ワイドショーには映らない──渦中の水道橋博士が語った竹中英太郎と「労」、そしてルポライターへの狂疾

日刊サイゾー

2018/4/12 14:00


 4月8日、2時間半あまりの時間をかけてたどり着いた山梨県立文学館で、ぼくの目に最初にとびこんできたのは、壇上にいる、猟犬のような目をした一人の男であった。

「竹中英太郎没後30年 『竹中英太郎と労』父子を偲ぶトークのつどい」

戦前、江戸川乱歩や横溝正史らの名だたる作品を手がけ、多くの模倣者を生み出した挿絵画家の大家。そして、ルポライターの元祖。その父と息子を偲ぶ催し。思い出を語り懐かしむ中で、求められるのは、先達たちの思いと行動を、自分がどう理解し、取り込み、自らの行動に生かしていくかに尽きると、ぼくは思っているのだ。

英太郎のように、労のように生き、自らの作品を生み出したい。客席には、そんな想いで会場へとはせ参じた人たち。ぼく以外にも、みんなそう。そして、その一人が、壇上にいた。

いま、事務所の騒動をめぐりスポーツ紙とワイドショーを賑わす男・水道橋博士である。

イベントの始まりは、大工哲弘の島唄から。竹中労との思い出を語りながらの歌の時間。

水道橋は、東京から追いかけてきたマスコミ対応に追われて、その貴重な時間を堪能することができなかったと、後から聞いた。

そして、トークの時間。登壇者をひとりずつ紹介する司会の金子望(湯村の杜竹中英太郎記念館主宰)は、水道橋の番になると、まったく遠慮することもなく、こう切り出したのだ。

「いま話題の、水道橋博士さんです」

ドッと笑いに包まれる客席。でも、次の水道橋の一言で聴衆は、キリッとして視線を集中させた。

「今日はなんでも質問に応えます……いま、リアル風雲たけし城をやっている……」

そう語る水道橋の目は、明らかに獲物を狙う猟犬の目。都会のジャングルに潜む、ルポライターのまなざしであった。

水道橋が竹中労を語る姿を見るのは、これが2回目。前回は、2016年10月。やはり甲府で開かれた「竹中労没後25年今ふたたび『戒厳令の夜』特別上映会と労を偲ぶトークのつどい」の時である。

その時、水道橋は今回も同じく登壇した樹木希林から「竹中労を語るならば、心酔してやまない人物を加えたほうが盛り上がるだろう」と連絡を受け、奇跡的に、その時間だけスケジュールが空いていた幸運に恵まれ、駆けつけたのだった。

水道橋の十代からの竹中労への心酔は、これまで水道橋自身が機会があるたびに語っている。その時は、こう語っていた。

「自分もルポライターになりたかった。でも、コミュニケーションが苦手だから、いろんな人と取材で関わるルポライターになれないと思った。だから芸人になったんですが……自分は芸能界に潜入しているルポライターのつもりで、今でもやっていますよ」

それまでも、水道橋は幾度か自分のことを「芸能界に潜入しているルポライター」と称していた。でも、この時の立ち振る舞いは、まだ「芸能人」の側にいるように見えた。

というのも、この催しの翌日、ふと竹中労をTwitterで検索した時に見つけた、水道橋のツイート。そこで写真に写る彼は、トークや打ち上げでは見せることのなかった、いつもテレビで見せる芸能人らしい表情でフレームに収まっていた。

それから1年半余りが過ぎ、そんな表情の名残は欠片もなくなっていた。そのまなざしは、文字通り「芸能界に潜入しているルポライター」になっているように見えた。

そのきっかけが、一連の事務所の騒動なのか。あるいは、そうでないのかはわからない。

そもそも、いま、スポーツ紙やワイドショーを賑わしている騒動が、どれほど重大なものなのか。ぼくには、よくわからない。

でも、これだけはわかる。

竹中労が作品に刻んだ情熱は、世間の濁流に呑み込まれずに、何者かになろうと抗う人を心酔させ、追いつき、越したくなる目標として、永遠に色あせないということ、である。

そして、すでに作品を読んだことのある人は、竹中労の情熱は、父・英太郎から受け継がれたものであることを知る。竹中労の作品にしばしば登場する父子の情熱。その中でも、ぼくが何度も読み返す一節がある。

* * *

ひばりと「部落」の関係を書いたことで、私はさまざまな誤解をうけなければならなかった。まるで私自身が美空ひばりをダシにして、差別を強調したように、いろいろ言われた。私事にわたるが、私の父親は、その青春期に「水平社」の宣言を読んで感動し、熊本県のある「未解放部落」にとびこんだ経歴をもつ。そのとき、私の父親は十七歳であった。

その熱い血は、いま、私の体内に流れている。一昨年、父親は私の羽織の裏に、「せめて自らに恥じなく眠れ」と書いてくれて、穢多と署名してくれた。私はエタという二字を、差別とたたかい、人間に真に人間として解放する運動に一生をかける義務を、羽織の裏地に文字どおり背に負うている。
(初出:「週刊明星」1969年3月9日号 集英社『芸能界をあばく』1970年日新報道所収)

* * *

いま、水道橋は、羽織に刻まれた文字と同じものを、背に負うている。ぼくが「今の状況を受けて、これからどういうものを書いていくのか」と、問うた時に水道橋は、よどむことなく、こう話したのだ。

「芸能を愛でて、まつりごとをからかうこと。そこに、恥じることありません……なぜなら、自分は権力に従うことなどできないから……」

それから、一呼吸。

「そういったことが、読者に伝わるものを書きたい。自分は55歳になったけど、もう伸びるとは思えないなんて、あり得ないと信じているから……」

竹中労の絶筆となった「ダカーポ」1991年6月19日号(マガジンハウス)に掲載された連載「実戦ルポライター入門」。

死の直前まで、竹中労は取材し、書くことをやめなかった。

* * *

余命おそらく三~四ヶ月。

そして六日沖縄へ。ぼくにはもう、残された時間がない。
(「決定版ルポライター事始」1999年ちくま文庫所収)

* * *

ぼくも、いつの間にかそう思うようになっていたのだが「ルポライター」とは、単なる書くことで、いくばくかの金銭を得る職業ではない。インターネットで、手軽に知識を得る手段として用いられるウィキペディアには、ルポライターという項目はない。

一方ルポルタージュの項目を見ると「取材記者、ジャーナリスト等が、自ら現地に赴いて取材した内容を放送・新聞・雑誌などの各種メディアでニュースとして報告すること」
だとか「事件や社会問題などを題材に、綿密な取材を通して事実を客観的に叙述する文学の一ジャンル」という簡潔明瞭なことが書かれている。そして、ルポライターとは、そうしたものを書く人のことだという。

でも、竹中労の情熱を継ぎ、いつかは追い越したいと思っているぼくたちに、この説明は、まったくといってよいほどそぐわない。ルポライターというのは、何か自分でも説明がつかないようなものに突き動かされて、現場に足を運んでしまう、どうしようもない生き方のことをいうのだと思う。

竹中労がルポライターを名乗るよりも、ずっと以前。その父・英太郎は挿絵画家として、あちこちにひっぱりだことなり、現在の貨幣価値にして2億円、3億円もの稼ぎを得た。でも、英太郎は、大家としての地位を服を着替えるように脱ぎ捨てて、満州へと渡り、再び挿絵を描くことはなかった。戦後、竹中労の著作の表紙のために、再び絵筆をとるまでは。

今回の催しを司会した英太郎の娘婿の金子から、こんなことを聞いた。

「挿絵画家のことも、水平社のことも、こちらが尋ねても話すことはなかった……それが、英太郎のダンディズムだったのだろうと思ってる……」

それを聞いて、改めて気づいた。ルポライターという生き方は、竹中労だけでなく、英太郎と共に築かれたものであること。ぼくらは、その血脈を受け継いでいることを。

催しの翌日、甲府に一泊したぼくは、改めて竹中英太郎記念館を訪ねた。

初めて訪問してから、もう5年あまり。英太郎の娘であり、労の妹である館長の竹中紫は、いつも嬉しそうに歓迎してくれる。

「明日で、いよいよ開館15周年なんですよ」

紫にとっては、ただただ優しい肉親だった、父と兄。その生き様に感銘を受けて、記念館を訪れる人は絶えることがない。だから、ずっと記念館は続いている。そして、ぼくは、ここに来るたびに、自分の日々の取材と執筆と、生き様のことを振り返り、またルポルタージュを書きたい気持ちになるのだ。

今度の帰り道、腰に下げたコンパクトデジタルカメラを取り出して、記録した写真を眺めた。その中に、催しの後に山梨県立文学館の玄関で、記者から取材を受けている水道橋の一葉があった。ルポライターの生き様そのものの、猟犬のような目をした水道橋に対峙するテレビ記者は、どこか怯えた小動物のような目をしていた。

後日、水道橋を追いかけてきたワイドショーやスポーツ紙が報じたものを見た。どこも、水道橋のわずかなコメントを紹介するだけで、催しの中で語ったルポライターへの情熱を紹介したものはなかった。

当然、催しの詳細など語られることもなく「甲府市内で行われたトークイベント」とだけ。事情を知らない人が読めば「お笑いのイベントでもあったのだろうか」と誤解するような書きざまだった。

東京から水道橋を追ってきた記者たちが、壇上での水道橋の言葉を聞いていたかどうかは知らない。竹中労や英太郎のことに、なんらかの知識や興味があるのかも、わからない。

ただ、もし彼らが竹中労と英太郎のことを知っていたとしたら。そして、水道橋の言葉を聞いていたとしたら……あの、テレビ記者の小動物のようなまなざしの意味は、よく理解できる。

彼らは、確かに怯えていたのだ。たとえ<バクロ屋>と非難され、蔑みの意味で<ルポライター>と嘲笑されても、最下層から芸能界の不条理を、容赦なく追求し続けた情熱に。
そして、水道橋がその生き様に覚悟を決めたことを、どこか感じていたのだ。それは、お仕着せの
 コメントを集めて、記事に仕立てるルーティーンを繰り返す、自分たちの存在理由を揺るがすものに、ほかならない。

いま、まさに時代は、書き手本人が、現場に足を運び取材して書くことに回帰しようとしている。そこで求められるのは、ルポライターの情念。そこに、魅せられることに、怯えている人も、まだ多いのだ。

いま、自分が手を付けているテーマのことを頭に思い浮かべて、一刻も早く、書き始めたくなった。ぼくは、思わずネクタイを締め直した。
(文=昼間たかし)

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