セレブな街・二子玉川が、昔どんな街だったか知っていますか?


●セレブな街の昔は?

二子玉川というと、今はマツコ・デラックスも嫌うほどのセレブな街として、全国的にも有名である。1969年に日本初の郊外型ショッピングセンターといわれる玉川高島屋が開業して以来、東急田園都市線の一大商業拠点となり、近年はオフィス街、タワーマンション街としても発展している。たしかにファッション雑誌から抜け出てきたかのような美しい女性が多い。

しかし、この二子玉川、昔は多摩川沿いの行楽地であり、料亭、旅館など十数軒が並ぶ三業地もあった。なかでも1918年に開業した水光亭は二子玉川を代表する料理屋旅館であった。図面を見ると2階建てで20部屋ほどもある大規模な建物である。庭も広く、映画の撮影にも使われた。敷地の北西には別館もあったが、これは三菱の岩崎家の所有であったものが、この地へ移築され、藤田という人の所有になっていたが、これを水光亭が借用したという。

●鮎漁で行楽をする土地に遊園地が発展

歴史をさかのぼると、多摩川は江戸時代には鮎漁が盛んであり、人々は漁を見物しながら川辺で遊ぶというスタイルで行楽を楽しんだらしい。それが明治末期以降、行楽地として発展したのである。発展に寄与したのは渋谷から二子玉川までの玉川電気鉄道の敷設(1907年)である。鉄道開業までは亀屋という料理屋が一軒あるだけだったらしいが、開業後は十数軒に増えた。

また沿線における会社員、軍人、官吏などの中流階級の増大も発展に寄与した。彼らは家族とともに日曜日に休むというライフスタイルを持っていたため、自然の豊かな郊外の二子玉川も行楽地として人気を得た。

1909年には、玉川電気鉄道は玉川村瀬田の地主から7000坪の土地を借り入れて遊園地を開業した(「玉川第一遊園地」という)。この遊園地には、川沿いの田んぼを整備してつくった菖蒲園があり、小鳥、猿、鹿などの動物がいたらしい。河原には兵庫島という小さな島が今もあるが、ここも散策路として整備された。都会の仕事で疲れる中流階級たちが、自然の中でリラックスする場所だったのであろう。

この遊園地は、経営を1913年から17年までは浅草の花屋敷の経営者である大瀧勝三郎に委ねた。大滝は自然散策型だった遊園地をより娯楽的なものに変えていった。清水の舞台を模した「玉川閣」など十数棟の建物(今風に言うとパビリオン)を建て、そこに演芸場もつくった。それらの建物は1914年の東京大正博覧会で使用されたものを移築したものだ。また玉川閣は、演芸のない日には料理屋から料理を取り寄せて貸席としても使われたという。

1918年には二子玉川駅から遊園地までの道沿いに、桜の木が百数十本植えられた。また児童用の遊具が設置され、グラウンドがつくられて青少年の運動会も行われるなど、遊園地全体が子ども向けに整備されていった。21年には遊園地内ばかりか兵庫島、多摩川沿岸でイルミネーションを設置したというから、なかなかモダンな遊園地になっていったのである。

●子どもの街と大人の街

もちろん、鮎漁を屋形船や座敷から眺め、捕った鮎をさっそく賞味しながら宴席を囲むという江戸時代以来の娯楽も続けられた。そうした遊び方はかつては富裕層だけのものだったが、玉川電車の開業以後は中流階級にまで大衆化した。遊園地とともに鮎漁と料理屋を家族で楽しむことも増えたのではないかと思われる(高嶋修一『近代の二子玉川における行楽の展開』における説)。

1918年になると玉川電気鉄道自身が料理屋経営に乗り出した。多摩川沿いにある東京信託株式会社が所有する喜月楼という料亭を買収し、新たに経営を委託した先が前述した水光亭だったのである。水光亭では料金を安めに設定したため、人気が出て、1920年には増築が必要なほどになった。

遊園地も人気が増し、1922年には「第二遊園地」をつくることになる。1985年まで存在した二子玉川園という遊園地の前身である(場所は駅の東側)。今度は青少年、児童用に特化し、噴水、プール、テニスコートもつくられた。プールには500席の観覧休憩所と、定員1000人の観覧台が設けられた。場所はかつての二子玉川園、今はオフィスビルやタワーマンションが建っている場所だ。

また園内には27年に「家族館」も設置され、館内に各種娯楽施設が備えられたというが、具体的には何かわからない。おそらくは卓球などができるようにしたのかと推測される。さらに31年には子ども向けに林間学校の誘致をするための施設建設も行われたという。

このように、子どもや家族というものが重視されるようになったというところが、この時代の特徴として注目すべき点である。

●三業地の盛衰

これに対して第一遊園地のある駅西側には、1932年に日蓮宗総本山見延山関東別院が建立されることとなった。周辺には玉川神社などの寺社が多く、27年には周辺地域が三業地指定を受けていたため、門前町の歓楽街になっていった。つまり駅の東は子どもや家族連れ向け、西は大人の男女の街になったのである。

三業地の景気が良かったのは1933年から35年ごろだという。都心の花柳界と比べれば6割程度の安さで人気があったが、賑やかさは都心には遠く及ばず、「場末」の感はぬぐえなかったようだ。1936年の阿部定事件の定と吉蔵もタクシーで都心から二子玉川まで乗り付け、三業地の待合「田川」で逢い引きをしたのは有名である。

こうした三業地も戦局が厳しくなる1940年になると、料理屋の多くは景気が悪化し、多くは多摩川の向こうにできた軍需工場の労働者のための寮になっていった。戦後は、水光亭は進駐軍の米兵相手のキャバレーに敷地を貸したこともあった。1959年に三業地制度は廃止され、水光亭は富士観会館と名を変えた。近年まで残っていて、電車からも見えたので記憶している方も多いであろう。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

【参考文献】
世田谷区教育委員会『世田谷区文化財調査報告集 15』2005年

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