福岡の大人気番組『ゴリパラ見聞録』で奇跡の復活を遂げた土俵際芸人たち

日刊SPA!

2018/8/8 08:32



博多華丸・大吉に次ぐ快挙――地元紙を飾った見出しに福岡県民が沸いた。創始770余年。博多を代表する祭り・博多祇園山笠。その“飾り山”はその時の流行が端的に反映されるのが通例で芸人では華丸・大吉が唯一だった。が、ついにその先例が破られることになったからだ。

そんな、福岡を代表するスターに押し上げられたのは、お笑い芸人のゴリけんとパラシュート部隊(斉藤優、矢野ペペ)の3人。彼らの名を冠した旅バラエティ番組『ゴリパラ見聞録』(以下、ゴリパラ)は、福岡のみで放送していた頃からジワジワと噂が広がり、現在全国17局で放送中。7枚リリースした番組DVDは累計10万枚を突破し、2500人規模のイベントチケットも即完売。かつて“ローカル局の奇跡”と評された『水曜どうでしょう』(HTB)の再来と言われるまでになった。もともとは東京で活動する芸人だった3人が出世レースに敗れ、端から見れば“島流し”同然で福岡に来たのは12年前。マネジャーもいないゼロからのスタートだった。

◆島流し先で天下を獲った男たち

――ゴリけんさんは’97年、パラシュート部隊のお二人は’99年にデビュー。’06年に所属事務所から福岡行きを宣告されるまで、東京で活動していたそうですね。

ゴリ:東京ではとにかくスベりまくってました。ライブ終了後のアンケートで「一番つまらなかった芸人」という質問の回答に、その日、ライブに出演してない僕の名前が書かれるぐらい。ずっとそんな調子でした。

斉藤:僕らは運良くデビュー2年目で『内村プロデュース』に出演できましたが、先輩たちがモンスターすぎて、まったく前に出られませんでした。

ぺぺ:負け続けたね。収録現場が戦場すぎて吐いたこともありました。

斉藤:吐いてた(笑)。それでも周りにはダメな仲間もいっぱいいたので、傷を舐め合って、今思えば、完全に負のループでした。

ゴリ:そんななか、事務所に勧められて福岡へ。そして、新天地での生活は甘くはなかったですね。

斉藤:当時、僕には1歳の子供がいて、文字どおり土俵際。福岡でダメなら腹をくくるつもりでした。

ゴリ:3人で集まるたび、「1年目のつもりでやろう」って励まし合ってました。当時、仕事は自分たちでつくるしかなく、母校である福大剣道部のOB会にテレビ局の人がいるらしい――そんな不確かな情報をもとに、冬の早朝、3人で道場に行ったことも。結果、そのOBは制作ではなく、事務方の人で……。

斉藤:「ゴリさん、こんなことやってて、意味あるんですか?」って聞いたら「わからん」と。心の中で「大丈夫ですか? 僕たち」って呟き続けていました。

ゴリ:福岡が韓国から近いという理由だけで韓国語を勉強してた時期もありましたね。暇だったし、チャンスの糸口をとにかく見つけたくて。

ぺぺ:当時、ゴリさんとルームシェアしてて、隣の部屋から「カムサハムニダ」って野太い声が聞こえてきたときにはビックリしましたよ。

◆酒で黒い本音を漏らす前代未聞の旅番組

――いわゆるドブ板営業をかけていくなか、福岡のテレビ業界とはどうやって繫がっていったんですか?

斉藤:地道に3人でライブ活動もしてたけど、福岡県民といえばお酒。その事実にやっと気づき、テレビ局に営業に行き、会ってくれた人とその流れで飲みにいき、「肩、温まってます」とアピールしたんです。

ゴリ:それは今も変わってない(笑)。でも、テレビ局、特に番組の改編期に顔を出すのは大事。僕らは“ダスキン作戦”って呼んでるんですけど、局内をダスキンの営業の人が「ダスキンでーす!」と連呼しながら、営業や清掃用具交換のために回っているのにならって、チャンスを探るんですよ。

斉藤:その流れでお酒を飲みにいって、次の人事の話をこっそり仕入れる。で、制作に来そうな人とどうやって仲良くなるか、作戦を練ったりしていたんです。

※8/7発売の週刊SPA!のインタビュー連載『エッジな人々』から一部抜粋したものです

【ゴリけん】

’73年、熊本県八代市生まれ。福岡大学体育学部卒業後、大阪NSCを経て、’97年、ワタナベエンターテインメントの所属タレントに。’06年から福岡で活動。芸名のゴリけんは大友康平が命名。剣道3段の腕前を誇る

【パラシュート部隊】

斉藤優(’78年、大阪府豊中市生まれ。AB型。身長157cm)と矢野ぺぺ(’79年、大阪府豊中市生まれ。B型、身長180cm)によるお笑いコンビ。高校時代に知り合い、’99年にコンビ結成。斉藤がボケ、矢野がツッコミを担当

取材・文/紺谷宏之 撮影/新本真太郎(スタジオサラ)

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