【今週はこれを読め! SF編】This could be heaven or this could be Hell

BOOKSTAND

2018/10/9 17:35

 レーナ・クルーンはフィンランドの現代作家。これまでかなりの作品が翻訳されており、そのほとんどが広義の幻想小説だった。本書ははっきりとSFに分類できる作品だが、同時に寓話性も強い。ただし、一意的に解釈されるような寓意ではなく、意味を解くよりも読者が考えつづける契機となる寓意である。

第一章「ゼリー」で提示されるのは、ある生命のイメージだ。群体をなすクラゲのような、一であり多でもある生物。人類もまた、七十億の個体に見えるが、全体としてつらなった有機体を成す。全体は部分を知らず、部分は全体を知らない。

第二章からはじまるのは、おそらくその有機体の雛形としての「ホテル・サピエンス」の物語である。ホテルの外の世界はなんらかの理由で荒廃・衰退したようだ。外への連絡は何十年も前に断たれている。もともと住んでいた場所からホテルへ逃げこんできた者もいるし、精神を病んでつれてこられた者もいる。高齢者も多く、老人福祉施設のようでもある。そして全員が悪性の不治の病に罹っている。病名は「人間性」だ。

経済も産業も国家も崩壊してしまったこの世界で、人間が生きつづけられているのは看護人たちのおかげだ。看護人は人間によってつくりだされたが、いまは看護人が人間の生活に必要なものを提供している。しかし、人間は看護人を目にすることはない。人間をじかに世話するのは、看護人の助手である修道女たちだ。

ホテル・サピエンスの住人のひとりに失礼な老人がいて、女性なら誰にもかまわず卑猥な言葉をなげつけている。あるとき、通りかかった修道女のお尻を掴むが、その手は修道女には効かない。メンフクロウのように身体は前を向いたまま首を百八十度回転させ、無表情の顔を薄気味悪く老人に向けると、滑るように廊下を進んでいくだけだ。老人はその後、しゃっくりが止まらなくなり、その音はホテル各階の住人をおののかせた。

失礼な老人にかぎらず、ホテルに住む者はどこかエキセントリックだ。自分の影に逃げられ、あげく本人が影になってしまった男。あの世にいる娘と交信しているペイク。看護人たちを聖人か半神のように崇拝している常識夫人(なにかというと「常識人として言わせていただくなら」と話しはじめるのでこの名がついた)。植物の種や乾燥した葉を幻覚剤として扱っている花屋。百メートルもある望遠鏡やアリの秘密信号など謎めいた話をする、ホテルでただひとりの少年サカリ。

各章ごとに独立しているが、登場人物は章をまたぎ、全体としてゆるやかにつながっていく。それぞれが不思議な余韻が残るエピソードだ。

たとえば、第十一章「誤差の法則」では、食卓のうえに白くて細いものを見つける。私がゴミだと言うと、妻のロサは「これは糸くずのように見えるけど、糸じゃない。重さを感じないほど軽くてとても細いのに、折り曲げるとすぐ元の形に戻るの。いっぷう変わったものよ」と反論する。私もなんだか気になって間近で観察すると、なにやら生き物のようだ。この形はどこかで見たことがある。そうだ確率分布だ! 生きたガウス関数とはカルヴィーノが書きそうな発想だが、この物語ではカルヴィーノ的な高揚はなく、いささか寂寞な結末を迎える。

このように調子外れなホテル・サピエンスの日常が綴られるのだが、その毎日に、少しずつ翳りがあらわれていく。ひとりの老女が亡くなる、食事の時間が定まらなくなる、太陽が以前より大きくなっているような気がする、サカリの観察していたアリがいなくなる、修道女たちの動きがおかしくなる。

ホテル・サピエンスに終焉が近づいているのかもしれない。それは居住者にとって破滅だろうか、それとも解放だろうか?

(牧眞司)

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