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2つの大乱で室町幕府が弱体化! 『享徳の乱』と『応仁の乱』

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皆さんは室町幕府と聞いた時にどんなイメージを持たれるだろうか? 金閣寺や東山文化などを思い浮かべる人も多いだろう。しかし、平和だった時期はとても短く、とにかく争いが絶えなかったのだ。東日本では『享徳の乱』西日本では『応仁の乱』と、全国的に争いが続く。今回は室町幕府弱体化の大きな原因となったこの2つの大乱について簡単に紹介したいと思う。

関東が先に戦国化! 約30年も続いた『享徳の乱』

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長尾景仲
山内上杉家の家宰。数代の山内上杉当主を補佐し、永享の乱、結城合戦でも活躍。足利成氏の横暴に太田道真と共に抗い、享徳の乱のきっかけとなる。上杉憲忠が殺されると、成氏と分倍河原で戦うも敗れる。

足利成氏
第5代鎌倉公方。永享の乱で敗死した足利持氏の子。関東管領の上杉憲忠と対立して、これを殺害し、享徳の乱に発展する。鎌倉を奪われて後は、古河を拠点とし、古河公方と呼ばれた。以後、30年近くに渡って関東を争う。

15世紀、室町幕府中期にさしかかった頃、京都から離れた関東では幕府からの分離気質が高まる。そのような中、将軍・足利義教が強権を振りかざし、鎌倉府を滅ぼし、関東をも抑え込む形となった。しかし、その義教が嘉吉の乱で殺されると、鎌倉府を再興し、関東を安定させようという機運が生まれる。こうして、新しく鎌倉公方となったのが、足利持氏の遺児である足利成氏。これに対し、関東管領となったのは、上杉憲実の子、上杉憲忠だ。互いに父同士が永享の乱で殺し合った間柄であり、確執はすぐに表面化する。

この対立に動いたのが、上杉家の重鎮たちだった。山内上杉家宰である長尾景仲、扇谷上杉の太田道真がその中心であり、成氏方勢力への軍事行動にも及ぶ。だが、先に荒業に出たのは成氏側だ。1455(享徳3年、上杉憲忠を公方御所に招くと見せて殺害したのだ。さらに、武蔵に出陣し、上野の上杉領の制圧にかかる成氏。この軍に対し、長尾景仲らは攻撃を加えるが、分倍河原の合戦で敗北してしまう。

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享徳の乱序盤の関東
成氏方優位で運んだ序盤だったが、景仲らが要請していた幕府軍が到来し、拠点の鎌倉を駿河の今川範忠に奪われてしまう。成氏は自身の味方である結城や宇都宮の所領に近い下総、渡良瀬川沿いの古河に入る。以後、成氏はここを拠点としたため、古河公方という。

当時の将軍は、足利義教の子である足利義政。彼から見れば、関東が分裂し、一部が独立してしまった状態だ。放っておくわけにもいかず、異母兄の足利政知を新しい公方として関東へ送る。だが、反幕府の気風が根強い関東では支持を得ることができない。鎌倉へは入れず、伊豆の堀越を拠点にすることになったため、堀越公方と呼ばれ、関東には二人の公方が立つことになった。

結局、古河公方とその味方の結城や宇都宮、対する山内、扇谷の両上杉とその家老の長尾、太田などが絡み、諸勢力が戦国大名化していくのだ。

大混乱の日本列島! 西では『応仁の乱』開始

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【東軍】
赤松政則
嘉吉の乱で将軍を殺害したため、赤松家は滅亡していた。しかし、細川勝元の後ろ盾で赤松政則を主に加賀半国の守護として再興される。応仁の乱では旧領を奪還する。

細川勝元
管領として幕政を担当していたが、赤松家の再興問題で山名宗全と利害が分かれ、以降、宗全と対立する。畠山家の相続争いでは畠山政長を支持。応仁の乱に発展する。

【西軍】
大内政弘
周防、長門に加え、九州北部にも勢力を誇った有力守護。西軍は大内軍の上洛で盛り返し、以後は西軍の中心人物となる。政弘が所領安堵を条件に周防へ戻り、乱は終結する。

山名宗全
細川勝元は娘婿であり、関係も良好だったが、赤松家の再興問題で対立。畠山家の争いでは畠山義就を支持し、上御霊社の戦いでも、義就に援軍を派遣した。

複数の乱を重ねて、鎌倉公方と上杉家の勢力に分かれた関東だが、京では守護たちの権力争いに加え、斯波家、畠山家などの相続争いが問題となった。1450年代以降、家督を争って軍事衝突を繰り返していた、畠山義就、畠山政長が京に入ると、ついに将軍御所に近い上御霊社で戦端が開かれる。1467(応仁元)年、応仁の乱の勃発だ。事態を畠山家の私闘に収めたかった将軍だが、畠山義就側に山名宗全や斯波義廉らが味方すると、政長側には細川勝元や斯波義敏、赤松政則がつき、守護たちを二分して争うようになる。

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京を焼き尽くし全国に波及した乱
序盤は細川勝元らが将軍御所を確保し、上皇、天皇らも自陣に取り込み、権威の上で優位に立つ。正統性で劣る山名宗全らは、御所西側の山名邸を拠点に争う。このため、細川方が東軍、山名側が西軍とされ、互いの京の屋敷を焼き合うような戦となった。

ここで、西軍は周防・長門の雄、大内政弘の大軍を上洛させる。戦力的優位を得た西軍は東軍側を御所近辺に封じ込め、ついに最大の激戦、相国寺の戦いに至る。京の中心部を灰燼に帰すほどの戦となったが勝敗はつかず、以後、京の戦況は膠着する。このころより、戦闘は各守護の領国へ波及し、斯波義廉の家臣、朝倉孝景が下克上して東軍へ寝返り、越前で守護化するなど、戦国的様相に変化してゆくのだ。

長い期間に渡って争われたこの2つの大乱により、幕府そして将軍の権威が弱まり、守護大名が力を付け、領国で独立し戦国大名化してゆく。室町幕府の崩壊はこうして進行してゆくことになるのだ。

●小和田 泰経(監修)
1972年東京都生まれ。歴史研究家、静岡英和学院大学講師。NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』に資料提供として参加。TV出演も多数。

(出典:『図解 室町幕府崩壊』、監修:小和田 泰経、CGイラスト:成瀬 京司、イラスト:あさい らんこ)

(ヤマダタケシ)

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