【今週はこれを読め! SF編】消えてしまう過去、儚い現在、記憶のなかの世界

BOOKSTAND

2018/4/17 20:11

『プラネタリウムの外側』は連作集。有機素子コンピュータで会話プログラム(チューリングテストをクリアするレベル)を開発する南雲助教と、彼の研究室に関わるひとたちの物語だ。ITと現実感覚を結びつけたSFは数あるが、この作品はガジェット/アイデアばかりを前景化するのではなく、わたしたちが暮らしている日常、人間関係のなかで出逢う感情や感覚の地平で語られている。そこがとても新鮮だ。
 生活のなかでふと覚える些細な違和感。たとえば、いつのように電灯をつけようとしたら、壁スイッチの位置が思った場所と違っていたとか、毎日通っている町並の一角が空き地がなっていて、前にどんな建物があったか思い出そうとしても思い出せないとか。そんな経験はだれでもあるだろう。たいていは気の迷いだとしてやりすごしてしまうのだけれど、もしかすると「現実は自分が思ったとおりではない」のかもしれない。
 その感覚をたくみに小説化したのがフィリップ・K・ディックというひとで、彼の作品ではしばしば些細な違和感を足がかりに現実の虚構性があらわになっていく。
 ディックの展開はかなり強迫観念的だったけれど、『プラネタリウムの外側』の物語はそうしたアクの強さはなく、むしろ澄んだイメージだ。繊細な青春小説の匂いすらある。
「日常の些細な違和感」から「現実は思ったとおりではない」への展開がもっともすんなりいっているのが、第一作「有機素子ブレードの中」だろう。物語のきっかけとなるのはシンクロニシティである。
 第一の語り手の北上渉は、大学の非常勤講師の契約が切れたばかりで、気分を一新すべく、下関から釧路まで列車で行くパッケージ・ツアーに参加し、車中でポス・ドクで小説家志望の尾内佳奈と知りあいになる。奇妙な縁というか、その名前は北上の別れた妻の名前、中井奈央の逆読みだ。オナイカナとナカイナオ。そのうえ、車両のプレートナンバーが佳奈の誕生日と同じだった。できすぎた暗合。そう考えるとノイズのような感覚が走る。
 第二の語り手は、有機素子コンピュータでプログラム実験をおこなっている「ぼく」。男側と女側、ふたつのプログラムを、列車の旅というシチュエーションのなかで会話させてなりゆきを観察している。「ぼく」はあくまで観察者のはずだった。しかし、同僚の南雲と手がけている出会い系ネットサービスのサイドビジネスが忙しくなり、ポス・ドクを対象とした求人を出す。応募してきた女性を会って驚く。尾内佳奈と名乗った彼女は、「ぼく」がいま走らせている女側プログラムの設定とそっくりの背格好をしていたのだ。
 これもシンクロニシティ? それとも、プログラムの外側に「こちらの現実」があるということが思いこみだったのか?
「有機素子ブレードの中」は一種のリドルストーリーで、核心の謎は宙ぶらりんのまま、後続諸篇の通奏低音をなす。
 第二篇「月の合わせ鏡」では、語り手が変わる。南雲と同じ大学の研究者で通信工学を専門とする「ぼく」だ。ぼくは月と地球のあいだで合わせ鏡をつくるシミュレーション実験を思いつき、南雲に資材面での助力を依頼する。ちなみにこの作品では、前作に登場した尾内佳奈が南雲の研究室で働いている。
 合わせ鏡実験は学術的な知見を得るためではなく、インスタレーションのようなものだ。ここでのポイントは、光には速度があって映る鏡像は過去だということだ。地球と月の距離があれば、その時間差を人間が実感できる。しかし、そこにかすかな違和感が紛れこむ。

部屋の奥に置いたクライアント端末に近づくと、少しずつ遅れて、鏡像の中を自分が歩いている。 「あれっ?」  一瞬、奥の鏡像の一枚だけに、ぼくとは逆にドアの方に向かう人影がよぎったような気がした。ぼくは、足を止めて、それより奥、つまり過去が映っているはずの部分を確認するけれど、その人影は、まるで鏡像と鏡像の間をすり抜けたように、奥の鏡にはいない。

「ぼく」は気のせいだと納得しようとするが、その違和感は余韻のようにあとを引く。
 月の合わせ鏡は、現代美術展で入賞する。それを両親に報告すると、母は「あなたは小学生のころから絵が得意だった。市内のコンクールで二回入賞した」と言う。しかし、「ぼく」はまったくそのことを覚えていない。それは本当に自分の過去か、と訝しむ。母は、いま美術展で入賞するするのだから、子どものころも絵が得意だったと、因果を逆にして思いこんでいるのではないか?
 人間は忘れるものだから、記憶が作り替えられることだってあるだろう。では、コンピュータはどうか? 「ぼく」は合わせ鏡のプログラムをつくるとき、記憶領域がオーバーフローしないように不要になった鏡像データを消すルーチンを組みこもうとした、しかし、南雲助教から借りた有機素子コンピュータにはデータ消去のコマンドがない。南雲はこともなげに「もう三年間、このコンピュータを使っているけれど、ストレージがオーバーフローする不具合など一回もないよ」という。
 このあたりから有機素子コンピュータの特異性がうっすらと浮きあがっていく。まず、由来がよくわからない。1990年代に、ある研究室で構築されたのち、使い道がなく大学に払い下げられたらしい。使われなくなった最大の理由は、演算をおこなうプロセッサと、データを記録するストレージが明確に分かれておらず、あるプログラムに同じデータを入力しても、得られる解に「ぶれ」が生じることだ。
 ちなみに、早瀬さんのデビュー作『グリフォンズ・ガーデン』も、この有機素子コンピュータを重要なギミックとして用いていた。本書の解説で渡辺英樹さんが指摘しているように、『グリフォンズ・ガーデン』と『プラネタリウムの外側』はテーマの点でも共通するところがある。『グリフォンズ・ガーデン』もつい先ごろ文庫化された。本書と併せて読むとより面白さが増すだろう。
「月の合わせ鏡」は、「過去から現在」という線的な因果論を超えて、人間の記憶とデータ的な記録の違いにふれる作品だが、第四篇の「忘却のワクチン」はそこから一歩進んで----あるいは大きく飛躍して?----、記録を徹底的に消去することによって記憶すら書き換える大胆なアイデアが試される。
 この作品も、また違う「ぼく」が語り手だ。高校時代につきあっていた香織のために、ネットにバラまかれた彼女のポルノ画像を消す手段を求め、「ぼく」は南雲研究室の戸を叩く。もちろん、いったんネットに流出した画像を完全に消し去るなど、常識的には不可能だ。タイムマシンで過去を変えでもしないかぎり。
 興味深いのは、方法を模索する南雲の相談相手が、有機素子コンピュータ上の会話プログラム「ナチュラル」だということだ。ナチュラルは、南雲のかつての共同研究者----つまり第一篇「有機素子ブレードの中」の第二の語り手「ぼく」----を模して構成されている。
 南雲とナチュラルとの関係はどこか危うい。いっぽうで、「ぼく」と香織との関係もぎくしゃくしている。彼らは大学附属植物園で再会するのだが、香織は高校時代の恋人関係が終わったのは「ぼく」が香織を振ったからだと言う。「ぼく」の意識では、振ったのは香織のほうなのに。
『プラネタリウムの外側』を通じて流れるのは、大切な存在を手放す喪失感と覚悟である。物理的に失うだけではなく、その存在についての記憶すら失ってしまい、「失われた手ざわり」だけかすかに残る。新海誠監督の劇場アニメ『君の名は。』でもその境地が描かれていたけれど、良い感じの結末でまとめてしまった。早瀬作品は、ずっとシビアで儚い。
(牧眞司)

あなたにおすすめ

すべての人にインターネット
関連サービス