大仏が名古屋を歩き回る 戦前に撮られた幻の特撮映画『大仏廻国』はどんな内容だったのか

Excite Bit コネタ

2018/9/8 08:00



幻の特撮映画と呼ばれる作品がある。1934(昭和9)年に公開された『大佛廻國・中京篇』だ。監督を務めたのが枝正義郎。ウルトラマンの生みの親である円谷英二を映画の世界に引き入れた、円谷の師匠にあたる人物だ。映画の内容は、当時日本一の大きさの大仏と言われた愛知県知多郡聚楽園(現在の愛知県東海市)の大仏が動き出し、名古屋を中心とした中京地方の名所を巡るというものである。

同映画は、当時としては最新の一部カラー、オールトーキー(発声映画)として作られていた。しかしすでにフィルムは失われ今日ではすべてを知ることはできない。当時の新聞や雑誌での解説、映画広告やポスターから内容の断片を拾えるだけだ。そのため特撮ファンの間では伝説の作品となっている。

大仏が歩いて名古屋の名所を網羅する
『大佛廻國・中京篇』の映像は残っていないが、当時の新聞や雑誌の記事などを洗い出すと、大まかなストーリーは見えてくる。


当時の名古屋新聞(現在の中日新聞)によれば、座して62尺、立って110尺の聚楽園の大仏が、聚楽園での諸人の祈願に感応して立ち上がるところから物語が始まる。当時のキネマ旬報によれば、その入魂開眼して出発した大仏は、まず名古屋にある東西本願寺(真宗大谷派名古屋別院と本願寺名古屋別院)から大須観音を参拝。名古屋城に行き、3階建ての家屋を枕に犬山城下に宿泊する。

翌日、夜明けとともに一宮の真清田神社を訪れ、その後、名古屋市内を歩く。釈尊の御遺骨埋葬の霊場(当時の日暹寺であり現在の日泰寺のことだと思われる)に立ち寄った後、名古屋を離れ三河の知立八橋へ行く。そこで小町踊りを見物し、同じく三河西尾の常福寺大仏と対面する(聚楽園と常福寺どちらの大仏もコンクリート彫刻建造物職人・後藤鍬五郎による作)。順序は不明だが、大仏は他に名古屋市議会、松坂屋、鶴舞公園、名古屋市公会堂、神宮前駅、七ツ寺、日本ラインも訪れている。

すると傍の農家で不幸があった。大仏はその亡くなった農家の娘の魂を西方に導く。娘は極楽へ、信心のない亡者は地獄へと。そして大仏は瑞雲に包まれた五彩の花弁に飾られ昇天し、東京へ向かう。また新愛知(後に名古屋新聞と合併して現・中日新聞)によれば、賽の河原の場面では、地蔵和讃の御詠歌が伴奏として流れたそうだ。


もっとも注目された走る汽車をまたぐ特撮シーン
新愛知によれば、同映画での見所は「鶴舞公園の高架を汽車が進行しているところをまたぐ」「犬山城を枕に大仏が寝る(キネマ旬報では犬山の3階建て家屋となっている)」「手のひらで芸妓2人を躍らせる」「雲海に乗って空のかなたに消える」といった場面だという。鶴舞公園では大仏の歓迎会が催されるシーンもあった。ただし、これらすべての特撮が成功していたわけではないようだ。

新愛知が載せた『大佛廻國・中京篇』についての合評記事には、「鶴舞公園のところのトリックがいちばん成功していますな」「全般のトリックが鶴舞公園程度でおしてあったら、もっと惹きつけるがねえ」と、それぞれ識者がコメントしている。名古屋新聞の「新映画評」では、「聚楽園で諸人の祈願に感応して起ち上がるあたりはなかなか見られる。一番いいのは鶴舞公園のガードを一跨ぎに越える場面で、これは一寸驚かされた。全体がこの調子だと申し分ないのだが……」と述べている。

すでに日本でも紹介されていた米映画『キング・コング』と比べると、『大佛廻國・中京篇』は特撮の技術としてまだ差があった。名古屋新聞の「新映画評」では「技術に凝っているようだが幼稚なもので、むろん『キング・コング』などと同日の談ではない」と評している。


カラー映像は、地獄および天国を描写する際に用いられた。名古屋新聞「新映画評」は「閻魔大王が爆弾三勇士に敬意を表したり、三原山心中者を叱り飛ばしたりする。血の池地獄や釜入りなどがある。かういふ場面が天然色撮影になっているから、妙な感じに支配されて、縁日の、地獄極楽の見物をみているような、子どもっぽい怪しい雰囲気に釣られてくる」と解説する。

『大佛廻國・中京篇』は戦後間も無くまでは、ブツ切れながらもフィルムは現存していたようだ。ただし、残っていたものが断片的だったからか筒井康隆著『不良少年の映画史』には、つまらない映画という評も載る。

長期に渡る撮影と最新技術に投じられた膨大な資金
新愛知によれば、「種々の模型(ミニュチュア)及び大小数十個の大仏を作り実景と模型を自由にモンタージュして場面遠近に不自然を感じさせない様に撮影した」とあり「複合模型といっても一個数千円(筆者注:当時の額で)を費やした大規模な巧緻なもののみであるから、模型と称するには余りに高額な犠牲と苦心が払われている」と、製作費がとても高額だったことを報じている。名古屋新聞も「記録的な長日月を費やして」「莫大な費用を投じて完成した」と伝えている。


主演の聚楽園の大仏の他に、キネマ旬報によれば俳優・石川秀道や小島一代が出ており、新愛知によると当時「淡海節」で有名だった志賀廼家淡海の一座が特別出演した。名古屋市内の各連の芸妓、京都先斗町の名妓、松坂屋音楽隊、ロケ地各所での応援出演もあり、延べ人数としてとても多くの人が出演したことが分かる。

このような大作であった『大佛廻國・中京篇』をプロデュースしたのが、元帝キネ常務であり、当時のキネマ旬報の記事によれば「映画界きっての策士」だった立石駒吉だ。立石は大仏映画製作所を立ち上げて『大佛廻國・中京篇』を製作した。

映画のモデルとなった聚楽園の大仏は、名古屋の実業家・山田才吉が、自身の経営する料理旅館の敷地内に造らせたもの。山田は聚楽園旅館の他に、巨大料理旅館を複数経営していた他、守口漬(現在も名古屋名物として続いている)の考案や缶詰事業、名古屋瓦斯(現在の東邦ガス)の立ち上げをするなど、名古屋財界で名の知れた人物だった。それなりに資金も動かせたはずで、山田は映画にも関与していたかもしれない。


『大佛廻國・中京篇』は1934(昭和9)年9月14日に封切られると、名古屋では大いに受けた。新愛知によれば、上映された名古屋の大須世界館では初日、2日目ともに満員の大盛況。第二週上映に入ることになった。名古屋新聞が「二週、三週の長期興行を目ざして火蓋をきるべく、必死の宣伝戦を戦わしている」と報じているように、映画のPRにもかなり力が入っていた。

『大佛廻國・中京篇』がどのような映画であったのか、フィルムが失われた今となっては断片から想像を巡らすしかない。しかし失われてしまったからこそ、現代でより多くの人の関心をひきつけているのだろう。
(加藤亨延)

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