小学生に毎日7キロの教材を背負わせる教育委員会というガン…論争はゆとり教育の総括


 新学期がスタートするなか文部科学省は、生徒が学習教材などを教室に置いて帰る、いわゆる「置き勉」を認めるよう全国の学校に求める方針を決めた。学習教材が年々重くなっていることから、生徒からは悲鳴も上がり、昨今は「置き勉」の是非に関する論争もわき起こった。

小学生は、ランドセルの重さも含めると約6~7キロの学習教材を毎日の登下校の際に運んでいることもあり、一部の生徒が重さに耐えかねてマッサージを受けている事案もあった。そもそも文科省は特段、「置き勉」について義務化しているわけではなく、「やってもよい」という程度の判断であった。

鶏鳴学園塾長で教育ジャーナリストの中井浩一氏は、「置き勉に限らず、学校現場で学校や教育委員会が独自に見解を出し、動いている例は極めてまれです。皆、文科省の見解や通知を待っていたのです」と語る。「置き勉」の見解を聞いていくうち、はからずも学校現場の問題点が浮上したが、中井代表は、この問題について鋭く語った。

●学校が独自判断を下さない理由

――「置き勉」について学校が独自になぜ判断を下せなかったのでしょうか。

中井浩一氏(以下、中井) 教育現場において学校が、独自の判断のもとで決められなくなっていることが根本の問題です。学校が基本的には、指示待ち人間の集まりだということです。新しい問題が起こったとき、たとえば「置き勉」や「いじめ」のことにせよ、学校は従来のことをやっている限りは教育委員会から叩かれません。親からは「いじめをなんとかしろ」「教材が重すぎる」と文句は言われますが、とりあえず教育委員会の指示を得てからという大義名分がありますから、なんとかやり過ごしています。

しかし、現在の学校現場では、従来手法では通用しない事象がたくさん発生しています。ここで学校が新たな手法を採れば、教育委員会から問題視されます。そのため学校は自分で決めず、教育委員会からの通知などを待っています。教育委員会も、自主的な判断は法律上、可能であるにもかかわらず、何かの判断を下した場合、世間からの攻撃に耐えられない可能性もあります。その時に、自分たちが従来通りの仕事をしている限り、「対応が不十分だった」という指摘は受けますが、従来対応に賛成する人が一定数いることもあり、自分たちの立場を守ることができます。

――学校の先生や教育委員会は、官僚みたいですね。

中井 学校の先生たちは、リスクを負うことを嫌います。これが民間企業との違いです。民間企業であれば、成長させなければ潰れてしまいますから、とにかく必死で自分も企業も変わっていきます。学校だけは、世間の流れと反することがあっても許されます。学校は、教育委員会からの指示待ち、教育委員会は文部科学省からの指示待ち、この構造は戦前から、ひょっとしたら明治時代の学校誕生以来、ずっと大枠は同じかもしれません。

これは、「不登校」や「いじめ論争」についても、何から何まで今もまったく同じです。それぞれの地域事情に合わせて、独自の判断で「うちは置き勉についてこういう事情があるので認めません」「うちは認めます」と、それぞれが判断すればいいことです。そもそも「置き勉」は条例でもガイドラインでもなんでもありません。それなのに皆、文科省の「置き勉」についての見解発表を待っていたのです。仮に、文科省とは別の見解を学校側が事前に発表すれば責任問題になりますから、学校や教育委員会は動かなかったのです。今回、文科省の通知が発出されたことからようやく、学校も教育委員会も「置き勉」について動けるようになったのです。

明治以来150年、学校と教育委員会が独自に動くことができず、文科省の指示待ちの集まりであるとの確認ができた事象だったという感想を私は抱いています。

――学校は常識的観点から独自の判断を下しても良かったのではないでしょうか。

中井 私立学校は別ですが、公立学校が「常識的な観点」で独自の判断を下すことはまれです。校長の人事権を持っているのは教育委員会ですから、校長が変なことをすれば、異動で左遷されることはあります。地域の意見や親の考えをきっちりと聞いて動く“真っ当な”校長もいますが、それはごくわずかでしょう。もし、これが半分を超えるようになれば学校も変わります。

しかし現実は、文科省頼りです。実は、文科省は「置き勉」について、「やってもいいです」という見解を出していたにすぎないのです。「やらなくてはならない」と義務化していたわけではありません。

ところが、「置き勉」を認めると新しいことを始めるわけですから、当然、地域の親から反発もあります。たとえば、「置き勉を認めたお陰でうちの子は勉強しなくなった。どうしてくれるんだ」という意見はその代表例でしょう。そこできっちり、「うちはこういう考えで置き勉を認めています」と説明すべきです。それが親と向き合うことなのです。

●教育委員会も文科省頼み

――教育委員会には独自性が認められています。

中井 学校と同じです。やはり、独自の判断が下せない構図になっています。しかし、親やマスコミも同じです。たとえば、「いじめ問題」が起こった際、学校よりも、まずやり玉に挙がるのが文科省で、「文科省は何をやっている」と突き上げがあります。本来は、その学校の校長を問題にしなければなりません。これは教育の関係者だけの問題ではなく、マスコミも文科省のほうを向いています。ですから、教育問題で明らかになっている、“上向きで指示待ち”になっているのは、マスコミも世間も含めてすべてが同じなのではないですか。

――これからも、この程度の事象でいちいち文科省が通知を出さなければ何も決まらないのでしょうか。

中井 そうですね。「置き勉」をするかしないかの見解を示すことは、文科省の仕事ではありませんが、文科省が動かなければ教育委員会が見解を示すことができないので、関係者はホッとしているでしょう。今後ともこのような学校関係の事象で通知が出される例はあるでしょう。

――「置き勉」しなければならないほど、勉強道具などは重いのですか。

中井 この20年のゆとり教育の時点で、教材を減らしていきました。そこで学力低下論争が起こり、再度学習教材も厚くなり、量が増えてきました。その結果、教材は重くなりました。そして、重くなったから「置き勉」を認めましょうということになりました。世間から学力低下していると突き上げられると、「わかりました。教材を増やします」となり、「教材が重い」と批判があると「置き勉を認めます」となったわけです。つまり、文科省には方針の一貫性がないのです。今回、「重いから置き勉でいいでしょう」というのは表層的なとらえ方です。結局、「ゆとり教育は是か非か」の総括までいかないと、あまり意味がないのです。

――昔は“熱血先生”が職員会議で周囲を動かし、学校を変えていくといったドラマがありましたが、あのようなことはもうないのでしょうか。

中井 今、熱血先生が存在できなくなっています。学校に対する管理が全体として強まっています。それは厳しくなる傾向にあります。以前は職員会議に力があって、みんなの意見をまとめて管理職に対抗する力がありましたが、今は管理職に逆らうと、すぐ問題になります。また、必ずしも職員会議を開催しなくてもよくなり、校長や管理職が一存で学校について決められるのです。そういう仕組みづくりが進展しているため、熱血先生が学校の方針にたてつくことは困難となっているのが現状です。

――ありがとうございました。

(構成=長井雄一朗/ライター)

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