【がんを生きる緩和ケア医・大橋洋平「足し算命」】伊勢湾台風とオヤジ

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2022年9月26日=1,268*がんの転移を知った2019年4月8日から起算

▽忘れられない1日

台風シーズンと言われるこの9月において、私には忘れられない1日がある。この話に入る前に。先日の台風15号で被害を受けた方々、さらにはこれまでに今年も台風の影響で何がしか日常の生活を奪われている方々、お見舞い申し上げます。さて私が忘れられないその日。それは小学4年の2学期が始まった日、わたしは三重県桑名市から同県木曽岬村へ(現在は木曽岬町)引っ越した。夏休み明け初日の転校生という立場もなかなか緊張したが、その日ではない。ちなみに木曽岬(正式には「きそさき」と呼びます)は亡きオヤジの故郷である。前置きが長くなったが、忘れられないその日は“9月26日”である。ご存じの方もおられよう。この日、伊勢湾台風が三重県木曽岬村を全村水没させた。高潮でやられた。昭和34年、1959年のことだ。私は「マイナス4歳」だった。3000人あまりいた村民のほぼ1割にあたる328人が亡くなった(1998年3月31日発行「木曽岬町史」より)。なおわが地元・木曽岬は、1989年に「町」となるまでは、「村」だった。

▽伊勢湾台風

生前のオヤジは伊勢湾台風の状況をしばしば私に語ってくれた。木曽岬に生まれ育った彼はこの村の中学校で教えていた。担当教科は英語。昭和10年生まれのオヤジだから、新米教師の頃だったと察する。何年生を担当していたかは、私がもう忘れてしまったが、当日は土曜日だったと繰り返し話していたことを記憶する。もちろん台風の接近は誰もが知り得るところだったが、生前のオヤジによると午前中は雨風も強まっておらず一部には雲の切れ間もみられたそうだ。「寄り道せんと、真っすぐ家に帰るんやぞ」授業が終わった昼、生徒たちに彼は声をかけたそうだ。それから猛烈な勢いを持ったこの台風が三重県から愛知県を駆け抜けて行ったことは、後の記録が示す通りである。4人兄弟姉妹と両親のみんなが自宅の2階に避難できたことでオヤジを含めて家族全員が命は助かった。その3年後にオヤジがオフクロと結婚したことで、私が誕生した。伊勢湾台風による影響いかんでは、いまオレはこの世に存在しなかったかもしれない。さてこの“9月26日”。木曽岬神社(小学校からおよそ700メートルの距離にある)で毎年開かれる慰霊祭には私の在学中、小学校児童も何人か参加してたんじゃないかな。たとえば児童会長あるいは各学年クラス学級委員など。1学年60人ほどの小学校だったけれど、その式典に参加した記憶は私にはない。でも朝礼で校長先生が毎年この話題に触れていたことは、どことなく覚えている。

▽再会は先延ばし

オヤジはすでに他界している。がん、詳細に言えば悪性リンパ腫だった。命日は2013年11月17日。はや9年近くもたったか。この間オレにもあまたの悲喜こもごもが訪れた。まぁ最大の悲しき事は、がん発病かな。オヤジとはそう遠くないところで再会して、わが闘病、さらにはこの伊勢湾台風についても語り合いたいものだ。しかしながらこの再会、もうしばらく先延ばしにしてほしい。なぜならばいまだこちらで、もうちょこっとやりたいことがあるから。その中身はここでは秘密。そう言いたいところだったけれども、すでにこのコーナーでしゃべってた。かなうならば、「夢、そして妄想~発病4年を迎え」(2022年6月24日)もご笑覧くださいな。(発信中、フェイスブックおよびYоuTube“足し算命520”)
おおはし・ようへい 1963年、三重県生まれ。三重大学医学部卒。JA愛知厚生連 海南病院(愛知県弥富市)緩和ケア病棟の非常勤医師。稀少がん・ジストとの闘病を語る投稿が、2018年12月に朝日新聞の読者「声」欄に掲載され、全てのがん患者に「しぶとく生きて!」とエールを送った。これをきっかけに2019年8月『緩和ケア医が、がんになって』(双葉社)、2020年9月「がんを生きる緩和ケア医が答える 命の質問58」(双葉社)、2021年10月「緩和ケア医 がんと生きる40の言葉」(双葉社)を出版。その率直な語り口が共感を呼んでいる。
このコーナーではがん闘病中の大橋先生が、日々の生活の中で思ったことを、気ままにつづっていきます。随時更新。

当記事はOVOの提供記事です。

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