稀代の天才打者・田尾安志が明かす「衝突とプライド」。プロ入り前に長嶋茂雄の邸宅を訪問

日刊SPA!

 門田博光、田尾安志、広岡達朗、谷沢健一、江夏豊……昭和のプロ野球で活躍したレジェンドたちの“生き様”にフォーカスを当てた書籍『確執と信念 スジを通した男たち』。

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは? 現役時代は天才打者の名を欲しいままにした男、田尾安志。そんな彼が選んだ「新設球団・初代監督」という茨の道。“信念の男”と呼ぶにふさわしい田尾の生きざまに迫る(以下、同書より一部編集の上抜粋)。

◆信念の男

人は夢を語るのが好きだ。しかし、夢と夢想は違う。夢は人生の目標として位置付けられるが、夢想はあてもないことをただ思い浮かべるだけ。だが、人は意味がないと知っていても夢想に耽ることも大好きだ。

勝負師に“たられば”の質問をたくさん投げつけたくなる欲求が湧き起こるのも、きっと夢想してみたいからだ。だからといって、むやみやたらにアスリートに投げつけると火傷する。

“孤高の鬼才”門田博光は「“もし”の話はわからん」と一刀両断した。他のアスリートも同様な反応を見せる場合が多い。日々変化する結果を追い求めて“今”を生きてきたのに、たらればの話を投げかけられることほど無意味なものはない。それでも“たられば”で聞いてみたい。そうでもしないとやりきれないと思える男がいる。

田尾安志。

中日、西武、阪神の主力打者として活躍し、そして言わずと知れた東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督を務めた男である。

「あの環境がそんなに苦にならなかったのが自信ですね。あの一年で『自分ってこんなに図太い人間だったんだ』と気付いたほどですよ」

田尾が穏やかすぎるほど柔和な表情で語る。

‘80年代前半、プロ野球界きってのイケメンとしてシャンプーやアルコール飲料のCMにも出演した中日が誇る全国区のスター。それからおよそ20年の時を経た’04年、田尾は仙台に降り立った。球界再編に伴い産声をあげた、仙台を拠点とする楽天ゴールデンイーグルスの新監督に就任するためだ。50年ぶりの新球団参入とあって、プロ野球界は新たな時代を迎えようとしていた。そんな球団の初代監督として白羽の矢が立ったのが、当時50歳の田尾安志だった。

◆「確実に最下位になる球団の監督がどうなるか知ってますか?」

「もともとは、GMのマーティー(キーナート)と球団代表の米田(純)さんと食事をしたときに、『今度球団を持つことになったんですが、どなたか監督としていい人材はいないでしょうか』と聞かれたのが発端です。その問いにいろんな人の名前を挙げ、良い面と悪い面を説明していったんです。そしてひととおり話が終わった後に『田尾さん、あなたが監督をやってみませんか?』と言われました。最初から僕にやらせようと思っていたんでしょうけど、『軽いなぁ』って思ったのが第一印象。だからそのとき僕はこう言いました。『確実に最下位になる球団の監督がどうなるか知ってますか? 周囲からの評価はガタ落ちし、否が応にも厳しい立場に晒さ らされます。地獄に落とさないでください』って」

まさか自分に監督依頼がくるとは思ってもみないことだった。現役を引退してから13年間解説者を務め、誰にも忖度することなく球界に物申し続けてきた。しかし、一球団の監督ともなればそうはいかない。

「新しいチームだからといって負けを前提にせず、ある程度戦えるチームでないと球界のためにはならない」

このとき、田尾は解説者として13年間やってきた自負からそう思った。

まずは家族に相談し、妻が反対するなら断ろうと思った。現在、ロックミュージシャンMADAM RAYとして活動を続ける妻の宏子は「パパ、いいチャンスじゃない!」と背中を押してくれた。さすがロッカーだ。

‘04年の秋口に三年契約で新設球団の監督に就任。田尾は’05年の開幕前まで取り上げられない日がなかったほどメディアに露出しまくった。出航前は上々だった。

田尾は監督をやるにあたってひとつの決め事を自分に課した。それは、選手を好みや人間関係で依怙贔屓せず、フェアな目で能力を見極めること。これは田尾にとって、16年間の現役生活、三度の移籍から身に染みて得た教訓でもあった。

だが、三年契約で新設球団の初代監督となった男は、初年度の最終戦を待たずして更迭を告げられた。

なぜ田尾は楽天初代監督を一年で解任されたのか―。

その答えを知るためには、まずは田尾の経歴に触れ、彼がどんな男だったかを理解する必要がある。

◆プロ入りまでの苦難の道

甘いルックスに爽やかな出で立ち。エリート街道をまっしぐらに歩んできたと思われがちな田尾だが、プロ入りまでの道のりは決して順風満帆ではなかった。高校も野球名門校ではなく、甲子園に一度も出場したことがない府立泉尾高校の出身。両親は香川県から大阪に出てきて町工場を営んでおり、田尾少年は朝から晩まで働きづめの両親を見て育った。

病気を抱えた弟との二人兄弟ということもあり、田尾には早い段階から自立心が芽生え、弟の面倒を引き受けながらスポーツと勉学に勤しんだ。そういった家庭環境からか、田尾は私立の野球強豪校に行かず地元の公立高校に進学した経緯をもつ。進学した公立高校にも野球部は存在していたが、甲子園を狙えるどころかまともに県予選に参加できるかどうかというレベルだった。

「入学して野球部に入ると、先輩が5人しかいないんです。僕ら一年生が入ってきて、ようやく試合ができる状態でした。それに、公立高校なので練習は校庭しか使えず、バッティング練習は週に2回しかできない。一年生の夏の県大会は17対0のコールド負けです。こんな状態から、自分たちで『どうやったら強くなるか』を毎日考えて練習していました。どうやったら強豪高に勝てるのか。何が足りなくて、どうすれば補えるのか。現状の立ち位置を見直し、チーム力をアップすることだけを考えて練習してきました。そして、自分たちの代になった三年生最後の夏には、府のベスト4までいきました。学生時代から恵まれた環境でノルマをこなす野球というのをやってきていないんです。どこへ行っても『与えられた環境下でどうしたら勝てるのか』を模索し続けてやる野球なんです」

その後、田尾は野球推薦ではなく一般入試で同志社大学へ入学。大学時代は投手と打者の二刀流として鳴らし、大学二年生から全日本のメンバーに選ばれた。そこで、同い年の中畑清、2つ下の江川卓と顔見知りになった。

◆江川卓と訪れた“ミスター”の邸宅

「大学4年生の6月、カリフォルニアで開催される日米大学野球選手権で全日本代表に選ばれて、二年生の江川と一緒に田園調布にある長嶋(茂雄)さんの家に行ったんです。今となっては大豪邸ですけど、当時は『そんなに大きくないんだな』と思ったのを覚えています。長嶋さんっていったらお城みたいな家に住んでいると思っていましたから。懇意にしていたカメラマンの計らいで長嶋さんの家にお邪魔したんですけど、秋のドラフトで巨人から一位指名される線もあったので、カメラマンとしてはなんとか写真に収めたかったんだと思います。お小遣いとしてドル紙幣で500ドルもらいました。当時のレートだと日本円で12~15万円ですね」

巨人監督一年目の長嶋茂雄と、まだ大学生の田尾安志、江川卓との貴重なスリーショット。今だとプロアマ規定に抵触する事例だが、コンプライアスなんて言葉が使われてない全体的に緩い時代で、まだまだ牧歌的な空気が流れていた。

そして七五年、田尾はドラフト一位で巨人ではなく中日に入団する。大学野球で切磋琢磨した盟友中畑は、同年ドラフト三位で巨人へと入った。

「バッティングには自信があったんですが、大学時代はピッチャーだったんで守備や走塁をまったくやってませんでした。中日に入ってから練習したんです」

(次回に続く)

【田尾安志】

‘54年、香川県生まれ。左投左打。同志社大学を経て’75年にドラフト一位で中日ドラゴンズに入団すると、俊足巧打のリードオフマンとして新人王を獲得。82年には打率.350を記録し、チームのリーグ優勝に貢献。同年から3年連続で最多安打に輝く。’85年の西武、’87年の阪神への移籍を経て、’91年限りで引退。実働16年で安打数は1560。’05年には東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督を務めた

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―

【松永多佳倫】

1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)、『確執と信念 スジを通した男たち』など

当記事は日刊SPA!の提供記事です。

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