歴代RX-7の開発秘話! ロータリーひと筋を貫き通したサムライ開発者が語り尽くす【マツダのレジェンドに学ぶ・第2回】

clicccar

2018/4/12 20:13


山口京一さんの、山本健一さんの足跡をたどるコーナーが駆け足で終わったあとは、御一方ずつのトークが始まりました。まずおひとりめは小早川隆治さんです。

大学三年のときにちょうど、前述のNSU、ヴァンケル研究所、マツダとのロータリー開発のニュースを知った小早川さんは衝撃を受け「ここしかない!」と東洋工業(現マツダ)への入社を決めたそうです。新幹線のなかった当時、東京出身の小早川さんは特急あさかぜで12時間かけ広島へ向かったそうです。そして念願かなって1963年に入社後、ロータリーエンジン研究部に配属されました。

プロジェクトXなどで話題となった「ロータリー四十七士」のつぎの世代にあたるそうです。

当時は、社長であった松田恒次さんの情熱、そして山本健一さんのリーダーシップが、当時のマツダを牽引していたといいます。

実験の部署につとめながら、ロータリーエンジンの改良にいそしむ日々を送ります。

「悪魔の爪痕」としてのちに語られるローターハウジングへのダメージ、そして「カチカチ山」と例えられた排気管からもうもうとあがる煙、「電気あんま」と呼ばれる振動。当時のロータリーに起こりうるさまざまな困難を技術で乗り越えていきました。なかでも、カーボンアペックスシールの開発は、気の遠くなるほどの試験を繰り返しました。

市販ロータリーを搭載したのがコスモスポーツという大英断は、いまでも心に残っているそうです。

1968年、ロータリーの耐久・信頼性を公衆の面前で証明したいという思いで参戦したニュル84時間耐久レースのエンジンの開発も担当しました。

そして70年代、ロサンゼルスの光化学スモッグに由来する排ガス規制にも、サーマルリアクター方式を採用することで対応。

さらに逆風をものともせず、当時のマスキー法に挑戦します。厳しい同法をクリアしたのは当時、ベンツのディーゼル、ホンダのCVCC、そしてロータリーの3つしかなかったそうです。

同時に北米の本格展開が始まります。1970年にはわずか2098台だった販売台数が、翌71年には2万台超、72年には6万台に迫り、73年には11万台を超えたそうです。

しかし、73年に起こった第一次オイルショックと偏向報道の影響を受け販売台数は急落、赤字へと転落してしまいます。

その偏向報道の真相と打開策についても、小早川さんの口から動画にて語られています。

どん底を打開するためにもロータリーの信頼性を上げるために、デスバレーや、富士山よりも標高の高いロッキー山脈で幾度も幾度もテストを重ねたそうです。

そして日本に帰国後は、初代RX-7の開発に携わることになります。「アフォーダブル(求めやすい価格)のスポーツカーは大きなポテンシャルがある」という未来に光明を見出そうと、当時の住友銀行のサポートのものと開発を進めたそうです。

アメリカでどん底に落ちたイメージを回復させるため、故ポール・フレールさんにマツダの動的評価をお願いするなど、現在の「Zoom-Zoom」に通じる礎を築きました。

そしてまた、2代目RX-7の開発をつとめるためまた帰国します。「アンフィニ」シリーズの4車種や、カブリオレを手掛けました。苦労したのはカブリオレで、クローズドクーぺの屋根を切るとここまで剛性が落ちるのか、と驚嘆しながら何とかリカバーしたそうです。

その後、マツダは5チャンネル政策へ向け飛躍の準備に入ります。小早川さんも「アンフィニ店のイメージリーダーカー」を作るべく、商品プラン・企画設計・デザインの各部門が三位一体になる方法はないだろうかと模索します。そして生まれたのがキーワードを列記した「アンフィニRX-7 開発の志」(こころざし)です。

まだFD型RX-7のカタチもないうちから共有されたその概念は、いま見ても心に迫るものがあります。

そして軽量化への執念を培うため、開発者10名を率いてゼロ戦の実機を何度も見学に行ったそうです。会場にはその残骸も回覧され、手にした来場者も不思議な感動を覚えていました。

当時、貴島さんにもタスクフォースのリーダーになってもらい挑んだ「ゼロ作戦」では、どうやったら1グラムでも軽量化できるのか、を6度も繰り返すことで、当初の計画より100kg以上も軽くすることができたそうです。

どうやったらもっと運動性能を高められるか、の答えをレーシングカートからロールスロイスまであらゆるクルマに乗ったそうです。名門ジムラッセル・レーシングスクールにも上司に無断でスタッフを通わせることができたほど、時代のゆるさも後押ししています。

小早川さんはモータースポーツの責任者も兼任していました。60年代末のスパ24時間参戦に続いて、ル・マン参戦は70年から参戦、73年の決勝リタイヤなどほろ苦い戦歴が続きます。80年でやっと完走できたものの、転機は89年の4ローター車の完走から。「来期に100馬力上げる」という決意で挑んだ90年に小早川さんが責任者になりますが、惨敗してしまいます。

本来、この年で撤退する予定が、勝利の女神がほほ笑んでくれました。あと1年参戦できることになったのです。その輝かしいエンディングと勝つためにとった戦略の詳細は動画をじっくりとご覧になってみてださい。



(Kaizee)

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