクルも速かったこともあったでしょう。

片山 今後、パナソニックの家電事業は何を目指していくのでしょうか。

本間 家電は、いつの時代も人々に“暮らしのあこがれ”を届けるものでなければいけないと考えています。家電事業を通じて、これからの“暮らしのあこがれ”をつくり出し、世界の人々に届けていく。それが、私たちの未来に向けた仕事です。

個別に機能を提供する家電にとどまらず、個々の家電がネットワークにつながって連携し、それぞれの生活シーン、空間に合わせた新たな体験を提供していきます。新しい体験を、家という空間をこえて、コミュニティ、ソサエティとも連携し、より進化していきます。
(文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家)

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