小池龍之介さんに聞く!より重要なのは「空(くう)の瞑想」

マイロハス

2018/1/31 20:30

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こんにちは。翻訳者&エディターの松本恭です。

今回は、前回に続き、僧侶で瞑想指導家の小池龍之介さんに、「瞑想ってどんな感じなんですか?」、「瞑想をしたらどんないいことがあるんですか? 」という質問に答えていただきました。いわば心の中の絶対安全領域ともいえる「空(くう)」についても詳しく語っていただきました。

考えない練習』、『苦しまない練習』(共に小学館)など、仏教の教えに基づく多くの著作を執筆している多忙な作家でもある小池さんは、毎月鎌倉の稲村ヶ崎にある「月読寺」で坐禅会を開催し、多くの人に瞑想指導を行っています。瞑想会や各地の出張講座のスケジュールは、ウェブサイト「家出空間」で確認できます。
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瞑想は大きく分けて2種類ある


ーー瞑想していると、どんな感じになるのでしょう?

瞑想の種類にもよるので、一概にすべての瞑想がどうだとは言い難いような気がしますが、おおまかにいえば、集中系の瞑想によって入っていく瞑想状態と、空(くう)のように開放しているときの瞑想状態は、体の感じもだいぶ違うんですよ。

共通して言えるのは、心の静けさがあります。それに伴って体の感覚が鎮まっていきます。粗雑で固まりのように感じていた体の感覚が、静かになって繊細になり、その繊細さが、腕や頭、ひとつの胴体などの固まりがあるとかいう感じではなく、もっと細かい繊細なものの群れとして感じられるようになったり、血の流れを感じたり、もっと細かく、体を神経情報の伝達のようなもの、つまりビリビリとした電気情報の群れのようなものとして感じられるようになるとか。

そういった繊細な、小さなさざなみのような集積体として身体を感じ取ることができるようになってくると、身体が、それまで感じていたようにがっちりして御しにくいものであるという感覚が薄れてきます。微細で親和性があり、その身体の中に心を置いていることがしっくりした感じになるというか。それはまた、大雑把な表現で言えば、身体の中に意識が住んでいる状態に調和していると言ってもいいかもしれません。このような特徴は、どの瞑想にもおよそ共通していると思います。
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付け加えると、そういったときおおむね呼吸が静かになってきます。その静けさにも程度の差がありますし、初心者が少し瞑想状態に入った程度ではならないかもしれませんが、だんだん呼吸が深く静まり返ってくると、とても細くて薄い静かな呼吸になってきます。初めて体験した人は、息が止まったと感じるくらいなんですが、私の見るところ、心身が静まり返ってくると、おそらく体が必要とする酸素量が非常に少なくなるので、非常に細く薄い呼吸に切り替わっていくのでしょう。このように、身体も静まり返って静かになっているのですが、呼吸も非常に静かに、ゼロに近いような静けさになっていって、そのとき精神の活動も静かです。そのように精神の活動も静かになるのは、集中系の瞑想の場合ですが、往々にして、それと同時にキーンと張りつめたような感じや、鬼気迫るような感覚を感じる人が多いようです。

「空」の瞑想によってもたらされる圧倒的な安らぎ


開放系、つまり空(くう)の瞑想について言えば、空の中は完全な静けさなんですが、その完全な静けさの中から、心の中で起きているいろんな感情や、周囲のあらゆる感覚をあるがままに見ています。100パーセントの静けさの中から、あらゆるうるささを優しく眺める感じです
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ですから、空の瞑想の中は完全な静けさでありながら、たとえば風が吹いたり、時計の音が鳴ったり、目には人の顔が映っていたり、感情が喜んだりいやな気持ちになったり、というようなことを、何も起こらないところ(空)から、ありありと観察しているという感じです。そのとき、呼吸はスヤスヤと寝息のような感じになることも多いですが、空に集中する度合いが高まると、息が静かになって微細に静まり返っていく、ということが生じることもあります。

どんな感じかと言えば、心が広々と寛いで、何者にも侵されない安心感の中に、いきいきと浸っているというような塩梅です。その空の状態にいると、とてもリラックスした安楽感が湧き上がって来るのです。ただし、そのとてもリラックスした安楽感というのは、空の瞑想に入っていることの副産物のようなものであり、それ自体を重要視して執着すると、空を見失ってしまうでしょう。

そのときの体の状態を観察すると、やはり身体感覚は細分化されがちで、ピシピシとしたとても細かい感覚が走ったり、熱エネルギーが体の中を移動していくような感じなどが起こることが多いです。平穏さの中に心身が浸っているのと同時に、しかし「平穏さ」という言葉でみなさんがイメージするものだけではありません。そのときの身体の状態をイメージで表現すると、たとえば腹部からまるで火の玉みたいなものが燃えてぼーっと体を燃やしながら、頭のてっぺんに抜けていくような感覚や、光が体の中を駆け抜けていき、頭のてっぺんや足の裏から抜けていくような感覚など、強くて激しいエネルギーのうねりみたいなものもしばしば伴っていたりするのですが、ただその背景に、いつも平安さがあるという感じです。

ーー「空の瞑想」と「集中系の瞑想」とでは、静けさの質が違うのですね。

ええ。ただし集中系の場合は、初学者から中級者くらいまでの間は必ず「“私が”集中する」という自意識を伴うせいで、集中の静けさでリラックスしているようで、同時にピリピリとした緊張感や苦労をも伴いがちです。それは、苦労して「作り上げるもの」という側面を持っており、いわば作られた静けさです。

心をあるがままに開放しているときの静けさは、うるささの裏側に、「あ、ここに静けさがあったんだなあ」と発見する感じですから、“私が”作るというのでなくて、そこにもともとある、いわば「天然の、天与の静けさ」という感じでしょうか。

ある生徒さんは、集中の静けさを「張りつめた感じ」で、あるがままの静けさを「ふわふわした感じ」だと表現していましたが、それは多くの人の感じ方に近いのではないでしょうか。

心のクリーニングなくして、感情のパターンは変わらない


ここでは集中系の瞑想も教えていますが、より重要なのは空の瞑想です。集中系では主に呼吸に意識を集中する手法を用いますが、呼吸に集中するメソッド的なものに関しては、長年教えてきて、ある意味がっかりもしています。より手っ取り早く瞑想っぽい状態には入れるんですが、入るというだけであり、言ってみれば瞑想中毒のようになる人をたくさんつくるだけで、それをうまく使いこなせる人はあまりいないように感じています。このため最近は、集中することを一定以上に積極的に教えることには慎重です。

というのは、ある程度の集中を得ると、十中八九、本人の現状を誤認するような結果が生じます。とくにかなり強い集中状態に入った場合、数日間の間、感情のブレを感じずに済んだりするので、誰しも成長したような気分になるんですが、実際は成長していないんですよ。

心のクリーニングが進まない限り、感情のパターンというのは絶対に変わらないんですが、集中すると一時的に今までハマっていたパターンが出てきにくくなります。それを日々繰り返していると、中長期的に自分の感情の問題が表面に表れてこなくなるため、本人は問題が解決したように感じているのですが、実際の本人との間に齟齬が生じます。すると、現実生活では前よりも好ましくない状態になるということが起きるのです。対人関係で軋轢が生じたり、家族と喧嘩になったり。
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瞑想する前だったら喧嘩しなかったようなことで喧嘩するなら、前より悪くなっていますよね。そんなことがしばしば起きるんです。このようなわけで、ある一定以上には集中の中に入って行きすぎないようにしながら、でもある程度集中しないと、そもそもスピード感を持って内面の観察ができないので、ある程度はやりますが、本人に万能感をもたらすようなレベルの集中までは連れて行かないことにしています。

「心の絶対安全領域」とも言える空の世界


「超集中」とは、静けさを徹底的に強めていくということです。徹底的に静けさを強めていくと、一時的に何もかも消えていくんですね。ある点ではそうならないように、無にさせないよう、あらゆる感覚に心を開き、瞬間瞬間のすべての感覚に対して五感を開放するように指導しています。

もちろんこれは、万能感をもたらさないためだけではなく、集中に頼らずに心をあるがままに開放することの圧倒的な価値を認めているからでもあります。すべての感覚に心を開いていて、ただしその感覚に心を捉えられることなく、感覚を認識しているけれど、そこに集中するというよりは、むしろ集中しないという感じ。では、どこに集中するのとかいうと、どこにも集中しない。つまり、何に対しても執着しない。

あらゆる感覚の裏側というか、通常、対象に意識を向けることの裏側に意識を置く練習と言ってもいいかもしれません。すると、どこにも心を向けていないという状態になり、私はそれを「裏集中」とも呼んでいます。心を無にしていく集中系の瞑想とは違い、あらゆる感覚や世界は完全にそのままに置いておき、頭の中の思考も流れていくままにしておき、その裏側に心を滑り込ませて、裏側から見ているというような状態になることを狙います。

呼吸に超集中していくと、呼吸は長く深く繊細に洗練されていくことが多いんですが、多くの生徒さんにとって難しいのは、その呼吸に任せて放っておいてくださいと言われても、意識する以上どうしても何か感情を乗せてしまったり、つい無意識にコントロールしてしまいがちで、完全な自然な状態のまま自意識を込めずにそのままにしておくというのはなかなか難しい。

ーー微妙な観察は当然必要ですが、観察している以上コントロールしたくなる。無意識のうちにコントロールしていることも多いと思います。

実はほぼ万人が、観察すると少なくともうっすらとはコントロールしてしまいます。たとえば感情について言えば、イライラしている状態を観察してもらうとして、そのイライラをただ見ているつもりでいても、多かれ少なかれその状態を好もしくないことが起きていると判断してしまいがちで、そうした判断や力みが加わることがコントロールなんですよ。純粋な観察というものができるようになるためには、相当な修練が必要になってきます。
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ーー小池さんが最初に完全に「空」の状態にあると感じられたのはいつですか。

私が最初に仏道を通じて救われたというか、心に革命が起きた時点では、実は空についてはよく分かっていませんでした。原始仏教の修行階梯に愚直に取り組んでいくうちに、「私」という感覚がつくりごとであり、実在しないということを体験し、それに打たれるように最初の人生の転機があったんですが、その時点では「空」とは何やら抽象度の高い、非実践的で哲学的な思想なのかくらいに思っていました。

ところが数年前、執務室スタッフをうちの寺で受け入れていた時がありまして、その人に当時行っていたようなシンプルな原始仏教的な瞑想法を指導したところ、息が苦しくなると言われました。呼吸瞑想を教えているのに、呼吸に意識を集中すると息苦しくなって死にそうなると言われても、と思って工夫したんですが、なかなかどうにもならず、そこで、そうではない指導について模索しました。

実は生徒さんたちの中にも一定数、集中すると苦しくなるという人がおり、どうしたものかと思案するなかで、狭い意味での坐禅、つまり何もしないで、すべての感覚をただ流しておくというものを改めて採用しました。要はそうやって、神経質になりすぎているので、リラックスしましょう、くらいのニュアンスで坐禅を再導入したんですよ。

そこで、すべての感覚を流すということをしてみました。瞑想状態のあり方として、「空」を感じるといってもあらゆる段階があると思いますが、最初にふっとすぐ分かったのが、すべてのことを自然にしておくことができるというような感覚。すべてのことを自然にしていたら、とても心が広くてまろやかでふわふわしている。ふわふわしていると、とても楽に取り組める。じゃあ、と思って私自身もちょっと研究していたんですよ。
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すると一ヶ月くらいして、心がすべての現象を、何もない空っぽの裏側から見ているのを経験し、なるほど「空」というのは、こういう具体的な領域なのだと分かりました。「そこ」には見ている対象は何も入り込んでこず、ただ空っぽで「ほにゃー」と安心しきっているのが活き活きと感じられました。

その安心感の核心は、現象の裏側に抜け出たところから、言わばこの小池さんの身体や喜怒哀楽がただ「見られている」だけということです。ポイントは、小池さんが痛かろうと、それを「こちら側」と申しますか、裏側では何も起きておらず、まったくノー・ダメージなのです。

また小池さんがどれだけ嬉しかろうと悲しかろうと、裏側には何も一切やってこない。何もやってこない以上、今も昔もこれからも、決して傷を負ったりダメージを受けたりはしない、という安堵感がじんわりと心を、タフにさせてくれます。

そして、もっとも最初に驚いたのは、その「空」の中から自分の体の中を観察したり、「空」の中から自分の心の中の感情を観察するなら、絶対の安心感の中から観察しているがゆえに、観察対象から一切影響を受けないということに感動を覚えました。空の中にいれば、そこは完全なる安全領域といいますか、何一つそこに苦痛や喜びも打撃も入ってこない、いわば絶対安全領域から見ていることができるので、どんなにきつい身体感覚を観察するのであれ、どんなにきつい感情を追体験して観察するのであれ、それらとはある意味で無関係で超越的な、絶対安全なところから見ていることができるのです。

ーー絶対安全なところから、さまざまなものを「見て」おり、苦しみに引きずられることはない。
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ええ。心の中に浮かんでくる強い感情や強烈な身体感覚に引きずられてしまうというのが生徒さんたちに指導するときの一番のネックであり、身体の記憶や感情の記憶に直面するときに、多くの生徒さんたちがそれに巻き込まれてしまい感情的になるということが起きがちなんですが、「空」というのは、具体的に心をそこに避難させて安住できるような、私としては、心の中に見出される神秘的な場所なんですね。その神秘的な領域を見つけたときに、「ああ、これで行き詰まって、のたうち回っている生徒さんたちの問題が解決する」と確信し、それ以来、指導の力点の中に「空」を置いています。

>> 前編を読む

「月読寺」の坐禅会では、午前中が初心者向けの指導、精進のおむすびを食べながら行う「食禅」を挟んで午後は坐禅経験者を対象とした指導(座る瞑想、歩く瞑想、質疑応答)が行われています。朝から参加すると7時間以上、ひたすら瞑想を行います。

書籍『「自分」を浄化する坐禅入門』(PHP出版)には、集中系の瞑想を独習するステップが丁寧に記載されていますが、今回紹介した「空(くう)」の瞑想については小池さんから直接指導を受けることをおすすめします。また、メンタルに問題のある場合は、瞑想の実践を控えることが望ましいそうです。

<小池龍之介さんプロフィール>
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1978年生まれ。山口県山口市出身。月読寺(神奈川県鎌倉市)住職。東京大学教養学部卒。自身の修行を続けながら、月読寺ほか各地で一般向けに坐禅指導を行っている。著書多数。

Photo / Eiichi Matsumoto

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