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ザ・シーク 時代を超越した“アラビアの怪人”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第15話>

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アラブ系、イスラム教徒、あるいはシーク=首長を名乗る悪役レスラーは数多く存在したが、リングネームに冠詞の“ザThe”がついたザ・シークはオリジナルのザ・シークだけだった。

両親はレバノンからの移民で、シーク(本名エド・ファーハット)は10人兄弟の9番めとしてアメリカで生まれたが、シーク自身は半世紀にわたって“シリア出身”を自称しつづけた。

プロレス史上、もっとも観客に嫌われ、恐れられたヒールであり、優秀なプロデューサーとしてその“憎悪”をビジネスにした。

アメリカのレスリング・ビジネスが地方分権システムだった時代の代表的なレスラー・プロモーターのひとりで、1949年にザ・シーク・オブ・アラビアの名でデビューした。

シークは、1950年代前半、毎週土曜夜のプライムタイムに全米中継されていたプロレス番組“レスリング・フロム・マリゴールド・ガーデン”(ドゥモン・ネットワーク)の花形スターだった。

キャリアも年齢もシークとちょうど同じくらいの“ドゥモン世代”のスーパースターにはバーン・ガニア、ディック・ザ・ブルーザー、ウィルバー・スナイダー、キワー・コワルスキー、ジョニー・バレンタインらがいた。

1964年に“レスリング・フロム・マリゴールド――”の番組プロデューサーで興行プロモーターでもあったジム・バーネットJim Barnett&ジョニー・ドイルJohnny Doyleからデトロイト周辺エリアのプロモート権を買いとり、新会社“ビッグ・タイム・レスリング”を設立した。

シークはテリトリーの看板スターであり英語が話せないアラブ人という設定のヒールだったため団体のオーナー社長としてのアイデンティティーが公表されることはなく、ミセス・シークことジョイス夫人の父親フランシス・フリーザーが“カムフラージュ社長”をつとめた。

“シーク一座”のプロレスは、ひじょうにシンプルだった。典型的なヒールのシークがUSヘビー級王者で、シークのチャンピオンベルトを狙ってベビーフェースのチャレンジャーが次から次へとデトロイトにやって来る。

シークが生涯保持したUS王座のルーツは、シカゴのフレッド・コーラー派の同名タイトル(1953年新設=初代王者はバーン・ガニア)で、1958年にアンジェロ・ポッフォ(“マッチョマン”ランディ・サベージの父親)がデトロイトに持ち込んだ。

タイトルマッチはレフェリー失神、シークの反則負けという結果に終わるパターンが多かったが、タイトルマッチ・ルールのためシークが王座防衛に成功。

リターン・マッチの定番パターンは、シークの反則攻撃に怒って暴走したベビーフェースが反則負けを喫するか、シークが凶器攻撃でフォール勝ち、あるいは場外乱闘から一瞬のカウントアウト勝ちをスコアするというものだった。

レフェリー2名起用、レフェリー3名起用というサイドストーリーを使いながら定番カードによる因縁ドラマを何カ月もひっぱりつづけた。

シークと試合をするということは、それがだれであっても大流血戦を意味していた。技らしい技はキャメルクラッチだけで、トレードマークの“火炎殺法”は年に数回のビッグショーのために温存された。

シークは凶器攻撃と場外乱闘だけの試合で隔週土曜のコボ・アリーナ定期戦(デトロイト)、隔週日曜のメープル・リーフ・ガーデン定期戦(カナダ・トロント)にコンスタントに1万人以上の観客を動員しつづけた。

ブルーノ・サンマルチノもアントニオ・ロッカも、ディック・ザ・ブルーザーもジョニー・バレンタインも、アンドレ・ザ・ジャイアントもジャック・ブリスコも、デトロイトとトロントではシークの凶器攻撃と“火炎殺法”のエジキになった。そういうプロレスが15年以上もくり返された。

トロントの大プロモーター、フランク・タニーFrank Tunneyはシークの観客動員力をビジネスとして高く評価した。

シークの本拠地ミシガン州とカナダ・オンタリオ州は国境をはさんで隣接しているため、シークと“シーク一座”は隔週ペースでデトロイトとトロントを往復した。

「レスラーだったらキャデラックに乗れ」と「レスラーは自動車で移動しろ」がシークの口ぐせだった。

凶器攻撃と場外乱闘だけのプロレスがどうしてそれほどの観客動員力を持っていたかというと、それはシークがほとんど絶対といっていいほどフォール負けを喫しないレスラーだったからだ。

観客はシークが完敗するシーンを待ち望んでいたが、どんなにビッグネームのスーパースターがやって来てもデトロイトではシークから3カウントを奪うことは“想定外”のできごとになっていた。

5年にいちどくらいのサイクルでシークがまれにフォール負けを許す相手は“宿命のライバル”ボボ・ブラジルだけで、シークとブラジルの因縁マッチは1990年代前半、ふたりが60代なかばに手が届くまでつづいた。

トロントではシークの“伝説の140連勝”という長編ドラマが観客の関心をひっぱりつづけた。

トロントでのシークの最大のライバルは、ベビーフェース・バージョンのタイガー・ジェット・シンだった。

デトロイトもトロントも1960年代から1970年代にかけてはNWA加盟テリトリーだったため、シーク対ドリー・ファンク・ジュニア、シーク対ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級選手権も何度かおこなわれた。しかし、シークは、世界チャンピオンのドリーにもレイスにもフォール負けを許さなかった。

シークの49年間におよぶ現役生活のなかでそのピークはどのあたりだったのかというと、やはりデトロイトを中心とする五大湖エリアが全米屈指の人気マーケットだった1965年から1977年あたりまでの10数年間ということになるのだろう。

20世紀を代表するもうひとりの大悪役、フレッド・ブラッシーがそうであったように、シークもまた40代で全盛期を迎えたレスラーだった。

シークとブラッシーの大きなちがいは、ブラッシーがおしゃべりのできるヒールであり、ときとしてベビーフェースよりも愛されたヒール像だったのに対し、シークはただのいちどもマイクに向かってしゃべることなく観客の憎悪をあおったことだった。

シークはアリーナのなかだけでなく、空港でもホテルでもレストランでも決して“素顔”をみせなかった。

1日24時間、どこにいてもヒールとしてのキャラクターを演じつづけるという哲学は、1970年代から1980年代にかけてはまな弟子であるアブドーラ・ザ・ブッチャー、T・J・シンのふたりに受け継がれていく。

インド系、パキスタン系人口が多いトロントではベビーフェースだったシンは、日本に来るときだけ服装、歩き方、宝石類と貴金属の身につけ方からリング上でのファイトスタイル、大流血シーンにまで徹底的にシークのそれをコピーをした。

デトロイトのスタンダードだったシークの“3分間プロレス”が終えんを迎えるのは、1981年のことだった。

ケーブルテレビが普及しはじめ、デトロイトだけでなくミシガン州全域、おとなりのオハイオ州やインディアナ州でWTCG(ターナー・コミュニケーション・グループ=ジョージア州アトランタ)のプロレス番組が観られるようになった。

プロレスファンは、シークのプロレスだけがプロレスではないことを知ってしまった。

1980年代に入ると、シークはアンダーグラウンドのインディー・シーンに潜った。甥のサブゥー、ミシガン大レスリング部出身のスコット・スタイナー、ロブ・ヴァン・ダムRob Van Damらがシークのマンツーマンのコーチを受けてデビューした。

そして、1990年代になるとシークを心から崇拝する日本人プロモーターが現れた。新団体FMW(フロンティ・マーシャルアーツ・レスリング)を設立したばかりの大仁田厚だ。

シークが甥サブゥーとともにFMWのリングに初登場するのは1991年。67歳(当時)だったシークは大仁田を下しWWA世界マーシャルアーツ王座を獲得(1992年6月25日=札幌)。

“川崎球場伝説”ではテリー・ファンクと対戦(1994年5月5日)。翌1995年5月、川崎球場でダミアンと対戦した試合が事実上の引退試合だった。

●PROFILE:ザ・シークThe Shiek

1924年6月9日、ミシガン州ランシング出身だが公称“シリア出身”。本名エドワード・ファーハット。1949年、デビュー。1964年から1981年までデトロイトのプロモーター・レスラーとして活動。1972年(昭和47年)9月、日本プロレスに初来日。坂口征二を下しUNヘビー級王座獲得。1973年(昭和48年)からは全日本プロレスにレギュラー参戦。翌1974年(昭和48年)10月、新日本プロレスに1シリーズのみ出場。1977年(昭和52年)12月、全日本プロレス『世界オープン・タッグ』でのドリー&テリーのザ・ファンクスとの死闘(パートナーはアブドーラ・ザ・ブッチャー)は日本プロレス史に残る名勝負として語り継がれている。1995年(平成7年)、日本滞在中に心臓発作で倒れたが一命をとりとめた。1998年(平成10年)、49年間の現役生活に終止符を打ち引退。FMWのリングで引退セレモニーをおこなった。2003年1月19日、死去。78歳だった。

※文中敬称略

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦


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