「わろてんか」月の井団吾のモチーフか。初代桂春團治の破天荒伝説

エキレビ!

2017/12/30 10:00

10月から始まったNHKの連続テレビ小説「わろてんか」も前半が終わった。大晦日の紅白歌合戦では「わろてんか」のコーナーも設けられ、後半は年明け1月4日から始まる。このドラマのヒロイン・北村てん(葵わかな)とその夫の北村藤吉(松坂桃李)は、吉本興業(創業時の社名は吉本興行部)の創業者である吉本せいと夫の吉本吉兵衛(泰三)夫妻がモチーフとなっている。
※「わろてんか」全話レビューはこちらから

“切腹”して客に詫びた初代春團治
「わろてんか」はあくまで現実をもとにしたフィクションだが、所々で実在の人物やそのエピソードを投影したと思われる部分も見受けられる。たとえば、第10週より「落語界の風雲児」として登場し、てんが自分の寄席の所属芸人にしようと動いた月の井団吾(浪岡一喜)は、おそらく明治から昭和初期にかけて活躍した実在の落語家・初代桂春團治(1878~1934)を下敷きにしているのだろう。高座名に「団」とつくところからしてそうだし、大の遊び人というところも共通する。


ドラマに出てきた話にも、実際の春團治のエピソードに取材したと思われるものがちらほらあった。たとえば、兄弟子の月の井団真の再起をかけた高座に、団吾が人力車で乗りつけ、客席の後ろから現れたかと思うと、自分も高座に上がると口上を述べ、団真の“前座”役を果たすというシーンがあった。状況は異なるものの、春團治にもこれと似たような話がある。

あるとき、看板に出ている自分の順番が気に入らないと、彼はなかなか寄席に現れなかった。客がいらいらして騒ぎになろうという寸前、やっと登場すると、「へい、春團治でござい、へい春團治でござい」という掛け声とともに、客席の後ろから高座に上がってみせたという(矢野誠一『新版 女興行師 吉本せい──浪花演藝史譚』ちくま文庫)。

春團治にはこうした意表を突く演出に、抜群の才能を示した。またあるときには、“切腹ショー”を催したこともある。これは本来、バレ咄(猥談)の会を開くつもりが、会場に借りたお茶屋が、開催の数日前になって会の正体をいぶかしんで断ってきた。あわてて懇意にしていた料理屋に場所替えしたものの、ここも開催当日になり、警察から会をすることはまかりならぬと警告を受ける。しかしすでに券を売り切り、買ってくれた人たちにいちいち断ってまわるにも時間がない。そこで春團治が思いついたのが、「連木(すりこ木)で腹を切る」ということわざどおり、客の前で“切腹”して謝るという趣向であった。作家・富士正晴による評伝『桂春団治』(講談社文芸文庫)によれば、それはこんな感じだったという。

《逆さ屏風を立て、台には白布を敷いて舞台装置をととのえ、春団治ら四人は死出の旅路の白装束で控えている。春団治が今までの経過を説明して、切腹しておわびすると口上をいうと、[引用者注──弟子の]小春団治が三宝にうやうやしく連木をのせて運び、春団治が連木で腹を切りつつ赤い布をひっぱり出して血に見せる。そういうことで、何回かにわけて座敷へ入れた客を笑わせてさばき、香料や香典さえも手に入れたのだが、警察にふみこまれ、警官にそっくりそのまま見せたが、却って機嫌を損じてしょっぴかれ、一晩ほうりこまれていたが、結局は春団治らの人気を高めただけだった》

このほか、春團治は女性関係でも何度となく騒ぎを起こしている。妻子を捨てて9歳上の商家の未亡人のもとへと走ったときには、「後家殺し」と呼ばれ、これまたかえって人気を高めた。

豪放磊落で、向こう見ずな春團治の人生は、かつて「芸のためなら女房も泣かす」と歌われたほか、小説や芝居などさまざまな作品でとりあげられてきた。「飲む・打つ・買う」は芸の肥やし、破滅型の天才芸人の系譜は、春團治をもって始まったともいえる。

春團治を引き抜くには?「攻めない、待つの」(by.吉本せい)
明るく奔放な語り口に、無頼なキャラクターもあいまって初代春團治は人気を集め、上方落語を代表する存在となった。その春團治が、吉本吉兵衛・せい夫妻の経営する吉本興行部の所属となったのは1921(大正10)年のこと。このころ吉本は何軒もの寄席を買収して、大阪の演芸界に勢力を拡大しつつあった。春團治を手に入れることは、落語界を一気に制し、拠点となる大阪・法善寺の寄席「南地花月」の目玉にもなると、せいたちは以前よりひそかに画策していた。

しかし、春團治はどの寄席からも引っ張りだこで、経営基盤のまだ弱かった吉本興行部はなかなか手を出せなかった。そこで吉本せいは何をしたかというと、とくに攻めるでもなく、ひたすら“ある時期”が来るのを待っていたらしい。

このころ、春團治は「浪花派」なる芸人グループを結成したものの、すぐに借りていた寄席の家賃が払えなくなる。やがて寄席を追い出されると、春團治の一行は中国地方から九州にかけて巡業の旅に出た。しかし放蕩家の春團治のこと、どうせすぐに無一文になるものと予想したせいは、そのときを耽々と待ったのだ。

案の定、春團治は1年ほどで莫大な借金を抱えて大阪に戻ってきた。せいはそこを狙って、前貸金2万円、月給700円という破格の待遇で吉本興行部に迎え入れる。「わろてんか」でも、ヒロインのてん夫婦が、やっと自分たちの寄席に引き抜いた月の井団吾に多額の借金を肩代わりさせられる場面があった。てんたちにとってはいかにも迷惑なこととして描かれていたが、現実に吉本が春團治を迎えたときには、むしろその後の月給から借金分を差し引いて、全額を返してもらうまで縛りつけることができた。吉本せいはそこまで見越していたのである。

もっとも、それだけで吉本側が春團治を物にできたわけではなく、両者をとりもった人物もあったようだ。また、他方では、春團治引き抜きの話はもともと、せいの夫の吉本吉兵衛が、当時手を結んでいた太夫元(芸人を寄席に派遣する業者。「わろてんか」に出てきた寺ギンの仕事がこれにあたる)の岡田政太郎に持ちかけられたとする説もある。この説では、春團治一行が中国・九州の巡業に出たときも、吉兵衛のほうでその資金を肩代わりし、春團治が大阪に戻ってきたところで先述の額で契約を結んだという(増田晶文『吉本興業の正体』草思社)。

果たして、春團治引き抜きの功労者は、せいなのか吉兵衛なのか。前出の『新版 女興行師 吉本せい』によれば、せいは吉兵衛の死後、生前、夫の遊び癖にさんざん悩まされた恨みもあってか、彼の手柄まで自分のものにしてしまったふしがあるというから、この一件も実際は吉兵衛によるところが大だったのかもしれない。

煎餅をレコードにして売り出すも大失敗
初代春團治はメディアとの関係においても先駆者だった。吉本興行部の所属になってから2年後、1923年にはレコードへの落語の収録を始めている。富士正晴『桂春團治』によれば、ぶっつけ本番で2枚のレコードに噺を収める勘のよさであったという。ただし、吹きこむ蓄音機のラッパの上に、終了の合図の赤ランプがともるや否や「頼りないもんやな、アッハッハ」と大笑いして、そこまで録音されてしまい、やり直すということもしばしばであったようだ。なお、「頼りないもんやな」という言葉について、富士正晴は《客席の反応のないことが頼りなかったのであろうか》と推測している。

レコードといえば、「物言う煎餅」なるレコードを出したこともあった。これは文字どおり煎餅をレコードにして、小噺を2つほど吹きこんだものだ。大正末の1926年に行なわれた天理教の大祭に店を出して販売したものの、それなりに手をかけただけに値段を張ったのが仇となり、さっぱり売れず、大損失に終わったらしい。

同じころ、ラジオ放送が始まると、春團治はそこでも落語を披露するようになる。しかし、これは吉本興行部には無断での出演だった。当初、吉本は所属芸人のラジオ出演を制限しており、ルールを破った場合は、罰金だけでなく、会社への借金を一気に全額払う決まりとなっていた。それでも春團治が出演したのは、厳しいルールへの反感があったようだ(富士正晴『桂春團治』)。この一件は新聞や週刊誌も巻きこんで大騒動となり、春團治は一時行方をくらまし、吉本は彼の家を差し押さえると、解雇する構えに出た。

吉本が所属芸人にラジオ出演を制限したのは、ラジオに芸人が出れば、寄席に客が来なくなるとの危機感による。しかしふたを開けてみればまるで逆だった。ラジオ出演が呼び水となって、吉本の寄席には春團治見たさの客が押しかけたのだ。結局、会社側は方針を転換して、芸人のラジオ出演を認め、そして春團治の解雇も取り下げたのである。

愛弟子に継げなかった「春團治」の名
頂点をきわめた春團治も、晩年は不遇であった。昭和初期には漫才が台頭し、落語人気に陰りが出ていた。また、春團治自身も体調がだんだん悪くなる。1934(昭和9)年3月には入院して手術を受けるも、胃がんですでに手遅れだった。このときの治療費も吉本興業(1932年の改組により社名変更)が肩代わりしたとされる。折しも前年には、愛弟子の桂小春團治が活動を縛られることへの反発から吉本を自ら辞めていた。春團治は以前より小春團治に自分の名前を継がせようと考えていたが、この一件で不可能になる。結局、春團治の名跡は、彼が吉本に対し積もり重ねた借金を肩代わりさせる代わりに、桂福團治が襲名するという段取りで吉本側が決め、春團治も押し切られたという。

愛弟子に名前を譲れなかったのは当人にしてみれば無念であったろう。だが、逆にいえば、莫大な借金をチャラにするほど、春團治の名は彼の手で価値を高めていたということでもある。春團治はこのあと1934年10月6日に死去、そのまま福團治が二代目春團治を襲名するにいたった。

初代春團治の死を境に上方落語は衰退の一途をたどる。終戦直後には関西に落語家は数えるほどにまでなっていた。それでも、六代目笑福亭松鶴・三代目桂米朝・五代目桂文枝、そして二代目の息子の三代目春團治のいわゆる「上方落語四天王」の活躍により、このあと上方落語は見事に再興を果たす。

他方、吉本興業も戦後、1950年に吉本せいが亡くなってからは厳しい状況が続いた。その復活の牽引力となったのもまた、笑福亭仁鶴や桂三枝(現・六代目文枝)といった当時の若手落語家たちであった。
(近藤正高)

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