「災害関連死」をなくすため、すべての避難者に“段ボールベッド”を――大阪の段ボール会社社長・水谷嘉浩の信念(第1回)

地震、台風、洪水などで毎年多くの人々が被害に遭う自然災害大国・日本。2018年に入っても「大阪北部地震」や「西日本豪雨」で大勢の死傷者・行方不明者が出ている。被災して自宅に住めなくなった人たちは体育館や公民館などの避難所で暮らさざるをえなくなるが、その環境は劣悪そのもの。長期間、固く冷たい床での雑魚寝が原因でせっかく助かった命を失う人も少なくない。

そんな災害関連死をひとつでも減らすため、命を懸けて戦っている男がいる。水谷嘉浩、48歳。大阪の小さな段ボール会社「Jパックス」を営む社長である。その活動の甲斐あって、今、100年間変わらなかった避難所の歴史が変わろうとしている。なぜ彼は被災者の命を救うために人生を懸けるのか。現在の日本の避難所の実状・問題点、7年半以上継続している具体的な活動内容、そして彼を駆り立てる思いなどについて熱く語っていただいた。

プロフィール
水谷 嘉浩(みずたに・よしひろ)

1970年、大阪府生まれ。大阪府八尾市にある段ボールメーカー・Jパックス株式会社代表取締役社長。2011年3月11日の東日本大震災をきっかけに、災害関連死を減らすべく、災害発生時、自ら設計した段ボールベッドを避難所に運搬したり、全国の地方自治体と防災協定を締結する活動を継続している。その他、「避難所・避難生活学会」の理事として、防災についてのさまざまな研究、啓蒙活動を行ったり、京都工芸繊維大学大学院の博士課程で材料工学の研究も行っている。2児の父。


▲西日本一帯に甚大な被害をもたらした平成30年7月豪雨。倉敷市真備町の避難所には水谷さんの尽力で段ボールベッドが搬入された。写真一番右が水谷さん(写真提供:水谷さん)

災害発生時、避難所に速やかに段ボールベッドを届けるために

──現在、水谷さんが取り組んでいる活動について教えてください。

本業は大阪八尾市にある「Jパックス」という段ボール会社の経営なんですが、災害発生時に速やかに段ボールベッドを避難所に届ける仕組みを作るため、全国の各自治体と防災協定を結ぶ活動を行っています。また、災害が起こった時、実際に僕自身も段ボールベッドをもって避難所に行ってもいます。きっかけとなったのは2011年3月に発生した東日本大震災。以降、広島市豪雨土砂災害(2014年8月)、関東・東北豪雨(2015年9月)、熊本地震(2016年4月)、鳥取県中部地震(2016年10月)、大阪北部地震(2018年6月)、そして西日本を中心に甚大な被害をもたらし、現在もまだ避難生活を余儀なくされている人が多い西日本豪雨(2018年7月)など、これまで7年間で250ヵ所以上の避難所を回ってきました。その他、「避難所・避難生活学会」の理事として、防災についてのさまざまな研究、活動を通して国に避難所の環境改善を働きかけたり、京都工芸繊維大学大学院の博士課程で材料工学の研究もしています。

──なぜそのような活動をしているのですか?

現在の日本の避難所の環境が劣悪だからです。災害が起こるとよくテレビで避難所の光景が映し出されますが、避難してきた人たちは、大抵ブルーシートと薄い毛布が敷かれただけの固い床の上に寝ています。そんなところにずっと同じ姿勢で寝ていると静脈血栓塞栓症、いわゆるエコノミークラス症候群になって亡くなってしまうリスクが高くなるんです。避難所って、災害から助かった方々がいる場所ですよね。その避難所で人が死んでいくのってどう考えてもおかしい。しかもエコノミークラス症候群で亡くなるのは高齢者が多いと思うかもしれませんが、実は40~50代の女性もたくさん亡くなっているんです。その年代は、お子さんがまだ中学生とか高校生というお母さんが多いですよね。そんな大切な時期に災害そのものではなく、助かったはずの避難所で亡くなってしまう。これがたまらなくつらいんです。

あのブルーシートの役割は人を守ることじゃなくて床を守ることなんです。これを聞いた時は怒りに震えました。これが日本の避難所の現実なんです。

昭和5年(1930年)の災害時の避難所の写真と最近の避難所の写真を見ると何も変わってない。どちらも床に直接雑魚寝してる。このせいでせっかく運良く地震や津波、洪水などの災害から助かった人たちが亡くなっていく。これははっきりいって人災ですよ。こんな理不尽なことはない、これでええわけないやろと思うんです。ちなみに避難所で床に雑魚寝をしているのは世界中で日本と韓国だけなんですよ。僕はこの避難所の景色を変えたいんです。

▲段ボールベッドが提供される前の真備町の避難所。2017年7月9日撮影(写真提供:水谷さん)

国家とは、国民と国土があって成り立つもので、政府には国民の命と財産を守る義務があります。しかし、これまでの活動を通して思うことは、日本の政府には何が何でも国民を守るという気概が感じられないということです。災害って誰の責任でもないわけですよ。ある日突然襲ってきて、理不尽に命や日常生活が奪われる。被災者はみんな前日まで自分が被災者になるとは想像もしていません。まさに明日は我が身なんです。その理不尽な災害から国家が国民を守ったり、被災してしまった国民に対して手を差し伸べるのは当たり前の話。でも今のシステムでは全くそうなっていない。むしろ、国家が国民に犠牲や我慢を強いています。避難所の景色を変えることができたら災害関連死や二次健康被害を防ぐことができるかもしれない。僕が取り組んでいるいろんな活動は全部それを実現するためであり、そのために段ボールベッドが非常に有効なんです。

──水谷さんが開発した段ボールベッドとはどういうものなのですか?

正式名称は段ボール製簡易ベッド「暖段はこベッド」というもので、雑魚寝と違って床の温度が身体に直接伝わらないので温かいし、床のホコリや病原菌を直接吸い込むこともないので呼吸器の疾患なども予防できます。長時間床に寝ていて動かないとエコノミークラス症候群を発症するリスクが高まりますが、段ボールベッドならベッドの段差を利用して立ち上がりやすくなるので、そのリスクを減らせます。このように二次健康被害や災害関連死を防げるのが最大のメリットです。また、高さがあるので人が歩く足音や振動が気にならず熟睡できるし、立ったり座ったりがやりやすく、足腰に負担がかかりません。この段ボールベッドの天板の上に敷き蒲団やマットレスを敷いたら快適そのもの。普通のベッドと何ら変わりありません。サイズは長さ195センチ×幅90センチ×高さ35センチ、平均荷重で9トンの重さに耐えられるので大柄な男性でも余裕で寝られます。僕の友人は5年前から家でこれを使ってくれていますが、今も全く問題なく使えています。さらにパーテーション機能もあるので、プライベートスペースも確保できます。

組み立ても簡単。段ボール製の枠に12個の段ボール箱をはめ込み、その上にパーテーションにもなる段ボール製の板を2枚かぶせるだけで、工具は不要。必要なのはガムテープのみ。初めての人でも約10分で作ることができます。また、収納機能もあるので、避難所から仮設住宅や復興住宅に移る際に持って行って使い続ける人もけっこういるんですよ。つまり、簡単に作れて、持ち運びできて、耐久性にも優れ、極めて高い保温性があり、病気も防げる優れものなんです。

▲水谷さんが開発した段ボールベッド

西日本豪雨でようやく避難所の歴史が変わった

──先月の甚大な被害をもたらした西日本豪雨の時はどうだったのですか?

7月9日に自分の車に段ボールベッドを積めるだけ積んで、被害が大きかった岡山県倉敷市真備町に向かいました。中国地方の被災した県は、山口県以外は防災協定を結んでいるので、とにかく発動して段ボールベッドを導入するように促すことが目的でした。実際に真備町の避難所に行ってみると、やっぱりみなさん床に直接雑魚寝でこれまでと全く同じ光景。避難所の責任者に「段ボールベッドを持ってきました。これで寝ると床に雑魚寝よりも楽に寝られるし、病気や災害関連死も防げるので、避難者のみなさんに配布してください」と訴えたのですが、拒否されました。岡山県と防災協定を結んでいるのですが、市町村に受け入れの仕組みがなく、避難所の管理者も段ボールベッドの存在を知らないからダメなんです。避難所にいた保健師さんに「要援護者はいませんか?」と聞いたら「たくさんいるから段ボールベッドがぜひほしい」ということだったので、保健師さんから管理者に段ボールベッドを導入するように頼んでもらったのですが、結果は同じ。ここで粘っても逆に余計な負担をかけることになるので、そのまま避難所を後にしましたが、要援護者がたくさんいらっしゃったので残念でした。

その後、せっかく段ボールベッドをもってきたので総社市の避難所に行ったら、「ありがたい。ぜひほしい」とすぐに全部受け入れてくれて、感謝されました。同じ避難所でも管理者によって対応が全然違うんです。

避難している人たちのため、倉敷市の避難所にも何とか段ボールベッドを入れたいと思い、同級生の代議士経由で倉敷市選出の代議士に申し入れをして、一緒に副市長に面会。雑魚寝の危険性や段ボールベッドの効果、必要性を説明し、避難している人の命を守るため、導入すべきだと訴えました。避難所学会のメンバーも各方面に申し入れを行い、多くの方々に尽力いただいたおかげで、当初は難色を示していた倉敷市が一転して、副市長に申し入れをした翌日、2400人の避難者全員に段ボールベッドの配布を決めたんです。これは行政として初めてのことで、本当に画期的なんです。

段ボールベッドの搬入は倉敷市近隣の大手段ボール会社が担当して、7月14、15日に作業完了。これまで「避難所の景色を変えたい」という一心でこの活動に取り組んできましたが、雑魚寝を撲滅するためのよき前例になりそうです。避難している方は「楽に寝られるようになって助かりました。ありがとうございました。もっと早くほしかった」と口々に言ってくれました。他にも、広島市内には約450、愛媛県内には約1000の段ボールベッドが運ばれています。

▲真備町の避難所で、史上初めて避難者全員に段ボールベッドが支給された(写真提供:水谷さん)

──すごいですね。まさに避難所の歴史が変わった瞬間ですね。

そうですね。僕としてもうれしかったのですが、やはり最初は段ボールベッドを拒否されているし、まだまだ問題は多々あります。今回に至るまでの7年半、甚大な被害が出た大災害が多数起こりましたが、その都度多くの避難所や自治体に断られたりと、本当に苦難の連続でした。心底嫌になったことも1度や2度ではありません。

原点は真っ先に逃げ出した東日本大震災

──そうなんですね。ではこれまでの活動の軌跡について詳しく教えてください。活動のきっかけとなったという東日本大震災の時はどこで何をしていたのですか?

僕が経営している段ボール会社は大阪にあるんですが、東日本大震災が起こった時、出張で東京にいたんです。たった4時間の滞在予定で、ビルの4階の会議室で研修を受けていた時、ドスンという下から衝き上げられるような強い衝撃を感じました。次の瞬間、グラグラとビル全体が揺れました。驚きと恐怖ですぐ荷物を抱えて、一目散に会議室を飛び出て、階段を駆け下り、ビルから飛び出しました。その後しばらくして他の参加者もぞろぞろ降りて来たのですが、中には年配の方や女性もいました。その光景を見た時、「ひょっとして俺、めっちゃ恥ずかしいことをしたんちゃうかな」と強烈な自己嫌悪に襲われたんです。本来なら避難誘導をしなきゃいけない立場だったかもしれないのに、恐くて一番先に逃げたわけですから。

その日は東京の知り合いの家に一泊したのですが、夜に忸怩たる思いを抱えながらテレビを見ていると、東北の太平洋沿岸部の町が大津波に襲われて壊滅状態になる映像が流れていました。それを見て、言葉にならない悲しさと悔しさに胸がかきむしられる思いになりました。その翌日、大阪に帰る新幹線の中で何かをしなきゃいけないとずっと考えていました。

その後、3月14日に知り合いを通じて茨城県高萩市からSOSを受けて、市役所に食料や毛布などの救援物資を届けました。茨城県もかなりの被害を受けていたのに、それより北の被害が甚大だったので、ほとんどの支援は福島県から北に行って、茨城県の被災地は取り残されていたんです。高萩市のみなさんには大変喜んでいただいたのですが、正直こんなことをやってても焼け石に水やないかと思っていました。

そんな時、テレビで避難所で大勢の人が寒さで亡くなってるというニュースを観ました。「ちょっと待てよ、避難所って地震や津波から助かった方々がいる場所やろ。それが寒さで亡くなるって一体どういうことや」と衝撃を受けると同時に、安全な場所のはずの避難所で命を落としていく人がいるという理不尽に我慢ならなかった。そこで、ひょっとしたら保温性に優れる段ボールで寝床を作ればそういう人たちも助かるんちゃうかなと考えて、急遽段ボールのベッドの設計図を書いたんです。

この段ボールベッドの設計図を元にうちの社員がたくさん作ってくれたので、twitterに段ボールベッドの写真とともに必要ならどこでも無償で届けますと投稿しました。するとたくさんの人がRTしてくれて、石巻の医師と繋がりました。話をするとぜひほしいということだったので、急遽段ボールベッドを200床作って、4トントラック満載で石巻まで届けて、その医師と一緒に避難所に運んだんです。その医師は「死因は実は寒さだけじゃない。避難所は非常に危険でエコノミークラス症候群とか床の埃を吸って呼吸器がやられたり、年寄りが寝たきりになったりと非常によくない。だからベッドが必要なんだ」と話してくれました。これを聞いて、やっぱり段ボールベッドには人の命を救う力があるんやと確信し、毎週のように段ボールベッドを積んだトラックで大阪と東北を往復する生活が始まったんです。

▲水谷さんの書いた設計図を元に、Jパックスの社員が総出で段ボールベッドを製作。4トントラックに満載で石巻日赤病院に向かった。2011年3月撮影(写真提供:水谷さん)

「パパ、災害支援よりまず家族やろ」

──大阪から東北ってかなり遠いし、体力的にも相当キツいですよね。しかも地震後、福島第一原発が爆発しています。恐くなかったですか?

そら恐かったですよ。原発事故もそうですが、東北に向かう途中、静岡で震度6の地震が起きましたし。何が起こるかわからなかった。それに東北までは夜通し走る強行軍だったので、交通事故のリスクもありましたしね。

──ご家族は反対したのでは?

もちろん大反対しましたよ。しかも、当時の会社の経営状況がすごく悪くてお金がなかったにも関わらず、段ボールベッドの製作費も東北までの交通費も全部自腹で、家族を放って被災地に行きまくってましたからね。嫁は「自分の給料も安いのに、まずはもうちょっと自分の家族を楽にさせるのが先やろ。なんで縁もゆかりもない赤の他人のためにわざわざ家族を置いてまで危ないところに入っていくんや」と怒り心頭でした。小学生だった子どもらにも「パパと一緒にいたい、危ないとこ行かんといて。災害支援よりまず家族やろ」と言われて。

──やはり葛藤はありましたか?

もちろんありましたよ。「行かん方がいい」と「やっぱ行かなあかん」という思いの間で何度も揺れ動きました。でも結局、「他に誰がやんねん、自分しかいいひんよな」という結論になってしまうんです。だから子どもらにも「そやな、でも男にはやらなあかんことがあるんや」と言うしかなかった。

──家族が一番大事なんじゃなんですか?

それはそうだけど、でも行かなあかん時ってあるでしょ? 毎回家を出るのは子どもらがまだ寝てる時間なので、顔を撫でながら「今回こそ死ぬかもしれん、子どもらにはこれで最後かもしれんな」と思っていました。さすがに遺書は書かなかったけど、そのくらいの覚悟はしていました。

──もしその時奥さんからどうしても行くなら離婚すると言われたらどうしていましたか?

僕は「離婚とかそんなん関係なくてやらなあかんやろ」という思いだったから、僕はしたくなくても嫁の方がしたいんやったらしょうがないと覚悟を決めてました。そのくらいの気持ちでした。でも実際、離婚直前までいったんですよ。ほんとあの時はヤバかった。

──そもそもボランティアは経済的にも時間的にも余裕がある人がやるものだという考え方が一般的ですよね。

でも余裕がある人がボランティアをやるかどうかはまた別の話やないですか。だから自問自答は相当しましたよ。「じゃあお前は会社が黒字になったら支援するという男か」と自分に問うと、「違うやろ、今やらんとどうすんねん。お金に余裕ができたら支援しますわというのは違う」という答えで。また「交通事故を起こして死んでもうたらどうすんねん」という問いには、「でも死ぬのって自分で選べないやないか。普通に道を歩いていても死ぬ時は死ぬし。何より、段ボールに人の命を救う力があるとわかった。そして自分は段ボール屋や。それやったらやらんとおかしい、やるしかないやろ」と。だから僕の中から出てきた結論は「やるしかない」やったんですよ。原発が爆発しても、死ぬかもしれんけど絶対行かなあかんと思ったわけです。

──すごい覚悟の仕方ですよね。

もう1つ大きかったのは、被災地の避難所にトラックを横付けして段ボールベッドを運ぼうとしたら、医師も一緒に運ぼうとするんですよ。それに驚いて、「ちょっと待って、これは段ボール屋である僕の仕事や。あんた医者でしょ、ちゃんと被災者を診てあげて。段ボールベッド運んで筋肉痛になって手術せなあかんときに腕プルプルしたらあかんやん」と言ったのですが、でも医者はみんな「いや、そういうわけにはいかん」と一緒に汗だくになって運んでくれたんですよ。普通医者ってそんな力仕事の雑用みたいなことってやらないじゃないですか。もちろん彼らも支援活動費は全部自腹。そんな彼らの姿勢を目の当たりにして、「この人ら相当気合い入ってるな、本気やな。それやったら俺も赤字とか死ぬかもしれんとか関係なく、本気でやらなあかん」と思ったわけです。ちなみにこの医者たちとはこの時から付き合いが始まって、いまだに避難所学会などいろんな活動を一緒にやっています。僕が防災に関する活動、研究を続けているのは彼らのおかげなんです。

▲2011年4月4日、宮城県石巻市の日赤病院に段ボールベッドを届けた後、石巻市災害対策本部で段ボールベッドのデモを行った。名取市佐々木市長も高く評価(写真提供:水谷さん)

──とはいえよく続けられましたね。

いや、こんな状態だから長くは続けることができませんでした。トラックで毎週大阪から宮城、岩手、福島と7往復したのですが、さっき話した通り、これは正直キツかった。金曜の晩に大阪を出て土曜の朝に現場に到着。一日活動して晩に避難所を出て、翌朝に大阪に帰るという。往復2000km以上あるしね。今思えば我ながらようやったなと。あんなん二度と無理ですよ。しかも全部自腹でしたしね。だから当然体力的にも資金的にもすぐ限界が来たわけです。届けられたエリアと届けられなかったエリアとで濃淡が出ますしね。避難所で苦しんでいる人たちはたくさんいるのに、自分一人だけでこんなことをやっててもどうしようもないから、もっと大きな力を借りようと思ったわけです。

 

避難者のためにまさに命懸けで活動を続けた水谷さんでしたが、やはり個人ではすぐに限界がやってきました。次回は水谷さんが利用した「もっと大きな力」、それでもなかなか崩せなかった「大きな壁」について語っていただきます。乞う、ご期待!

取材・文:山下久猛 撮影:山本仁志(フォトスタジオヒラオカ)

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