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フレッド・ブラッシー “銀髪鬼”は愛すべき大悪役――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第7話>

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20世紀を代表する悪役レスラーのなかの悪役レスラーである。トレードマークの噛みつき攻撃。目つぶし。チョーク攻撃。急所打ち。そして、ボクシング・スタイルのボディーブロー。レパートリーはこの5つの反則技。

大技らしい大技としてはオールドファッションなスウィング式のネックブリーカー・ドロップを得意としていたが、それもめったに使うことはなかった。そもそもあまり受け身をとらないレスラーだった。

これはブラッシーが40代でプロレスラーとしての全盛期を迎えたことと深く関係している。身長5フィート8インチ(約173センチ)、体重230ポンド(約104キロ)という体格は、プロレスラーとしてはひじょうに小柄だった。

1935年、ミズーリ州セントルイスで17歳でデビューし、第二次世界大戦中は海軍に入隊してカリフォルニア州ポート・ヒューンミー基地に駐屯。

終戦後は、あまりパッとしない赤毛のベビーフェースとしてテネシー、ケンタッキー、テキサス、アラバマ、ジョージアの南部エリアをサーキットした。

ブラッシーは大都会を好んだ。ブラッシーにとってビッグシティーとはハリウッドとブロードウェイ、ロサンゼルスとニューヨークのことだった。

1961年1月にロサンゼルスにやって来たブラッシーは、髪をブリーチ・ブロンドに脱色し、ヒールに変身した。

タイツの色は無地の白、水色、ピンク、あわいパープルなど。リングシューズはつねにタイツとおそろいの色のものをはいた。

モノクロのテレビの画面のなかで鮮血に染まった銀髪と血だらけのタイツをきわだたせるのは、よく日焼けした肌と薄い色のタイツのコントラストだった。ブラッシーはそういう映像的なセンスに長けていた。

ロサンゼルスのKTLAテレビが毎週水曜夜の8時から9時30分のプライムタイムにオンエアしていたプロレス番組“レスリング・フロム・オリンピック・オーデトリアム”の売りものは、試合と試合のあいまに収録されるトーク・コーナーだった。

マイクをつかんだら離さないブラッシーは、あっというまに番組の主役になった。キャラクター設定は、ゴージャス・ジョージの1960年代版だった。ブラッシーはこの時点ですでに43歳になっていたが“公称30歳”というプロフィルを押しとおした。

ブラッシーはこの年、ロサンゼルスでエドワード・カーペンティアを下し、新団体WWAの世界ヘビー級王者となった(1961年6月12日、ロサンゼルス・スポーツ・アリーナ=観衆1万3200人)。

カーペンティアは“テーズ系譜”の黄金のチャンピオンベルトをロサンゼルスに持ち込み、プロモーターのジュールス・ストロンボーJules Strongbowは歴史と権威のある“テーズ系譜”と新団体WWAの年表をまんまと接着した。

それから1カ月後、こんどは本物のルー・テーズがロサンゼルスにやって来て新チャンピオンのブラッシーとタイトルマッチをおこない、ブラッシーが噛みつきと急所攻撃でテーズからフォール勝ちを盗んだ(同年7月21日、スポーツ・アリーナ=観衆1万3400人)。

テーズとテーズよりもふたつ年下のブラッシーは、セントルイスのレスリング・ジムでは先輩・後輩の関係だった。

ブラッシーとテーズは翌1962年(昭和37年)4月、日本プロレスの『第4回ワールド大リーグ戦』にいっしょに参加した。

ロサンゼルスWWAと力道山の日本プロレスは業務提携を結んでいて、このリーグ戦の1カ月まえ、力道山はオリンピック・オーデトリアムでブラッシーを下し、WWA世界王座を日本に持ち帰ったばかりだった。

ここで“昭和のテレビ史”の残る大事件が起きてしまう。

事件の舞台となったのは力道山&豊登&グレート東郷対テーズ&ブラッシー&マイク・シャープの6人タッグマッチだった(1962年4月27日=兵庫・神戸市王子体育館)。

ブラッシーの噛みつき攻撃でG・東郷が血だるまにされ、この試合をテレビ生中継で観ていた老人4人(6人説もある)が全国各地で心臓発作を起こしショック死するという事件が発生した。

新聞、一般週刊誌をはじめとする活字メディア、テレビのニュース番組で「プロレス中継を中止せよ」との論調が高まった。噛みつき攻撃はたしかにブラッシーの十八番だったが、“大流血シーン”はじつはG・東郷の専売特許でもあった。

この事件のあと、民放連はプロレス中継(とスポーツ中継番組)のあり方を審議し、事件の当事者となった日本テレビはこの年からスタートしたばかりの同番組のカラー放映を中止し、従来のモノクロ放映に戻した。

ブラッシーはロサンゼルスの看板タレントであると同時にニューヨークのスーパースターでもあった。

マディソン・スクウェア・ガーデンでブラッシーがブルーノ・サンマルチノのWWE(当時はWWWF)世界ヘビー級王座に挑戦した2試合は、第1戦がサンマルチノの反則負け(1964年7月11日=観衆1万8981人)、リターン・マッチはサンマルチノがフォール勝ちで王座防衛に成功(同8月1日=観衆1万8875人)。

19歳だったビンス・マクマホンがこのタイトルマッチ2試合をリングサイド席で観戦した。

ブラッシーの38年間におよぶ現役生活のなかで最大のビッグ・イベントは、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムに2万5847人の大観衆を動員した“宿命のライバル”ジョン・トロスJohn Tolosとの因縁ドラマの完全決着戦だった(1971年8月27日)。

噛みつき、チョーク攻撃、目つぶし、急所攻撃しかできない53歳のブラッシーを、ロサンゼルスのファンはとことん愛した。いつまでも変わらないことが愛LOVEだった。

ロサンゼルスの観客に別れを告げたブラッシーは、最後の晴れ舞台のため再びニューヨークに向かった。

ニューヨークでは、ロサンゼルスのプロレス番組がUHF局のスペイン語チャンネルで毎週水曜夜のプライムタイムにオンエアされていた。

ブラッシーは西海岸からやって来たパシフィック・コースト・チャンピオンとしてWWEのリングに登場した。

マディソン・スクウェア・ガーデンでのWWEヘビー級王者“ラテンの魔豹”ペドロ・モラレスとの連戦シリーズ第1戦は、ブラッシーの出血多量によるレフェリー・ストップでモラレスが判定勝ち(1971年11月15日=観衆2万2089人)。

第2戦のローマン・グラディエーター・マッチもモラレスがKO勝ちで王座防衛に成功した(同12月6日=観衆2万2000人)。

それから約1年後におこなわれたブラッシーにとっては事実上の引退試合となるモラレスとの3度めの対戦も、モラレスがレフェリー・ストップ勝ちを収めた(1973年3月26日)。

モラレスは無名の新人時代、ブラッシーのブッキングでロサンゼルスで仕事をもらった。ブラッシーは引退試合の相手にかつての“子分”のモラレスを指名したのだった。

ビンス・マクマホン親子はブラッシーにマネジャー転向を打診し、ブラッシーはその後、約30年間をニューヨーク州ハーツデールの海のそばの家で暮らすことになる。

ウエストコーストが好きだったブラッシーは、天気のいい日には必ず自宅の裏庭で日光浴をしていたという。

ブラッシーは、アントニオ猪木対モハメド・アリの“格闘技世界一決定戦”が開催されたさい、アリのマネジャー役として来日(1976年=昭和51年6月)。

アリのトレードマークの“大ボラ”はゴージャス・ジョージのプロモーショナル・スピーチのコピーだというのがそれまでの定説だったが、アリがジョージと思い込んでいた人物はどうやらブラッシーだった。ブラッシーは“歴史のエラー”を修正した。

ハルク・ホーガンが初来日したとき(1980年=昭和55年4月)のマネジャーもブラッシーだった。ブラッシーは26歳の新人だったホーガンに「この国ではスターはスターらしくふるまえ。そうすれば人びともキミをスターとして扱う」と教えた。

ブラッシーのアドバイスに耳を傾けたホーガンは、短期間のうちにスタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアントらと並ぶスーパースターに変身した。

ニューヨークの悪党マネジャーとなったブラッシーは“ロシア人”ニコライ・ボルコフ、“イラン人”アイアン・シーク、ジェシー・ベンチュラ、アドリアン・アドニス、キラー・カーンといったヒール・グループのセコンドとして50代後半から60代を過ごし、1980年代後半に2度めの引退を決意する。

WWEはブラッシーを終身雇用し、テレビ番組の在宅モニターを依頼した。ブラッシーはプロフェッショナルの目で85歳まで“マンデーナイト・ロウ”と“スマックダウン”を視聴していた。

1965年(昭和40年)に日本で知り合った三耶子(みやこ)夫人は、38年間にわたってブラッシーを支えつづけた。ふたりが出逢ったとき、ブラッシーは47歳で、三耶子さんはまだ19歳だった。

“銀髪鬼”ブラッシーは、天国に旅立つその日まで“フレッド・ブラッシー”の完ぺきなヘアスタイルを守りとおした。

●PROFILE:フレッド・ブラッシーFred Blassie

1918年2月8日、ミズーリ州セントルイス出身。本名フレディ・ケネス・ブラッシー。1935年、デビュー。38年間、現役で活躍。WWA世界ヘビー級王座通算4回、アメリカス王座通算4回保持。2003年6月2日、死去。享年85。自伝本『リッスン・ユー・ペンシル・ネック・ギークス』が出版された直後だった。

※文中敬称略

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦


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