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「始まりがあれば、終わりもやってくる」――日米14球団で活躍。元メジャー投手・大家友和が見つめてきたプロ野球の現実

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野球マニアなら思わず唸る、稀有なキャリアを持つ男・大家友和。

日本のプロ野球在籍5年間でわずか1勝の成績で渡米し、野茂英雄に次ぐ(当時)メジャー通算51勝を記録した。2010年に日本の球界復帰後は、右肩手術を経てナックルボーラー(特殊な球だけで勝負するピッチャー)に転向。メジャー復帰を目指したが、かなわず、2017年6月にユニフォームを脱いだ。

現役24年間で在籍したのはメジャーから日本の独立リーグまで14球団。収入もめまぐるしく変わり、年俸5億3000万円から月給10万円台の生活までを経験した。変化する環境の中で高い志を持ち、挑戦を続けられたのはなぜだったのだろうか。
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【プロフィール】

大家友和(おおか・ともかず)

1976年、京都府生まれ。1994年、京都成章高校からドラフト3位で横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)に入団。98年にボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んで渡米。99年に日本人9人目のメジャー昇格を果たす。ボストン・レッドソックスやモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)などメジャー8球団を渡り歩く。通算3度の2桁勝利を含めメジャー通算50勝を達成。09年には通算1000投球回数に到達している。10年に横浜へ復帰し、右肩手術を経てナックルボール主体の投手に転向。日米の独立リーグでプレーしながら再び大リーグを目指し、16年12月には40歳にしてボルティモア・オリオールズとマイナー契約を結んだ。17年3月に戦力外通告を受け、6月現役を引退。18年より横浜の2軍投手コーチに就任する。

プロ野球選手は個人事業主。結果が出せなければ、クビになってしまう

――渡米を考えるようになったのは?

プロとして結果を出せない状況を何とかしたいという思いからでした。当時の僕は1軍にはなかなか呼ばれず、2軍では周囲にうまくなじめなかったのが事実です。理由はちょっとしたことだったかもしれません。例えば、投手の調整方法にレフトとライトのポールの間を走るトレーニングがあり、5往復するメニューを4本でサボろうとする先輩がいました。そのこと自体はどうでもいいのですが、問題は僕たちにもサボりを強要すること。「真面目に練習するのは格好悪い」という雰囲気すら漂っており、そんな中で黙々とトレーニングをする自分は周囲から浮いた存在でした。

トレーニングの効果を知りたくて、指導者に練習メニューの意図を細かく聞いてうるさがられることもありました。当時の私は若く、言動が生意気に映るところもあったかもしれません。でも、プロ野球選手は球団と雇用契約をしている従業員ではなく、個人事業主。結果を出さなければクビになってしまいます。パフォーマンスを上げるために、納得のいく練習をしたかっただけなのですが、理解してもらえませんでした。

――プロ4年目、1997年のシーズンオフにはアメリカの教育リーグに参加されていますね。

「自腹でもいいから行かせてください」と球団にお願いし、ボストン・レッドソックスに受け入れてもらって、フロリダで約40日を過ごしました。教育リーグの参加者は実力的にも未熟な若い選手が大半。メジャーでは最底辺と言えるキャンプだったものの、初めてアメリカのプロ野球の世界に触れることができ、日本にはない選手の育成環境を知って驚かされました。

――どんな点に驚かれたのですか?

選手のパフォーマンスを上げることを最優先にしている点です。例えば、ある投手が打ち込まれた時。日本では特に若い投手が打ち込まれた場合、「教育的指導」の名のもとに続投させることがあります。報道でも「愛のムチ」などと表現して監督を讃えることさえありますが、とんでもない。選手にとってはさらし者にされるだけです。ところが、アメリカでは打ち込まれる前に交代させて傷口を広げないようにするんです。選手が自信を失うようなことをするのは、選手はもちろんチームにとっても百害あって一利なしという考えです。こんな環境で野球をしてみたいと強く思い、渡米の意思を固めました。
自分でコントロールできないことに一喜一憂しない
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――1998年にレッドソックスとマイナー契約を結んで渡米。メジャー傘下の3Aに次ぐ2Aで初シーズンを迎えました。当時のご心境は?

在籍5年間で1勝とほとんどチームに貢献できなかったにも関わらず、横浜は僕を自由契約選手としてアメリカに送り出してくれました。ありがたかったですね。ただ、僕がメジャーで活躍できると思っていた人は誰もいなかったのではないでしょうか。嫌な言葉も聞こえてきましたが、アメリカで野球ができることへの喜びが先に立ち、不安は感じませんでした。

2Aでは遠征時に10時間以上のバス移動をしたり、過酷なスケジュールでプレイを強いられるのは日常茶飯事。球団から支給されるミールマネーも1日20ドルと少なく、クラブハウスで食事をするのもその中から支払うことになっていました。日本では2軍で隣県に遠征するにも泊りがけでしたし、キャンプ中や試合前の食事は球団持ち。ギャップは感じましたが、こういう話をした時に「苦労されたんですね」と言っていただくと、ちょっと面食らってしまいます。日本から期待されてメジャーにいく主力選手なら、最初からハイレベルの生活環境を代理人が勝ち取ってくれますが、それは例外。アメリカの野球では国籍を問わずマイナーから這い上がっていくのが当たり前で、環境にアジャストできないなら、引退するしかない。自分の意思で海を渡ったのだから、どんな環境であっても、すべてを受け入れるつもりでした。

――開幕から11連勝し、渡米10カ月で日本人として9人目のメジャー昇格を果たしました。以後、2009年までにメジャー8球団で活躍し、最高年棒は5億3000万円。トロント・ブルージェイズ在籍時の2007年にはメジャー通算50勝を達成されました。

日本でも大きく報道されましたが、当時は右肩の不調もあって調子が上がらず、心中は複雑でした。結果として、メジャー通算50勝を挙げた1カ月後にはメジャー枠から外され、その翌月には契約解除になりました。再びメジャーのマウンドに登ったのは、クリーブランド・インディアンス在籍時の2009年5月30日。ヤンキース戦で中継ぎとして登板し、メジャー通算1000投球回数に到達しました。

僕の場合、勝ち星へのこだわりはありませんでした。勝ち星というのは例え完封をしても、味方打線の援護がなければつきません。サバイバルの激しいメジャーでは、環境変化に耐える精神力が求められます。気持ちの安定を保つために、自分でコントロールできないことには一喜一憂しないことが習い性になっていました。

投手として大切にしてきたのは、派手な三振を狙うのではなく、着実に相手投手を打ち取ってアウトを重ねていくこと。もちろん、打たれれば交代させられますが、自分がマウンドに立っている間はとにかく最小失点で切り抜けることを心がけて投げ続けました。その積み重ねが投球回数なので、メジャーでの投球回数が1000回に達成したことには感慨深いものがあります。
チャレンジを続けられたのは、「生活設計」があったから
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――プロ野球人生で最も大きな挫折は?

2010年に横浜へ復帰して2年目。オフに右肩を手術し、回復するものと思っていた球速が時間をかけても戻らず、大きな衝撃を受けました。その時点で横浜からはすでに戦力外通告を受けており、「引退」という言葉も頭をよぎりました。そんな時に何か打つ手はないかなと考えて、思いついたのが、ナックルボールでした。

ナックルは、ボールをほぼ無回転で投げることによって不規則に回転しながら落ちる球種で、「速さ」ではなく「変化」で勝負できます。最初は遊び感覚で投げ始めたのですが、結構変化して、投げ込むと精度が上がっていった。代理人に見せてみたら、「面白いかもしれません」と実戦で投げる場を探してくれ、独立リーグの富山サンダーバーズと契約。挫折が挫折でなくなってしまいました(笑)。

――ナックルボールは日本ではなじみの薄い球種。技術を磨くのは苦労されたようですね。

初めて実戦でナックルを投げた時は、「真面目に投げろ!」と強烈なヤジが飛びました。観客席から見れば、無回転のボールは山なりのスローボールにしか見えないからです。待遇も月収10数万円程度。家賃や食費などを差し引くと持ち出しの方が多く、現役晩年は野球選手としての収入はほとんどありませんでした。

――それでも現役を続けたのは?

ナックルが思いのほか進化して、「まあ、どこまでいけるかやってみようか」と投げ続けるうちに、年月が過ぎたというのが正直なところです。30代後半から40代というプロ野球選手なら引退していてもおかしくない年齢でありながら、若い選手たちに混じって新しいことにチャレンジするということに楽しさも感じていました。ナックルボーラーに転向後2度にわたって渡米し、最終的に戦力外通告を受けたとはいえ、メジャー再挑戦までできて、引退時に思い残すことはありませんでした。

ただし、チャレンジを続けられたのは、先立つものがあったからです。僕はメジャーで得たお金を運用に回し、日本では不動産投資もしていました。生活設計は入念にしてきた方だと思います。プロ野球の世界に入って以来、お金のことを勉強せず、将来の備えがなかったために引退後に生活に困る人たちの姿をたくさん見て、危機感を抱いていたからです。

アスリートのほとんどは20代、30代で引退しますし、怪我などで突然仕事を失うこともあります。僕自身は現役の24年間で14球団に在籍したので、より一層感じることかもしれませんが、会社員であっても、仕事というのは始まりがあれば、終わりも100パーセントやってきます。その時に、お金を理由にやりたいことをあきらめるのはもったいない。だから、若い選手たちには「備えは大事」と話します。うるさいオヤジだなと思われているかもしれないですけど(笑)。

――2018年からは横浜の2軍コーチに就任されますね。

すでにグラウンドには何回か行き、選手にもスタッフにも士気の高さを感じました。そういう場所に呼んでいただいたというのは本当にありがたいこと。やれるだけのことをやって、与えていただいた役割に応えたいです。ただ、いずれ終わりが来るのはコーチの仕事も例外ではありません。その時にどういう自分でいられるか。おそるおそるのぞいてみたいような気もします。
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文:泉彩子 写真:嶋並ひろみ


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