ランキングからアニメを除外の「映画芸術」に聞いた「荒井晴彦さん、あなたはアニメが嫌いなのですか?」

日刊サイゾー

2018/2/9 22:30


「なんとも思ってはいない、ただ……」

夕方、会議を終えて少し疲れた様子の荒井晴彦は、少し考えてから口を開いた。

今、アニメ関係者の中でひとつの雑誌が話題になっている。荒井が編集発行人を務める「映画芸術」(編集プロダクション映芸)が、それだ。映画批評誌の中では老舗に位置づけられる雑誌。その最新号に掲載された「日本映画ベストテン&ワーストテン」。年1回発表される同誌のランキングで、2017年の作品からアニメ映画を除外したことが話題になっているのだ。

その除外に至る論理、議論。アニメを外すなら選考を辞退することを決めた映画評論家の主張などは、これが掲載された最新462号に掲載されているので、興味のある人は各自で目を通してもらいたい。

ともあれ、最新462号の発売と共に、主にアニメ関係者から、さまざまな形で批判が噴き上がった。「アニメが嫌いなのではないか」「CGが当たり前になっているのに、実写とアニメに違いはあるのか」。

個々の意見はさまざまだが、主要なものは荒井が「アニメが嫌い」で「考え方が古い」というもの。そうした意見の背景には、アニメ映画は大勢の観客を動員し、世界的にも評価されている。それに対して、実写はどうなのか。ネットではさまざまな言葉を費やして、単なる対立軸ではない問題だとを書き連ねるものも目にした。

それでも、アニメ関係者……評論家やライターを肩書にする人々や愛好者が、実写に対するコンプレックスのようなものを燃やしているのではないかという予断を拭うことはできなかった。そう考えたとき、アニメを除外することを決断した「映画芸術」編集部の、誌面には記されていないバックグラウンドの部分を訊ねてみたくなった。

取材依頼を送った翌日の昼。電話で告げられたのは「今日の夕方どうですか。編集会議の後の時間なのですが……」。すぐに、私は「行きます」と答えた。移動の最中に、もう一度読み直しておこうと思いカバンを開くと「映画芸術」ではなく「映画批評」の1972年7月号が入っていた。この号に収録されている「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」は、何度読んでも面白いが、今は要らない。新宿で電車を降りて、もう1冊買った。

■すずさんには「戦争責任」はあるのか



荒井は、編集アンカーの稲川方人と2人でやってきた。単刀直入に質問した。

「荒井さん……2016年のランキングで『この世界の片隅に』が1位になったのが悔しいんですか? それとも……アニメが嫌いなんですか?」

冒頭の通り、少し考えてから荒井は話し始めた。

「『君の名は。』を映画館で観た時に思った。この映画館にいっぱいいる観客の人たちは、普通の映画を観ないのだろうか。よい映画というのは、映画の100年以上の歴史の中で、いっぱいある。けれど、ここにいるのは、そういうものがあることを知らない人たちなのではないかと。それで『いい映画だ』『いいアニメだ』と、言っているのか……そんなことを思ったのです」

では『この世界の片隅に』は? 私が訊ねると、しばらくして、ようやく荒井の口が開いた。

「ん……どうしてこれが評価されるのか、よくわからなかった。時代考証をよくやっているという人は、私の周りにも多かった。でも、私は『(絵で)描けばいいんじゃないか』としか思わなかった。これまで、ぼくも実写で戦争中の日常を撮ったことはあるけれども、そういった評価はなかった。具体的に揃えるのは大変なのに……」

私は、これまで50回くらい『この世界の片隅に』を観ている。そんな私にとっての「名作」に与えられる批判にも、苛立ちはなく新鮮に聞こえた。荒井は言葉を続けた。

「あの映画は評価されている。けれども、この映画は、日本の映画の中にずっとある戦争イコール被害の流れの中にある映画と同じ……被害だけを語っている……」

被害だけを語っているという見方が気になった。

「被害だけを描くことが、本当にそれでいいのかという問題提起は無視されている。ぼくは『イノセントな女のコに戦争責任はないのか』と言っている。でも、そこにはみんな、なんにも……」

また、少し考えてから荒井は口を開いた。

「『君の名は。』を観た時も、また疑問を感じた。これは、歴史修正主義……あったことをなかったことにしてしまうのは、映画のルールとしてやってはいけないこと。劇中では、隕石落下がなかったことになる。それは、東日本大震災だったり、戦争だったり、そういうのもなかったことにしてしまう思想。それは、あれだけの大勢の人がいい映画だと思って見ていることは、なんなのだろうと思う……」

それから、また話題は『この世界の片隅に』に戻った。

「作品の中に登場する朝鮮人みたいな人とか、遊郭の描写。それを、どうして、あれで抑えてしまうのか。ぼくには、ヤバいところにいかない線で描いているように見えた。それでもなお、良心的な描写だといわれる。だから、こう考えた……南京陥落の時に、日本中で提灯行列をやっていたはず。あのヒロインは、ひょっとしてそこに行っていないのか……」

思いも寄らなかった映画の見方に戸惑っているうちに、荒井の言葉は続いた。

「そう考えた時、この映画はなんなのだろう。地上戦があったのが沖縄だけだった結果、天変地異と同じようなものだというのが、日本人の戦争観。結局は、反省は何もせず、それが現在につながっているのではないか……」

■荒井さんの考えは古い? 古くていいのだ!



しばし、どう言葉を返そうか迷って、別の質問を投げかけてみた。

「荒井さんの考えは古いといわれている……」

ふっ、と荒井は笑顔を浮かべた。まるで、そんなことは意に介さないかのように。荒井に変わって、稲川が口を開いた。

「『古い』で、いいと思っている。私たちの考える古い・新しいは違う。新しいアイテムや情報を提供しているかどうかに、価値観は持っていない。今回の件で、アニメの人たちは『映画芸術』の考え方は古いと言う。でも、それは資本側から観た価値観。そういうのに『映画芸術』は依存しない」

問題提起の根っこの部分が、少し見えた気がした。アニメが興行成績の上位に浮上した。大勢の人が「これは、よい映画だ」と絶賛をしている。でも「よい映画だといっている貴方たちは今まで、どれだけの映画を観て、考えた上で、そう主張しているのか」。それが、問題的の根本にあるように見えた。荒井が口を開いた。

「『君の名は。』に熱狂している人たちは、モノクロスタンダードの映画とか、いわゆる映画史に関してノータッチ。本当ににいい映画を知らないのではないのか……もっと、いい映画が日本にも世界にもいっぱいあるのに。『この世界の片隅に』に感じるのは、いわゆる『反戦映画』として捉えるならば、もっと実写にもいっぱいある。ぼくは『火垂るの墓』のほうがいいんじゃないのと思うけどね……」

なぜ『この世界の片隅に』が評価されているのか。それについて意見したいことは、さまざまあったが、それは抑えて訊ねた。

「では、アニメを除外したのは、新たにテーゼを立てたということ……」

先に荒井が口を開いた。

「そうです。以前には、実写も頑張らないとアニメに負けるよと考えて、アニメを評価したこともある。でも、こう何も考えずに『アニメだ、アニメだ』とやるのは違うのではないかと思っている」

稲川も続いた。

「今回は、基本的な映画の力はどこにあるのか、改めて考えようと提起した。アニメを評価するかどうかは枝葉の部分にすぎない……」

「映画芸術」の歴史の中で、年に1回のランキングが、論争の始まりになったことは、これが初めてではない。「なぜ、この作品が1位なのか」を巡って、幾度も論争が行われてきた。今年のベストワンには『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』が選ばれているが、選考者の投票の結果としての1位と、編集部の見解は違う。だから「もしも……」と、稲川はいう。

「今年、これはという作品があれば、アニメが1位になるかもしれない……」

■これはアニメへの「映画芸術」の挑発だ



40分ほどの短い取材時間にもかかわらず、帰り道でどっと疲れが出た。それだけ濃厚な時間だったのだ。駅のホームのベンチに座って、缶コーヒーを手の中で転がしながら、しばし考えた。この、濃密な問題提起の時間を、どのように私の文章として書き記していくのか。

ともすれば「老いた左翼の戯言」。ネットでの炎上に燃料を投下するような荒井の発言。でも、確かなのは好き嫌い……アニメに対する嫉妬や嫌悪が、ランキングからの除外や、作品評へつながっているのではないということだった。

それは、実写とアニメの双方への問題提起と挑発。

「私たちは……『映画芸術』は、このような見方をしている。ならば、貴方たちはどう考えて、どう行動するのか」

とりわけ、アニメの側に属する人々が、議論の土俵に上ってくることを待ち望んでいるような気がした。インタビューの最後のほうでの稲川の言葉は、まさにそうだった。

「枝葉の部分で議論するよりも『映画芸術』は居直って、ちゃんと人間が作っている映画を対象にすることにした。だったら、そこで議論しよう。『もう、役者が演じなくても映画は成立する』というのなら、その議論を……」

そして、アニメ関係者も「ベストテン&ワーストテン」をやってみてはどうかと薦めた。さらに挑発的な言葉で。

「その時に、アニメ評論家や関係者は、どういうテーゼを立てて、作品を観て評価するのか。すべての作品を観ることなどできないのに」

今回、映画評論家の吉田広明は、アニメ除外を批判して選考を辞退した。誌面には、その選考基準の変更を批判する文章を可能な限り誌面を割いて掲載している。そして、荒井も稲川も、吉田がさらなる長文を送ってくることを期待していた。

「そういう論争で、特集を組むことができるとよいと思っています。ネットの100字200字ではない論争を……」

稲川の言葉には、何かと好き嫌いや正邪の軽重ばかりに目を向けがちな、浮ついたものとは違う「議論」に人生の多くの時間を費やしてきた重みがあった。

幾人かの、アニメを論じてきた人は、もしや気づいているのではあるまいか。このランキングからの除外は「映画芸術」からの論争を喚起するための挑発ではないのか、と。

何か心を動かすものがなければ、わずか2,000部ほどしか発行されていない同人誌然とした季刊誌に、本気になるはずがない。真に気づいているアニメ関係者は、荒井の作品評がロートルの戯れ言でも炎上目的でもなく、論争を目的とした、批判的な見方の提起だと知っている。

真に批評と呼ばれるものは「これは、こういうモノなんですよ~」と、頭のよい人が、わかりやすく解説するものではない。題材とするものを通して、自身の生き様や、世界のありようや、未来を「私は、こう思うが、あなたたちはどうなのだ」と突きつける物語だと思う。帰り道の電車で、間違えてカバンに入れてしまった「映画批評」を読み直した。映画をテーマとしながら、誰一人として面白いとかナンタラは語っていない。だから、その文章は21世紀の今でも震えるものがある。

ランキングからアニメが除外されたという枝葉末節への批判を超える人物が、今のアニメ関係者にいるのか。誰かが、荒井や稲川が震え上がるような魂の論を「映画芸術」編集部に向けて送りつけることを、今はとても期待している。革命は電撃的にやってくる。

(文=昼間たかし)

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