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キラー・コワルスキー “キラー=殺人鬼”と呼ばれた男――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第8話>

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リングネームにキラー=殺人鬼がつけられた古典派ヒールの代表格。1947年から1977年まで30年間、現役で活躍した。

ハイスクールを卒業後、地元ウィンザーのフォード・モータースでエンジニア見習いとして働いていたが、YMCAでトレーニングをしているところをモントリオール地区をツアー中だったルー・テーズにスカウトされプロレスの道を選んだ。

6フィート7インチ(約2メートル)の身長は“巨人”の部類だった。ヒールとしてのイメージを守るため、現役時代はテーズとの関係が明らかにされることはなかった。

コワルスキーはある試合が原因で“キラー”と呼ばれるようになる。事件は怪力自慢のユーコン・エリックYukon Ericとのシングルマッチで起きた(1952年10月15日、カナダ・ケベック州モントリオールのモントリオール・フォーラム)。

コワルスキーは26歳で、エリックは29歳だった。コワルスキーはトップロープからのフライング・ニードロップを狙った。トップロープから落下してくるコワルスキーとキャンバスにダウンしているエリックとのあいだにレフェリーが割って入ってきた。

コワルスキーはレフェリーの体を飛びこえて、ニードロップをエリックに命中させた。

コワルスキーが目測を誤ったのか、それともエリックが体を反転させたためか、コワルスキーの右ヒザがエリックの左側頭部を直撃した。

次の瞬間、鮮血が噴水のようにあたりに飛び散り、なにかがキャンバスにころころと転がった。レフェリーがその物体を拾い上げると、それはエリックの耳(正確には耳の破片)だった。これがプロレス史に語りつがれる“耳そぎ事件”である。

数日後、コワルスキーは病院に入院中のエリックを見舞いに訪れた。病室にはエリックの家族、友人たちがいたため、コワルスキーは病室には入らず廊下からエリックに手を振った。

コワスルキーの姿に気がついたエリックもニッコリ笑ってコワルスキーに手を振った。

エリックはいわゆるカリフラワー・イア(カリフラワー状に変形した耳=プロレスラーの勲章)の持ち主で、コワルスキーのニードロップで裂傷を負ったのは耳のいちばん上のコブになった部分だったという。

事件というよりは、明らかに事故=アクシデントだった。

偶然かそれとも必然か、病院にはモントリオールの地方紙の記者も来ていた。翌日の新聞には『キラー=殺人鬼は笑った』という見出しが躍った。

その後、20数年間にわたりコワルスキーはキラーをリングネームとして使った。

コワルスキー自身がベジタリアンだったこと、この事故から13年後にエリックがなぞのピストル自殺(離婚問題が原因とされる)をとげたこともこの“耳そぎ事件”をよりミステリアスな物語に変化させた。

コワルスキーは“まぼろしのNWA世界王者”だった。1962年11月(カナダ・モントリオール)、バディ・ロジャース対コワルスキーの60分3本勝負のタイトルマッチの1本めでロジャースが右足首を骨折して試合放棄。

コワルスキーはその後、テキサスなど南部諸州を世界ヘビー級王者としてツアーしたが、NWAの公式記録からは抹消された。

1960年代はNWA世界ヘビー級王者ルー・テーズ、WWWF世界ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノらと名勝負を展開。ゴリラ・モンスーンとのコンビではWWWF・USタッグ王座(1965年=現在のWWE世界タッグ王座のルーツ)を獲得した。

日本のプロレス史とリンクするところでは、日本プロレスの『第5回ワールド大リーグ戦』決勝戦(1963年=昭和38年5月17日、東京体育館)で力道山、『第10回ワールド・リーグ戦』決勝戦(1968年=昭和43年5月17日、大阪府立体育会館)でジャイアント馬場とそれぞれ対戦。

日本プロレスの“春の本場所”といわれた『ワールド・リーグ戦』2大会にエントリーし、両リーグ戦とも決勝戦に進出した外国人選手はコワルスキーだけだった。

馬場のアメリカ武者修行時代のエピソードを描いた劇画『ジャイアント台風』(原作・高森朝雄&辻なおき)にも実名で登場した。

1980年代後半にはレスリング・スクールを開校し、トリプルH、チャイナ(ジョージー・ラウアー)、マット・ブルーム(ジャイアント・バーナード)ら次代のスーパースターにレスリングを教えた。

●PROFILE:キラー・コワルスキー Killer Kowalski

1926年10月13日、ポーランド移民2世としてカナダ・オンタリオ州ウィンザーに生まれる。本名エドワード・ヴラデスロウ・スポルニック。モントリオール版・世界ヘビー級王座、オーストラリア版・世界ヘビー級王座を保持。通算6回来日。1977年に引退後、ボストン郊外に“コワルスキー道場”を開校し、トリプルH、チャイナ、ペリー・サタン、マット・ブルームらを育てた。2008年8月30日、死去。享年81。

※文中敬称略

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦


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