【自由の森学園】入試以外はテストなし!「自由な教育」の本当の意味とは【校長インタビュー】

ウレぴあ総研

2018/3/10 10:30

管理教育や点数主義に疑問を感じた熱き教育者たちが、1985年に立ち上げた埼玉・飯能にある「自由の森学園」。

中高一貫で、テストは入試の時だけ。合唱や制作活動が盛んで、最近ではクリエイティブな職業に就く卒業生が多いことでも知られています。

ともすれば、「自由」の一言で片づけられてしまいがちなその校風ですが、自由な教育とは、具体的にどんな教育を意味するのでしょうか。

校長室にいるより生徒たちがひっきりなしにやって来る職員室にいる方が好きという、中学校の中野裕校長先生にお話を伺ってきました。

■“楽しく勉強してる”って言うと、ふざけてるんじゃないかと思う人もいる

――今朝、ラジオで、「国は競争させることで研究が活性化すると思っているが、実態はそうではなくて、競争があるためにデータを改ざんする研究者も出てくる」といったことを聞きました。今日、お聞きしたいと思っている自由な教育の話にもつながるのではないかと思いました。

「自由な教育」というと、世間一般で考えられていることとはまったく逆のような印象を抱く人も多いと思います。

たとえば学内の行事にしても、前回、自由の森の卒業生の田中馨さんと松本野々歩さんにお話をうかがった時に聞いて驚いたのが、積極的に参加する子と、あまり集団にはなじまない子が普通に共存できていた、というお話です。

一般の学校だと、どうしても積極的に参加している方が、そうでない方の子を責めたり、無理に参加させようとしたりしがちですよね。それって、積極的に参加している方も、実はやりたくてやっているわけではないからではないかと思うんです。自分たちだって我慢してやっているんだから、やらないのはずるい、みたいな。

中野校長(以下、中野)「そうですねぇ。安っぽい平等性とか公平性みたいのがあるのでしょうか。自分とかみんなが我慢してやっていることを“しない人”に、頭に来ちゃう人は多いと思いますね。

それと、“楽しく勉強してる”って言うと、ふざけてるんじゃないかと思う人もいるのではないでしょうか。よい結果を得るにはそれなりの苦しみが伴うのは当然だと。ところが、ここの子どもたちは苦しむものとして“学ぶこと”をとらえていないんです。本当に苦しむのは、自分自身でその“学び”を評価するときなんです」

■通知表の代わりは“自己評価”を文章で書くこと

――いわゆる5段階評価ではなく、自己評価が通知表に代わるものと聞いていますが、どんなものなのでしょうか。

中野「通知表というのはその名の通りで、通知されるものです。自由の森で行っているのは、『学習の記録』といって、半年間もしくは一年、どんなことを学んできたか、自分の変化を文章で書くものです。

学ぶと、びっくりしたり、自分の価値観が変わったりすることが必ずあるんですよね。どういう風にびっくりしたか、今まで信じていたものが変わったことで、どのように自分が変わったか、などを文章で書くんです。

これが結構大変なんです。中1の男の子は“おもしろかった、おわり”みたいな感じで終わっちゃったり。そういう子たちが、ここの学校でいろいろな経験やさまざまなことに出会っていくと、書くことが増えていくんです。

高3くらいになると、こちらが返事を書くのに窮するくらいの深い自己評価の文章を書いてきたり、間に合わないから締め切りを延ばしてくれと言いに来たりすることもあるんです。

中1の子が書けないっていうのは、書く材料が蓄積されていなかったり、あるいはそもそも“自分のことを書く”というやり方がわからなかったりするんです。

しかし、学年が上がるにつれて書きたいことはありすぎるくらいいっぱいあるんだけど、どれを選んだらいいのか自分で決めなくてはいけなくなってきます。これがすごく苦しい作業なんですね。」

■“テストに出るから覚えておきなさい“っていう言葉はそもそも存在しない

――自分の言葉で、自分を振り返って書くということは、あまりしないですよね。

中野「だいたいテストというのは、外側から検査されるものです。その結果、あなたは合格ですとか、ここが足りませんよって指摘されるものですが、自己評価というのは自分自身で、自分の強みや足らないところを、自分の文章で認識するものなんです。自分自身を評価するのと、誰かに評価されるのとでは、まったく評価の質が違います」

――自分に甘くなることはないのでしょうか。

中野「極端に言えば、嘘をついてもいいんですよ。あんまりがんばってなくても“すごくがんばった”って書くこともできる。

そういう時はこっちも、“本当にそう?”って突っ込んだりはしますが、嘘を書く子はあまりいませんね」

――嘘を書く必要がないんでしょうね。

中野「そうなんですよ。他人と比較することの意味のなさがベースにあるんですね。点数がつくと、どうしても比べてしまうんですよね。そうすると、学んだことの質が変わってきてしまう。

ここの子たちは、知ることがおもしろいから勉強するんです。“テストに出るから覚えておきなさい“っていう言葉はそもそも存在しないんです。

この学校にはいわゆる定期テストのようなものがありませんから」

――なるほど。他人に評価されないということは、評価とは無縁ということではなく、とことん自分と向き合わなくてはならないということなのですね。

■3年間クラス替えはしないので、同じメンバーで過ごす

中野「よその中学校では、受験が終わると授業が成立しないなんて話も聞いたことがあります。が、自由の森の場合、卒業が近づけば近づくほど濃くなっていって、“終わりをどうつくるか”ということを、ひとり一人がよく考えているなあと思います。

中3でもそうです。びっくりするのが、中学の卒業式で泣く子がいるんです。

だって、春になったらまた同じ学校に来るんですよ。中には号泣する子もいて。高校の担任をしていたときには不思議に思っていたのですが、中学の担任を経験してわかりました。

自分たちの3年間が、ひとつのかたまりとしてあるんです。すごく濃い時間を過ごしているんですよね。3年間クラス替えはしないので、同じメンバーで過ごすんです」

――相手に自分のことをわかってもらいたいがために、つい手が出てしまう生徒もいるのでしょうか。

中野「それはいますよ。些細なことでケンカになることもあります。ですが、ケンカなどのトラブルがあった場合、本人から言ってくることもありますし、本人たちが内緒にしていても、まわりの子たちが教えてくれるので、何かが起きたときはわりと早くにわかります。

中1の時、本当にそりが合わなくてけんかばかりしていた生徒同士が、時間が経つにつれて相手のことを理解しようとするようになるんです。

自分のことわかってよって言うだけじゃダメだってことに気がつくんですね。

自分の足りなさに気づいたり、相手のいいところを見つけようとするし、ここにいると、そういうふうになってくるんですよね」

■一方的に教わるのではなく、生徒たちの気づきが授業の原動力

――話し合いをよくすると聞きました。すごく民主主義が実現できていると思ったのですが。

中野「まだまだ話し合いのやり方には課題があります。たとえば発言の多い子の意見が通ってしまって、黙っている子の意見は反映されないことだとか、そもそも話し合われている内容について関心を持とうとしない人を議論にどう巻き込むかとか、いろいろあります」

――でも単純な多数決などでは決めないんですよね?

中野「そうですね、多数決で決めるとしたら、学園祭のクラス企画とか音楽祭の曲決めとか、そういう時くらいかなぁ」

――私の感覚だと、普通の学校で話し合いをして何か決める時は多数決、という印象なのですが、多数決って、全く解決にならないことも多いですよね。絶対、負けた方にしこりが残りますし。

中野「49対51とかだと微妙ですよね。そういう場合はまだ議論が足りないんです」

――議論をする時間はたくさんあるということですか。

中野「議論をすることで生徒たちが“楽しかった”と感じるのは、自分とは別の他者がこんなふうに考えていたのか、ということに出会う場面のようです。

他者を知る、自分と別の考えや感覚に出会うことが、その人に衝撃を生み出すようにも思います」

――日本人は議論が下手と言われますが、そういった話し合いの場を重ねることで、ディベートする能力が培われるということもあるんでしょうか。

中野「ディベートする能力が培われるかはわかりませんが、自分の考えをはっきり述べる力は自然に育ちます。

授業の場面をひとつとっても授業者から一方的に教わるのではなく、生徒たちの考えや疑問、気づきが授業の原動力です。

それに、発言しない子は何もしていないわけではなくて、いろんな人の意見を吸収して聞いているんです。

だからいろんな人の発言から、いろいろなものが体の中に入っていくという経験は、日々していますね」

■「お互いを排除しないこと」が当たり前

――先ほど、学食で生徒さんたちの様子を見させていただきましたが、本当に個性豊かですよね。学生服を着ていると、学生とひとくくりにしてしまいがちですが、こちらの生徒さんは、もう大人と変わらないな、個として存在しているな、と感じました。

中野「そうですね。音楽祭などの行事は、みんなで頑張ることが好きな子は好きです。しかし、そうでない子も絶対にいるんですよ。ですが、何が双方に共通しているかっていうと、お互いを排除しないってことなんです。

私の子どもの頃はそれなりの自己中心性がありました。相性の合わない同級生のことを、“あいつさえいなければ”みたいに思ったり。しかし、この学校の子たちは学年が上がるにつれて、相手が同じ空間にいるってことが前提として、どういう関わり方をしていったらいいか、と考えるようになるんですよ」

――クラスメートなら、一緒にいるしかないですもんね。だったら、どうすれば自分も相手も快適でいられるか、それは頭を使いますよね。

中野「それはすぐに答えは出ないんですが、時間が経つと、みんなやわらかくなるんです」

――それまで公立に行っていた子たちが、いきなりここに入って、自由に戸惑う子もいるのではないでしょうか。

中野「それはありますね、自由に溺れてしまう子。どこまでやっていいのか、やってはいけないのか、わからないんですよ、きまりがないから。

だから、いろいろなものとのちょうどよい距離を、自分で試行錯誤しながら探さなければいけません。距離の取り方を間違えることで、友だちを傷つけてしまう子もいます」

――そういう時はどうするんですか?

中野「そういう時は必ず話をします。本人の事情や理由も聞いた上で、いったい何がいけなかったのかということを、話し合いの過程で“自分の課題”を確かめていきます。

入学してから夏休みまでの日常は、特にていねいに見ないといけません」

■「そう、びっくりするくらい優しいですよ、ここの子どもたちは」

――では春から夏にかけては、今まで自由を知らなかった子たちが自由を知ることによって起こる、いろいろなことの調整の時期、という感じなのでしょうか。

中野「そうですね。ただその年によって、まったくトラブルの起こらない学年もあったりして…必ず春はなにかしらトラブルが起こるものなんですが、ある学年は、何も起こらなくて、逆に心配になるくらいでした。

ですが、得てしていろんなことを乗り越えてきた子どもたちの方が、集団として育っているという気はしますね。おとなしいと、おとなしい方法を身につけてしまって、何もしなければ何も起こらないだろうみたいな風になっちゃうんですね。

何もしない方が、自分の意見は出さない方が、というやり方が身についてしまうと、この学校を楽しみ切れないんじゃないかな、と思います」

――逆に楽しむには、どういうあり方が望ましいのでしょうか?

中野「早いうちに自分の心を解放することでしょうね。本性を出すとぶつかりますから、ぶつかりあう中で、自分のまずさに気がつくんです。

何もトラブルがないと、そういう気づきがあまり生まれないんですよね」

――「集団として育つ」といわれたのが新鮮でした。普通の学校だと、管理するためには集団を使いますが、その実、数字で競争させたりするのって、極端にいえば「自分さえよければ」というマインドになりがちだと思います。

こちらの学園では、クラスが一つの生命体のような感じで、誰かに問題が生じると、他の子が放っておかない力が自然と作用する、ということでしょうか?

中野「最初、自分のことばかり気にしていた子たちが、だんだんクラスのあり方まで考えるようになったりして。“クラスをよくしたい”って子も出てきます。

どういうふうによくしたいのかって訊くと、みんなが安心していられる空間をつくりたいだとか、誰にとっても居場所がちゃんとあるような、なんて言うんです」

――へえー、優しいですよね。

中野「そう、びっくりするくらい優しいですよ、ここの子どもたちは」

■うちの学校では“先生”と呼ぶ習慣がない

――やっぱり人って、優しくされるから優しくできるっていうところがありますよね。現代の大人は抑圧されすぎているから、たとえば大の大人が駅でケンカになったりしますよね。ここだと、抑圧がないから余裕があって、人にも優しくできるんでしょうか。

中野「そうですね。ただ、それはこういうプログラムをやっているからこうなるっていうのはあまりなくて、この学校っていう場に身を置いておくと、自然にそうなっていくっていうのが正直なところなんです」

――今日、伺ったときに、すごくいい空間だなと思いました。山に囲まれた一帯で、静かですし。

中野「学校を取り巻く自然環境、緑の景色もそっくりそのままいただいて、ここにいる子たちは育っていくんでしょうね」

――学食でも思いましたが、みんなリラックスした、いい顔をしていますよね。

中野「そうですね。人なつっこいというか、人に対する警戒心があまりない」

――先生に対しても対等だと聞きました。

中野「私、呼び捨てで呼ばれていますから」

――へえ!

中野「うちの学校では“先生”と呼ぶ習慣がありません。○○さんとかあだ名で呼ばれています。入ったばかりの子は、最初、私のことを校長先生とか呼ぶ子もいるんです。私はそれが嫌で、呼び捨てでいいよって言うと、え?って顔をします。“そんなことできません”と言う子もいます。

これは極端な例ですが、“できません”を通して、その子が縛られてきたもの、自分で自分を縛ってきたものを、ほどきたくなってくるんです」

――先生方もユニークな面々が多いのでしょうか(笑) 授業の進め方も、教科書中心でなく、独自な展開をするとお聞きしました。中野先生にとってはそれが大変というより、楽しいのかな、と思ったのですが。

中野「そうなんですよ! よその学校の校長は授業をしないようですが、やらないと子どもが見えなくなってしまうし、授業をどうやって作っていくかってことを毎日考えると、楽しいんですよねえ…生徒たちの顔が浮かぶんですよね、こういう質問したらこの子はきっとこう答えるんだろうな、とか」

――校長先生も担当科目を持っているのですね。こんなに目のキラキラした大人の方とお会いするのは久しぶりでした。今日はどうもありがとうございました!

■自由の森学園での“自由”とは

この後、中野校長先生に校内を案内してもらったのですが、行く先々で、生徒たちが「よっ」という感じで中野校長先生と挨拶を交わしていたのが、とても印象的でした。

学校のいたるところに生徒たちの作品があふれています。それは、壁画だったり、ツリーハウスだったり、一枚板の教卓だったり、さまざま。ツリーハウスは、生徒たちが言い出して数日間で完成したのだとか。

その過程を聞いて思ったことは、自由とやりたい放題は違うということ。

生徒たちは、やりたいことができると、まずそれを実現するのには何が必要か、誰の協力と理解が必要かを考え、行動します。その結果、やりたいことができるわけです。

自由の森学園での“自由”とは、「自由であるためにどうするかを自分で決められる権利」なのだと思いました。

そういう意味では、筆者も含め、一般の学校教育しか知らない人たちは、自由の本当の意味を知らないのかもしれない、と思わされました。

きまりがないということは、自分たちできまりを作っていかなくてはいけないということ。その「自分たち」の中には、いろいろな個性があり、そのどれも排除はしない。

大人でも難しいことを、自由の森学園では十代のうちに自然に学んでいくのですね。

【取材協力】

中野裕(自由の森学園 中学校校長)

自由の森学園の卒業(2期生)。在校時は音楽(ピアノ)にどっぷり浸かっていて先々もと考えていたが、やりたい表現と学ぶ場とがつながらず、断念。もともと好きだった数学の方に進む。数学系の大学・大学院で「代数学」を学ぶ中で、いろいろな数学観や教育観が自分の中につくられていく。

たまたまやってきた自由の森学園での非常勤講師となる機会を得、96年から授業をする立場で関わりが始まる。00年度に初めて高校の担任(16期生)、03年度に2回目の担任(19期)、06年度から中学の副担任・担任を経、09年度から現職。数学の授業をしながら、素人音楽で中高生たちと遊ぶ。

自分自身がそういえば時間のかかる育ち方をしてきたなぁという経験から、「人が育つにはそれなりの時間がかかるものだ」という実感を持っている。

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