“革命家”足立正生が語る若松孝二と共闘した時代「若者が感じる閉塞感は今も変わらない」(後編)

日刊サイゾー


【前編はこちらから】

インディーズ映画界の巨匠・若松孝二監督と「若松プロ」に集まった若者たちの熱き青春の日々を描いた白石和彌監督の実録映画『止められるか、俺たちを』が絶賛公開中だ。現代のカルチャーシーンにも多大な影響を与え続けている「若松プロ」を語る上で外せないのが、若松監督の盟友だった足立正生監督である。“伝説の男”足立正生へのインタビュー後編では、大島渚監督率いる「創造社」とのコラボレーション、「若松プロ」唯一の女性助監督だった吉積めぐみさんとの思い出、パレスチナに渡った後も続いた若松監督との友情について語ってもらった。

──足立さんは「出口出」名義で脚本を書き始めたわけですが、日活の助監督だった大和屋竺を中心とした「大谷義明」と作品カラーを一新しようという狙いもあった?

足立 それはありました。大和屋さんたち日活グループとの間に印象に残っているエピソードがあります。マンションの一室のみで撮影する『胎児が密猟する時』(65)を製作することになり、大和屋さんたちに呼び出されたんです。「俺たちは日活でがんばっている。若松さんは安くて、面白ければいいという理由で、屋内で撮影するつもりだろうが、それが常習化したらどうする? 映画の持つスペクタクル性が失われてしまうぞ」と。僕はそれに反論しました。「いや、違う。密室の中にもスペクタクル性は溢れているんだ。もともと俺は密室に興味があり、本気で撮りたいんだ」と話すと、「本気ならいいんだ」とあっさり認めてくれた(笑)。ところが『胎児が密猟する時』は配給側から拒否されてしまい、僕もメンツがあったから、それで若ちゃんと映画館を一軒ずつ回って、上映するよう頼んで回ったんです。

──大和屋竺たち日活グループは、鈴木清順監督のもとで「具流八郎」を名乗って脚本を書いていた。

足立 そうです。清順監督の『殺しの烙印』(67)の脚本は「具流八郎」名義になっています。僕もシュールレアリズムは好きですし、清順監督も尊敬していたし、清順監督が撮った映画は大好きでした。でも、その一方で「気取りすぎだ、バカヤロー」「ピンク映画じゃ、そんな映画は撮れないぞ」という反発心もあった。それもあって僕はスキャンダリズムへと走り、犯罪の中にある意外性やその本質みたいなものを中心に描いていこうと考えるようになったんです。

■若松孝二と大島渚との創作スタイルの違い


──足立さんは「若松プロ」だけでなく、松竹を辞めた大島渚監督が設立した「創造社」とも交流を持つようになりますね。

足立 若松孝二は反権力という立場から映画を撮っていましたが、大島渚からは社会そのものを転覆させてやろうという怨念じみたものを感じました。映画表現における入口と出口が、あの2人は違った。社会に対する斬り込み方は若松孝二と大島渚では違うけれど、でも同質的なものを僕は感じていました。一時期、僕は埼玉の田舎のほうに篭って脚本を書いていたんだけど、若ちゃんから「大島渚があっちゃんを役者として使いたがっているぞ」と呼び出された。大島監督の『絞首刑』(68)に出演したのがきっかけで、その後、大島監督の『帰ってきたヨッパライ』(68)と『新宿泥棒日記』(69)は出演だけでなく、共同脚本としても参加することになった。若ちゃんから勧められて「創造社」へ行ったのに、「大島渚に足立を盗られた」と非難されたのには参ったね(笑)。

──「若松プロ」とは違った居心地のよさが「創造社」にはあった?

足立 勉強になりましたよ。僕が本当の意味で映画の師匠だと思っているのは、「創造社」の設立メンバーだった脚本家の田村孟さん。もうひとりは大島渚作品の美術監督だった戸田重昌さん。戸田さんは小林正樹監督の『怪談』(65)で予算の3倍をセットに使うなど、本当にすごかった人。ロケハンのときに、「電柱が2本あるのが邪魔だ」と言って、電柱を外させた。戸田さんに言われて、東京電力と交渉して電柱を外させた当時の製作進行もさすがだよね(笑)。大島作品は「若松プロ」に比べて予算は10倍くらいあったし、実験精神は当時の独立プロの中ではいちばんあったんじゃないかな。

──足立さんが脚本で参加した『帰ってきたヨッパライ』は、前半に起きた物語が後半にも繰り返される非常にシュールな構造の異色作。吉田大八監督のヒット作『桐島、部活やめるってよ』(12)を先取りしたような内容でした。

足立 『桐島、部活やめるってよ』は観ました。僕は好きですよ。現代における新しい風景論だなと感じました。でも、吉田監督がその後に撮った『美しい星』(17)は残念だったなぁ。前半は吉田監督とリリー・フランキーが二人三脚でがんばっているんだけど、最後がねぇ。原作の三島由紀夫なんか、吹っ飛ばしちゃえばよかったんですよ。『帰ってきたヨッパライ』は大島さんから、「あっちゃん、何か面白いアイデアない?」と訊かれて、「フランスにはデジャヴ論というのがある」と話したところ、「よし、それだ!」と大島監督が乗ってきた。それで大島監督に頼まれて、松竹の宣伝マンや営業担当らが集まって会議しているところに僕は出向いて、「シュールレアリズムとは何か?」というところから「リピートされる物語の持つサスペンス性」についてまで延々と説明したんです。彼らが僕の話した内容を理解したかどうか分かりませんが、「分かったから、もういい」と。それで企画が通ってしまった(笑)。

──「若松プロ」と「創造社」では、脚本の作り方に違いがありました?

足立 「若松プロ」の企画会議は、だいたい若ちゃんが焼き鳥屋で呑みながら「また、やろうな。次も反権力がテーマで、警察官か刑事をやっつける。悲惨な目に遭った女の子が、最後は悪者をやっつける。それで、さっぱりする。な?」とそんな感じでした。「この前、撮ったのと似てるけど、やれるよな。な?」と(笑)。「そんなんじゃ、脚本は書けませんよ」と反論すると、「いや、後は任せましたよ。出口出さん」と言われて、おしまい。それで、僕がアパートに戻って、2日間ほどで脚本を書き上げていたんです。「創造社」では大島渚、田村孟さんら3~4人がそれぞれアイデアを持ち寄って、集まりました。僕と田村さんとで組んず解れつしながら、たまに女性役も演じたりして、台詞を口にして、脚本へと練り上げていくんです。佐々木守(『ウルトラマン』『アルプスの少女ハイジ』などの脚本家)がいちばん速く、的確に脚本にまとめることができたので、「創造社」では佐々木守がもっぱら脚本に仕上げていました。

■ドラッグは創作に影響を与えたのか?


──足立さんが「若松プロ」に戻って監督した『噴出祈願 15歳の売春婦』(71)は、『止め俺』では荒井晴彦(藤原季節)、吉積めぐみ(門脇麦)との共作として描かれていましたが、実際にはどうだったんでしょう。

足立 「若松プロ」では、脚本のほとんどは僕が書いていました。「若松プロ」のヤツらはワーワー言うけど、誰もホンにまとめようとしないから、僕が書くしかなかった。『噴出祈願』のときは、僕と荒井晴彦がめぐみのアパートに行って脚本を書いた。めぐみも撮影が終わってから合流したんだけど、荒井は鉛筆を削るだけだったし、めぐみもアイデアをろくに出さないから、僕がひとりでワーワー言いながら書いていました。それでも、僕より若い荒井やめぐみの感性はなるべく反映させるようには努めました。一人で書いているよりは、話し相手がいたほうがやはり筆は進みます。近くに批評家がいてくれると、すぐに意見が聞ける。合作って、そういうものです。意見を出し合い、評論しあいながら脚本をまとめていく。黒澤明監督もその頃は脚本家を3~4人集め、複眼的な視野から脚本を練っていたわけです。

──最近の日本映画は複数の脚本家による共作はあまりない。集団創作が増えれば、もっと面白い作品も生まれるのではないかと思います。

足立 それは今の日本映画が、原作ものが多いからでしょう。小説や漫画、アニメ作品を実写映画化するという作業は、原作を批評するという行為が映画の機軸となるわけです。そういった作業は、一人のほうがスムーズに進むかもしれない。僕は原作ものが好きじゃないのでやったことがないけど、『まほろ駅前多田便利軒』(11)や『光』(17)の大森立嗣監督なんかは、作家の三浦しをんとフィーリングが合っているんでしょう。それはそれでいいと思う。それよりも今の日本映画の問題点は、製作委員会方式が主流になってしまっていること。いろんな立場の人が関わることで、角が取れた丸い作品しか生まれてこない。みんなが「面白い」と言うような企画からは、本当にすごい映画は出てこないと思いますよ。

──『新宿マッド』(70)では、シンナーでハイになっている若者たちの姿が印象的です。1960~70年代に流行っていたドラッグが、作品づくりに影響を与えた部分はあったんでしょうか?

足立 当時はシンナーやハイミナールで酩酊している若者たちが、夜になると新宿駅東口の芝生にたくさんいました。ニブロールはハイミナールよりキツかった。押し入れで大麻を育てるのも当時は流行していた。そういうドラッグの力でぶっ飛んだものを書こうとする人も確かにいました。僕も大学時代には「LSDで人間の意識はどう変化するのか」といった実験を、医者立ち会いのもと学園祭でやったりもしました。でも、僕にはドラッグは邪魔にしかならなかった。僕の場合はほとばしるイメージをどう抑え込んで脚本にするかが重要だったので、ドラッグをやると仕事にはならなかったんです。ドラッグで一時的に憂さを晴らす人もいたんでしょうが、ドラッグではカタがつかないことが生きているとあるわけで、僕にとってはそこが重要でしたから。

■闘いの場は映画世界から現実の世界に


──『止め俺』では、めぐみさんの足立さんに対するプラトニックな恋愛も描かれています。

足立 実際もそうだったみたいだね。若松に比べ、僕は優しかったから(笑)。でも、僕はその頃はもう結婚もして、子どももいた。めぐみは映画のことをもっと学びたいという思いが強く、僕は彼女の刺激になるような場所へよく誘いました。彼女は大学生のことを「ケッ」と思っていたけれど、大学の討論会などに僕が連れていくと、大学生はみんながみんなバカというわけじゃないことが彼女にも分かったみたいだね。めぐみにとって決定的だったのは、『赤軍 PFLP 世界戦争宣言』(71)でしょう。僕らは赤バスに乗って、『赤P』を上映しに日本各地を回ったわけですが、本当は彼女も赤バスに乗りたかったんです。でも、めぐみまで赤バスに乗ると「若松プロ」で映画を作るヤツが誰もいなくなってしまう。それで僕が「お前は残れ」と言ったんです。彼女が屈折したとしたら、それが原因だったかもしれません。

──1971年のカンヌ映画祭に若松監督と出席した際には、オノ・ヨーコとジョン・レノンからサインをもらったそうですね。「若松プロ」で留守番をしていためぐみさんへのお土産だったんでしょうか?

足立 そうです。監督週間にオノ・ヨーコが監督した『FLY』(71)という短編映画が上映され、オノ・ヨーコはジョン・レノンと会場に来ていました。僕が「きゃー、ビートルズ~! サインしてぇ!」とお願いすると、ジョン・レノンは「コンニチワ、バカヤロウ」と返してくれました。オノ・ヨーコは「気にしないで。ジョンは日本語、この2つしか知らないのよ」と笑っていました(笑)。もらったサインは、日本に戻ってめぐみに渡しました。後から、あのサインはけっこうな値段になるんじゃないかという話になったけど、探してもどこにもなかった。思い返せば、めぐみの葬儀のときに、このサインも彼女のものだからと棺に入れて燃やしたんです。

──足立さんは1971年に続き、74年に再び中東へと渡り、映画界ではなく現実世界での革命闘争に身を投じることに。

足立 アフリカ諸国で第二次革命が起きようとしていたタイミングでした。植民地支配からの独立を次々と果たしてはいたけれど、植民地時代の枷がまだまだ残っており、アルジェリア、モロッコ、ボルサリオなどで新たな闘争が始まろうとしていたんです。

■日本を離れてからも続いた若松監督との交流


──中東でゲリラになった足立さんの所へ、若松監督はカンパを持って毎年のように訪ねてきた。

足立 お金をカンパされたことは一度ありませんよ。あのケチがお金なんて持ってくるわけないじゃない(笑)。それでも毎年暮れになるとぬっと現われ、お餅やアンコやノシイカを大きなカバンいっぱいに詰めてきてくれた。新鮮なカモ鍋を食べながら、ゲリラの基地で日本風の正月を若ちゃんと過ごしたものです。「あっちゃん、俺はもうピンク映画の監督じゃないんだ。メジャーな監督になったんだ」なんてことも、その頃の若ちゃんは自慢げに語っていましたね。それから、僕は妻や子どもを日本に残してきたから、若ちゃんは前の妻から預かった離婚届けをポケットに入れたまま、「サインしてくれ」と言い出せずにそのまま帰国したことが3回くらいあった。そのことは後から知りました。娘を送って寄越したこともあります。娘からは「お父さんなんか、大嫌い。お父さんのせいで、学校の先生も一緒になって私をいじめる」と責められました。「俺を恨め」と言うしかありませんでした。

──日本に戻ってからは、ご家族とは?

足立 いや、向こうで逮捕されたとき、娘が来てくれて丘の上にある刑務所まで毎日炊き出しを運んで持ってきてくれました。第三世界の刑務所は、どこも1日1回パンとスープが出るだけなんです。差し入れがないと命が繋がらない。そんな状況で、ずっと疎遠だった娘と知り合っていったんです。日本に帰ってからは、孫にも会わせてもらっています。本当に好き勝手な道を歩んできました。日本に戻ってからは佐藤忠男ちゃんや荒井晴彦の計らいで、日本映画大学の非常勤講師を6年間務めました。「好き勝手な人生を歩んできたんだから、若い人に教えることで償いなさい」ということでしたが、若い人たちと対等な関係で勉強することは、楽しかったですよ。

──最後に足立さんが考える、若松孝二作品ベスト3を教えてください。

足立 普通に言われているのとあまり変わらないけれど、『壁の中の秘事』(65)、僕の書いた脚本を若ちゃんがどんどん削ってめちゃめちゃにしてしまった『胎児が密猟する時』、それから『性賊 セックスジャック』(70)あたりが僕は好き。当時の「若松プロ」に充満していた熱気みたいなものを感じさせますよ。それこそ、マンションの一室を使って撮影していたわけだけど、1週間も篭っていると監督している若ちゃんもだんだんおかしくなってくる。それが、面白かったよね。

──若松監督の近年の代表作となった『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(07)は、足立さん的にはどう評価されているんでしょうか?

足立 最初は僕が脚本を書いていたんです。でも、製作委員会ができて、僕が考えていたものとは違うものに変わっていった。僕が考えていたのは「勇気がなかった」をキーワードにしようというものでした。山荘に篭って共産化するといっても、それがどんなものかは誰も分からないわけです。その分からない自分を認めることが本当の勇気なんだ、それが革命に必要な勇気なんだということを僕はテーマにしたかった。その部分は最終稿からは消えていたんですが、撮影現場で考え込んでいた若ちゃんは、「あさま山荘」に篭った最年少の加藤少年に勇気とは何かを語らせる台詞を最後の最後に書き加えたんです。僕が当初考えていたものとはちょっと違うものになりましたが、若ちゃんは「お前の言っていたキーワードをちゃんと入れたぞ」と偉そうに言っていましたねぇ(笑)。

(取材・文=長野辰次)

『止められるか、俺たちを』
監督/白石和彌 脚本/井上淳一 音楽/曽我部恵一
出演/門脇麦、井浦新、山本浩司、岡部尚、大西信満、タモト清嵐、毎熊克哉、伊島空、外山将平、藤原季節、上川周作、中澤梓佐、満島真之介、渋川清彦、音尾琢真、高岡蒼佑、高良健吾、寺島しのぶ、奥田瑛二
配給/スコーレ 10月13日よりテアトル新宿ほか全国順次公開中
(c)2018若松プロダクション
http://www.tomeore.com

当記事は日刊サイゾーの提供記事です。

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