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ブルーノ・サンマルチノ “人間発電所”から“生ける伝説”へ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第12話>

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神がかりとか、神通力とか、なにかそういった非現実的な単語でしか表現できないような存在。

格闘技の殿堂マディソン・スクウェア・ガーデンの象徴であり、ニューヨークのプロレス=イコール=ブルーノ・サンマルチノという絶対的なヒーローだった。

1960年代から1970年代までガーデン定期戦211公演のメインイベントのリングに立ち、187公演を完全ソールドアウトにした。

子どもからおとなまで、若者にもお年寄りにも、男性ファンにも女性ファンにも愛された。

どんなプロレスラーだったかのというと、“わかりやすいプロレスラー”ということになるのだろう。

“公称”身長5フィート10インチ(約178センチ)、体重256ポンド(約115キロ)がだったが、じっさいは身長はもうちょっと低かった。

ガウンやTシャツはいっさい身につけず、いつもダークカラーのショートタイツとリングシューズだけの限りなく裸に近い姿で花道を歩いてきた。

コスチュームらしきものはその腰に巻かれた黄金のチャンピオンベルトだけだった。サンマルチノの重厚ではあるけれどどこか質素な雰囲気と、光り輝くチャンピオンベルトの絶妙なコントラストが不思議なオーラを放っていた。

典型的な正統派だったが、いわゆるテクニシャン・タイプではなくて、どちらかといえば不器用なパワーハウスだった。

“人間発電所”というニックネームは、このパワーハウスpowerhouseを発電所と直訳したものだった。

得意技のレパートリーは相手を肩の上にかつぎ上げるバックブリーカー(日本ではなぜかカナディアン・バックブリーカーと呼称された)、ボディースラム、ベアハッグ、そしてマシンガン・キック。

試合時間はきわめて短く、あっというまに登場してきて、あっというまに勝って、あっというまに去っていくというサンマルチノのプロレスの流儀は、ニューヨーク・ニューヨークのトラディッションとしてハルク・ホーガンの時代までつづいた。

サンマルチノは、14歳のときに家族とともに故郷イタリアからアメリカに移住した。

父アルフォンソはピッツバーグの鉄工所で働くブルーカラー・ワーカーで、サンマルチノも少年時代から鉄工所、建設関係の仕事についた。

ハイスクール在学中にYMHA(Young Men and Women Hebrew Association=ヘブライ青年会)のサポートで本格的にパワーリフティングのトレーニングをはじめ、その後、知人の紹介でピッツバーグ大学レスリング部の練習にも参加するようになった。

アメリカは、サンマルチノ一家が思い描いていたようなだれもがリッチな“富める国”ではなかった。サンマルチノがプロ・スポーツ選手としての成功を夢みるようになったのはこのころだった。

朝鮮戦争への徴兵を避けるため18歳でナショナル・ガード=州兵に志願し、20代前半まではピッツバーグで建設業の仕事をしながら家計を助け、年に数カ月ずつテキサス州サンアントニオのラックランド空軍基地に駐屯する生活をつづけた。

24歳のときにノースアメリカ・ウエートリフティング選手権でベンチプレス565ポンド(約256キロ)、スクワット715ポンド(約324キロ)、デッドリフト690ポンド(約312キロ)という記録をマークし、これがルーディ・ミラーRudy Millerという人物の目にとまった。

ルーディ・ミラーは、ワシントンDCにオフィスをかまえていたビンス・マクマホン・シニアのキャピトル・レスリング・コーポレーション(WWEのルーツ)のピッツバーグ担当プロモーターだった。

ガーデンのリングでサンマルチノがバディ・ロジャースを48秒で下し、新設WWWF世界ヘビー級王座を手にしたのは1963年5月17日。

両者は前年にもカナダ・トロントで対戦し、このときは2-1のスコアでサンマルチノが勝利を収めたが、3本勝負のファイナル・フォールがロジャースの“負傷”による試合放棄だったため、チャンピオンのロジャースがNWA世界ヘビー級王座をキープした(1962年8月2日=メープルリーフ・ガーデン)。

約40万人のイタリア移民が住むトロントで、無名の新人サンマルチノは一夜にして“時の人”となった。

ニューヨークで泣かず飛ばずのルーキーだったサンマルチノをトロントに呼んでくれた恩人は“耳のないレスラー”ユーコン・エリックだった。

サンマルチノはデビューから3年7カ月という短期間でニューヨークのスーパースターの座にかけ上がったが、ボスのマクマホン・シニアとサンマルチノの緊張関係が変わることはなかった。

NWAを脱退し、新団体WWWFを設立したばかりのマクマホン・シニアは、40代のロジャースに代わる新しいスターを発掘しようとしていた。

サンマルチノがニューヨークを離れてトロントに活動の場を求めたそもそもの理由は、“資本家”マクマホン・シニアに対するどうにもならない不信感だった。

トロントでの活躍のうわさを耳にしたマクマホン・シニアは「過去のことは忘れてLet bygones be bygones」とサンマルチノを口説き落とした。

27歳のサンマルチノにとって、ガーデンで千両役者ロジャースと闘えるというプランは魅力的だった。

サンマルチノは、“ロシアの怪豪”イワン・コロフIvan Koloffに敗れ王座から転落(1971年1月18日)するまで7年8カ月の長期間にわたりWWWF世界王座をキープした。

サンマルチノさえそこにいれば、ガーデン月例定期戦は超満員になった。サンマルチノからまさかのフォール勝ちを奪ったコロフ(本名ジム・パリス)は、ソビエト連邦からやって来た元重量挙げ選手というふれ込みだったが、じっさいはカナダ・モントリオール出身のフレンチ・カナディアンだった。

サンマルチノ政権崩壊という大きなドラマに“米ソ冷戦構造”のシナリオがアダプトされた。

そのコロフを下してサンマルチノのあとのニューヨークの主人公となったペドロ・モラレスの観客動員力が下降してくると、マクマホン・シニアは引退を考えていたサンマルチノに「ペドロと“今世紀最大の一戦”をやってくれ」と企画を持ちかけ、シェイ・スタジアムでのモラレス対サンマルチノのタイトルマッチが実現した(1972年9月30日)。

モラレスがサンマルチノ級のスーパースターにはなれないと判断すると、マクマホン・シニアは「またいっしょにやろう」とサンマルチノとコンタクトを図った。

マクマホン・シニアは、ビジネスのためには手段を選ばない男だった。

このマクマホン・シニアのDNAはそれから30年後に世界征服を実現する息子ビンス・ケネディ・マクマホンにきっちりと受け継がれている。

サンマルチノは、モラレスを倒したワンポイント・リリーフのスタン・スタージャックStan Stasiakからチャンピオンベルトを奪い返し、長編ドラマの第2部がスタートする(1973年12月10日=マディソン・スクウェア・ガーデン)。

サンマルチノ自身はこのときのマクマホン・シニアとの会話を「1年という約束だった」とふり返るが、“人間発電所”から“生ける伝説Living Legend”に格上げされたサンマルチノの長編ドラマは、41歳のサンマルチノが“スーパースター”ビリー・グラハムに敗れるまで(1977年4月30日=メアリーランド州ボルティモア)3年4カ月のロングランとなる。

WWWF世界ヘビー級王座のチャンピオンベルトは何度かモデルチェンジをかさねた。サンマルチノがロジャースから奪ったオリジナルの黒革モデルのベルトは、1960年代後半にマンハッタンのレストランで盗難にあった。

1970年代に使われたゴールドのベルトはいまでもサンマルチノの自宅に保管されているという。サンマルチノとマクマホン・シニアの緊張関係はいつしか腐れ縁になっていた。

1981年10月にサンマルチノは正式に引退を表明するが、デビューしたての息子デビッド・サンマルチノをサポートするために1985年にリング復帰を果たす。

しかし、WWEがビンス“ジュニア”の時代に入ると、サンマルチノはレスリング・ビジネスとの絶縁を宣言した。

サンマルチノが考えるプロレスとビンスが考えるプロレスは、まったく異なるふたつのジャンルだった。

サンマルチノの現役最後の試合は、ハルク・ホーガンとのコンビでキングコング・バンディ&ワンマン・ギャングと対戦したタッグマッチ(1987年8月29日=ボルティモア・アリーナ)。

試合後、サンマルチノはホーガンといっしょに音楽に合わせて定番の“筋肉ポーズ”までとってみせた。

●PROFILE:ブルーノ・サンマルチノBruno Sammartino

1935年10月6日、イタリア・アブルーチ出身。第二次世界大戦後、1950年に家族とともにペンシルベニア州ピッツバーグに移住。重量挙げ選手として活躍後、1959年10月、デビュー。WWWF世界王座を2回、通算11年4カ月にわたり保持。ハルク・ホーガンが出現する以前のニューヨーク・ニューヨークでいちばん有名なプロレスラー。ジャイアント馬場のアメリカ武者修行時代の親友で、劇画『ジャイアント台風』にも実名で登場している。

※文中敬称略

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦


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