画家のパレットを解釈する:杉本克哉個展『Idolization』

SPICE

2018/9/11 17:00


小学校や中学校でならう水彩画の授業の終わりには、筆や筆洗バケツ、パレットを洗う時間がある。バケツの水は黒々と濁ってしまっているが、パレットにはまだ色鮮やかな絵の具が残っていて、洗い流してしまうのは少しもったいないような気がしたものだ。教科書に載っている抽象絵画の見方はわからなくても、排水口でうずをまく色とりどりの水流を美しいと感じたひとは、少なくないのではないか。

そのなかのひとりは、やがて大学へ進学し、卒業して美術家となった。画家・杉本克哉の新作は、自らのパレットをモチーフにしている。というより、制作後のパレットを作品としてそのまま展示している。もちろん、使用済みのパレットをただ壁に掛けているだけではない。そのとなりには、キャンバス上に同じ絵の具で同じ色面を再現した精巧な複製が飾られている。さらにそのとなりを見ると、また少し色合いの異なるパレットがある。これは複製をつくるときに用いられたパレットで、そのとなりにはそのパレットの複製が展示されており、そのまたとなりにはその複製を制作したときのパレットが……とこの調子で、絵の具の付着した板が合計10点以上ならんでいる。


作家はこのシリーズを、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教における「偶像崇拝の禁止」から着想したという。子供のおもちゃをモチーフに描いてきた杉本にとって、これまでの作品は「偶像」そのものである。では、それを禁じられたとき、いったい何が描けるのか。偶像制作に用いたパレットを、それを複製したものと一緒に展示するという意表をついた方法は、「偶像崇拝禁止」に対する、作家なりの答えなのだ。

しかし、そうはいわれても、見ている側からすると、どれも似たようなカラフルな板が延々とならんでいるようにしか見えない。そもそも偶像じたいが描かれていないのだから、偶像崇拝も、あるいはその禁止も、テーマとしてあまりピンとこないかもしれない。おもちゃやガラクタを精巧に描きうつし、寓話的なストーリーをまとわせたこれまでの作風を期待していくと、いささか戸惑ってしまうだろう。


このシリーズを楽しむためには、ちょっとした「コツ」が必要になる。少し小難しくいえば、記号論的で精神分析的な考え方がそのコツだ。最初の作品をx、作品を制作したときのパレットをP(x)、作品を複製(リプロダクト)したものをR(x)と表現してみよう。すると、展示風景はだいたいこんな感じになる。

P(x), R(P(x)), P(R(P(x))), R(P(R(P(x)))), P(R(P(R(P(x))))), ……

画家によって精巧にコピーされた複製R(P(x))は、遠目にはもとのパレットP(x)と区別がつかないし、次のパレットP(R(P(x)))とも大きくは違わないように見える。しかし、こうして記号にすると、相当異なっていることがわかるだろう。そして、このシリーズがなかば自動的に生成されていくということも、ひと目で理解できる。たとえば、10枚目のパレット(の複製)は、R(P(R(P(R(P(R(P(R(P(x))))))))))。任意のパレットP(x)が与えられれば、次に描くべきはその複製R(P(x))であり、その際に副産物として新たなパレットP(R(P(x)))が生まれる。この半自律的なプロセスは、画家のモチベーションが維持されるかぎり、理論上は無限に続いていくことになる。


さらに、記号で表現することのもっとも大きなメリットは、目に見えない関係を表示できるという点にある。関数で表されたシリーズを見てみると、そのすべてに、原初の作品xがP(x)というかたちで保存されていることがわかる。つまり、制作後の絵の具の残余という、人間にはとらえられないしかたで、作品=偶像がうつり込んでいるのだ。この偶像は、たとえば写真からその被写体を見るようには、パレットからは再生できない。P(x)やR(P(x))を眺めたからといって、もとのxが見えてくるわけではない。作品xとそのパレットP(x)との結びつきは、R(x)とはことなり、人間が知覚できる領域を超えている。それが属しているのは、むしろ、無意識の領域である。

端正な作品に作家の全意識が集中しているとすれば、混沌としたパレットは無意識の領域といえるだろう。筆触を消し、対象をリアルに描きだす作風なら、なおさらである。制作に没頭すればするほど、意識にはのぼらない手癖や筆致、感情の揺れ動きなどが、克明にパレットに記録される。これはいってみれば、画家の無意識の痕跡、解読不可能な文字のようなものだ。とすれば、かつてフロイトが患者の夢を無意識の現れとして解釈したように、鑑賞者もパレットを読み解き、いつか不可視の偶像へとたどり着くことができるのかもしれない。


盛り上がり、飛び散り、滴り落ちる絵の具。それを丁寧にたどり直し、再現しようとする作家のふるまいは、さながら、経典や聖典を書きうつす聖職者のそれである。その行為が新たなパレットを生み、またそれを複製するという自罰的で自慰的な連鎖。偶像はいつまでも姿を現さず、ひたすら自分の無意識をなぞり続ける作家の、シーシュポスのような果てしない営み……。色とりどりの画面にこめられた、その修行僧のような迫力を味わってみてほしい。

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