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「マイナスの感情を乗り越える方法」は哲学者・デカルトに学べ

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私たちに降りかかる様々なマイナスの状況といかに対峙すべきか。『超訳ニーチェ』『嫌われる勇気』につづく、まったく新しいスペシャルな「哲学的人生指南書」として注目を集めている『デカルトの憂鬱』の著者・津崎良典先生が、「●●なとき、デカルトだったらどうするか?」という切り口でデカルト的思考法を伝授!

◆「マイナスの感情を確実に乗り越える方法」はデカルトに学べ!

――デカルトと聞くと、教科書に載っている哲学者という印象があって、名前を聞いただけで怯んでしまう人もいると思います。そんなデカルトに関する本を一般の読者に向けて書こうと思った理由は何ですか?

津崎:単刀直入に言えば、哲学は特権的な才能を持った人のための贅沢品ではなくて、すべての人に開かれた民主的なものだからです。それがいつ必要になるかは千差万別ですが、必ず出番のある生活必需品なんです。だから、「デカルト」の名前を一度や二度しか、あるいは一度も聞いたことがない人でも飛び込めるような本になるよう、テーマの選び方と書き方を工夫しました。同じものでも、どう提示するかで印象が変わってくるので、デカルトをどう見せるかにこの本を作る労力の大半を注ぎました。

――本の目次を見ると、「デカルトはいつも『方法に従う』」だとか、「デカルトは冷静に『驚く』」であるとか、動詞で構成されています。

津崎:最初のアイデアは、デカルトに関する「辞書のような本を作りたい!」ということだったんです。デカルト哲学のキーワードになる名詞を五十音順に並べて作ろうと思ったんですけど、名詞だと漢語が増えるということに気づいて、「じゃあ動詞にしよう」と。動詞には大和言葉が多くて、耳にやわらかく響き、ぐっと身近なものに感じられる。

――たしかに、哲学書を読んでいるというよりも、人生でいずれやってくるであろう難局を切り抜けるための実践的なアドバイスを指南されているような印象があります。

津崎:それも動詞を軸に構成することにした理由の一つですね。そうすることによって、難しい単語が並ぶ本ではなくて、体験型の本になると思ったんです。最近は体験型消費というのが流行っているようですけど、哲学においても体験するということはすごく重要で。18世紀の哲学者・カントは「哲学は学べない」と言ったんです。じゃあ何が学べるかというと、哲学することだけが学べる。つまり、実際にやってみなければ「哲学とは何か?」ということは学べないんです。自転車に乗る方法は自転車を見ているだけでは学べなくて、実際に乗ってみて初めて学べるのと同じように、哲学も体験しないことにはなにも始まらないんです。

――この本を読んでいると、デカルトという人間に触れているような感覚がありました。「デカルトは意外と『休む』」と言われると、ちょっと身近な感じがします。

津崎:そうですよね。デカルトだって聖人ではなくて、私たちと地続きの人間だということです。哲学者にアプローチするためには、「あの人だってひとりの人間なんだ」というところを絶対に外さないことが重要ではないか、と。そうすると、どういう動詞を選ぶかとなったときに、彼と同じ「人間」である自分は毎日いったい何をして過ごしているかを考えたわけです。そうすると、休むことだってあるし、おいしいものを食べたら驚くし、心が沈んだり挫けたりすることもあるし、いつか死ぬだろうなってことも考える。

津崎:卑近な例で申し訳ないんだけども、21世紀の日本人のおっさんである「津崎良典」を描写してみたときに、彼つまり私が日々直面している問題にデカルトならどう答えるか……ということを考えながら書いた本なので、極めてプライヴェートな仕上がりになったと思います。ちょっと恥ずかしいところもあるけれど、デカルトがうまい具合に答えてくれた。だから、教科書に書かれているデカルトとはずいぶん違うけど、専門家にしか知られていなかったデカルトの様々な側面を伝えることはできたのではないでしょうか。

――本のタイトルは『デカルトの憂鬱』となっています。これは僕が勝手にそう感じてしまったことかもしれないですけど、これを読むと、デカルトってよっぽどクヨクヨした人間に思えてきました。

津崎:それはもしかしたら、書いた人間がよっぽどクヨクヨしているからかも(笑)。ただ、シンプルにデカルトに迫っていくと、彼はできれば友達にしたくないタイプだと思わされる。なぜかというと、根に持つところがあるんですよね。自分に起きた嫌なことは絶対に忘れないし、批判に対する反論の機会を逃さない執念深さもある。ユーミンが歌う世界観とは程遠い湿っぽさですね。

津崎:デカルトはよく「豪傑で大胆で負けず嫌いだった」と語られるんだけど、「そうした性格の裏側には何が潜んでいるんだろうか?」と探ってみると、少なくとも私には、クヨクヨ、ネチネチした人間くさい部分が透けて見えてくる。それは、本書でも引用した、というか引用をお認めいただいた中島みゆきの世界観に通じるものです。そういうデカルトの姿を描いてみたということですね。

◆世の中を変えるより自分を変えるほうが楽だし早いし確実

――この本のタイトルに含まれる「憂鬱」というものは、私たちの人生に立ちはだかるものです。この憂鬱さに対するデカルトなりの処方箋を、津崎先生は「精神の外交術」と名付けていますね。この「精神の外交術」とは一体何でしょう?

津崎:人間って、絶対に一人で生きられないでしょ?必ず誰かと一緒に生きていかなきゃいけない。だから、人間はそのための知恵を生み出してきた。共同体の中で培われた知恵は「常識」と呼ばれるし、王様や政治家が決めたものは「法律」と呼ばれる。これらは他人と生活するためのルールです。デカルトが面白いのは、こうしたルールを尊重しながらも、自分で自分用のルールを作っていくところです。

津崎:世間では一応そうなっているけれど、そしてそれはそれとしてきちんと認めるけれど、自分だったらどう判断して行動にうつすかな、そのような自分の行動を他人はどう判断するかな、などと自問しつつ、自分の欲望と他者からの要請というか命令の折合いをつけていく。その「折合いのつけ方」を「精神の外交術」と呼んでみました。これは、「私」と「あなた」や「彼」や「彼女」との、つまり人間同士の関係をうまく処理するための技術です。

――これも「精神の外交術」と関連する話ではあると思うんですけど、私たちは日々の生活で不満を抱いたときに、「周りや世の中が悪いんだ!」と考えがちです。でも、デカルトはそうではなかったようですね?

津崎:もちろんデカルトだって「こんな世の中!」と嘆くことはあったと思います。デカルトが生きたのは宗教戦争の時代で、外では同じキリスト教徒同士が殺し合っている。不和という言葉では片づけられない血生臭さの中を生きていたのだから、不満を感じなかったわけではないでしょうね。ただ、その不満をことさら表現するようなことはなかった。

――そんな悲惨な状況に、なぜ不平不満を言わなかったんでしょう?

津崎:そうするより、自分の思いを変えるほうが楽だし早いし確かだからです。ここが非常に重要です。「世の中を変える!」と言っても、それが実現する可能性はすごく低く、また難しい。デカルトは合理的に判断する人だったので、可能性が低いものに賭けることはしない。それに対して、自分の思いを変えるというのは確実にできることです。なぜならこれは、自分自身だけの問題で、裁量権も自分が握っているから。

――自分の思いを変えるほうが確実だと言われても、やっぱり、なかなか受け入れがたい気がします。デカルトはなぜそこまで合理的に考えたんですか?

津崎:文句を垂れてばかりいる人生の過ごし方もあるとは思いますけど、後から見れば世の中は全然変わってなくて、不平不満を言っていた自分だけが残る。そうなってしまうよりは、違う方向に知的リソースを注ごうじゃないかということですね。もちろん「世の中を変える!」という熱意を失うわけではないし、決して社会の不正を見逃せということでもないんだけど、「改革!改革!」と叫び続けるだけで終わる人生では辛過ぎる。毎日を心地よく生きていくためには、簡単とは言わないけども絶対にうまくいく「自分の思いを変える」ことのほうに重きを置こうということです。

津崎:「思い」とは何かというと、自分の欲望や恨み、悲しみや嘆き、そういった感情などです。そしてこちらのほうをコントロールする。これはね、効果抜群だと思いますよ。哲学は「生活必需品」だと先ほど言いましたけど、そういう意味でデカルトは非常に使い勝手のよい、精神衛生に有効な「薬」を提示していたと思いますね。

◆部下が仕事でミスったら、怒りをどうコントロールするか?

――デカルトの「精神の外交術」に関連する例として、この本の中には「部下が仕事でミスをしたら」という例が登場します。もしオレンジジュースを100本発注するところを1000本発注してしまったら上司はどうするか、と。

津崎:この例で私が言いたかったのは、マイナスの感情をどうコントロールするかということです。怒りや妬み、恨みや悔しみ……こういった感情は決して無意味ではないんだけども、できることならあまり感じたくないものです。ここが重要なところで、マイナスの感情にも意味があって、その感情のおかげでよりよく生きることができる。だからあったほうがいいんだけれど、度が過ぎると問題になる。そこで、部下がミスをしたら、普通は怒りというマイナスの感情が出てきますね。では、なぜこの感情をコントロールすべきかというと、部下を守るためではありません。部下を殴りそうになった自分を守るためです。部下を殴ったら後で必ず後悔するから、そうなる前に怒りをコントロールする。だから、デカルトの考え方には、すごく自己本位なところがある。

津崎:でも、自分のことを大切にできない人に他人のことを大切にすることができるでしょうか?あの例とともに紹介したデカルトの考え方は、一見すると「部下に優しくして、争いごとのない職場環境を築きましょう」という、ぞわっとするような甘ったるいスローガンに見えるかもしれません。でも、全然そういうことではなくて、後で自分が後悔するようなことは避けよう、ということです。後悔しない人生のほうが良いに決まっているんだから、どうすれば怒りをコントロールできるかを考えたほうがいいんです。そのためにも、「超」自己本位で「超」自己愛に満ちた生き方をする。つまり、僕らの自己愛はある意味で中途半端なんです。中途半端だからこそ、その悪しき側面が出てくる。そうじゃなくて、徹底的に自己本位を貫けば他人を大事にできるようになる……これがデカルトの教えだろうと思います。

――そこでデカルトが持ち出すのが「高邁」(genereux)というキーワードですね。

津崎:そうです。高邁というのはほとんど使わない日本語で、僕もデカルトの翻訳で初めて知った単語です。これは「大度」とも訳されて、そっちのほうがわかりやすいかもしれないけど、度合いがすごく大きいってことなんですね。溢れそうなくらいに満タンな状態を指します。それでは、何が満タンかというと、一言でいえば精神の使い方です。その具体例には色々あって、子育てであるにせよ親の介護であるにせよ恋人との関係であるにせよ、私たちは毎日いろんな活動をしているわけだけれども、身体だけではなく常に精神を働かせているわけです。そして、その精神の働きを最大限にするのが「高邁」ということですね。

――常に何か考えを巡らせているというのはくたびれそうですけど、デカルト的にはそこにメリットがあるということですか?

津崎:なぜ精神の働きを最大限にするべきかといえば、そうすることによって満足感が得られるからです。ただ、ここで重要なのは、許容量を超えてしまっては絶対にいけないとうこと。だから「デカルトは意外と『休む』」ということで、休息が大事になってくるんです。自分を愛するというのも精神の働きの一つですが、自分を愛する度合いが足りないせいで、中途半端に人に優しく接してしまったり、中途半端に意地悪してしまったりする。でも、自分を徹底的に、つまり最大限に愛せるようになると、にわかには信じられない人間が出てくる。つまり、礼儀正しくて、愛想がよくて、誰もが友達にしたいと思うような人間です。

――デカルトにとって高邁さが重要なことはわかったんですけど、そこまで完璧な人間なんてこの世にいるのかと思えてくるんですが……。

津崎:たしかに高嶺の花みたいなところはあるんだけど、スポーツ選手はそれを実現できているんじゃないかなと思っていて。スポーツ選手が日々自分の限界に挑戦して、全力を出し切る姿は非常に清々しいものがありますよね。それは試合に負けた人にも感じます。もちろん悔しさを感じてはいるんだろうけれど、そこには湿っぽさがない。あるいは引退会見時の清涼感もそうです。あの思い切りのよさはどこから出てくるのかということですね。うまくいかなかったとき、普通は「あいつのせいだ」とか「自分のあそこがダメだった」とか考えてしまって、全然爽やかになれないわけです。でも、スポーツ選手は負けても「なぜか」かっこいい。あの清々しさは、自分の能力の限界までトライした人たちでなければ到達できない幸福感から滲み出てくるものです。あの勇姿を、私たちの日々の生活に応用するとどうなるか……デカルトが「高邁」というキーワードに込めた狙いを日常生活の中にぐっと引き寄せてみると、そういうことが言えるんじゃないかと思います。

◆「インスタ映え」を狙っている人が疲れる理由

――2018年という時代に引き寄せて『デカルトの憂鬱』を読んだとき、印象的なのはデカルトの驚きに対する考え方です。去年の流行語大賞に「インスタ映え」という言葉が選ばれましたが、「インスタ映え」というのは、常に驚きを追い求めているとも言えますね。

津崎:デカルトという人間は、あるいはそんな人間に関心を寄せる私は、もっともインスタ映えから遠いかもしれない(笑)。いずれにせよ、インスタ映えを求めないのがデカルト的な生き方でしょうね。インスタ映えを狙っている人は皆、疲れてるでしょう? それはデカルトから見ると哀れです。なぜ疲れるかというと、デカルトのキーワードで言えば「驚き過ぎている」から。彼らは常に珍しいものを探していて、皆に驚いてもらうために刻一刻とアップし続けている。アップしている人もそれを見ている人も、驚き過ぎているんです。

――本の中に、「驚くことが習慣になってしまった人は、『希少かつ異常に見えるもの』をあちこち探し回ってばかりいて、これについて腰を据えて学ぼうとしない」という一文が出てきます。これは耳の痛い話でもありますが、でも、じゃあ腰を据えて学ぶというのはどういうことなんでしょう?

津崎:勉強するといっても、大上段に構える必要はないんです。SNS疲れのあなたにデカルトならどうアドバイスをするかというと、「時間の緩急をつける」ということでしょうね。SNSを見るなとは言わないけど、見ない時間を作ったほうがいいとは言うんじゃないかしら。では、SNSを見ない時間に何をするか。自分のこれまでの経験と「比較」してみるんです。ここに落とし穴があるんだけど、SNS疲れをしている人って、自分の経験と比較するから落ち込むわけですよね。「私はインスタにアップできないような人生だ」と。私もいつもそう思います。ホームパーティーなんてやらないし、呼ばれないしね。

津崎:でも、よく考えてみる。自分の人生を振り返って、誰かがインスタグラムにアップしているような輝かしい出来事はなかったのか……と。遠い過去にある、それを思い出すとほっこりするセピア色の輝かしさ。それは誰かが今インスタグラムに載せている輝かしさとは違うかもしれないけど、すごく大事なものであるはずなんです。そのことを考えられるだけの時間の余裕を持つということですね。そうして自分の思い出を「想起」し、忘れていることがないか「枚挙」し、「比較」や「分析」をする。これらすべてが「学び」の究極的な意味です。そのゆとりを持つためにも、SNSオフ日を設けるということですね。

――でも、頭ではわかっていても、それを実践するのは難しいですね。『デカルトの憂鬱』の中には、西洋哲学史における重要なキーワードとして「習慣」(ハビトゥス)というものが紹介されていますけど、何かを習慣づけるというのは大変なことですね。

津崎:そうなんです。やっぱり、誰だって見ちゃうよね。「SNS疲れしちゃってる私は嫌いだ、だから今日から心機一転、SNSを見ないようにする!」これがダメなんです。心機一転というのはもっとも非デカルト的な発想です。デカルトにとって大事なのは、急ぎ過ぎてはいけないということ。少しずつチャンスを手繰り寄せながら、日常生活で巻き起こる様々な問題とうまく付き合う方法を考える。これがデカルトの考えです。誤解していただきたくないんですが、この本の著者はデカルトのように生きているわけでは全然ありません(笑)。やっぱり自分とは非常に違う人間だから勉強したいと思うし、こうなりたいと思うからデカルトについて研究しようと思ったんです。ですから、皆さんにも、この本を通じてデカルトの哲学をぜひ体感してもらいたいですね。

構成/日刊SPA!編集部


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