東京駅に残るテロの歴史 2つの「首相遭難現場」を訪ねる


原敬首相襲撃現場となった東京駅丸の内南口

多くの人が利用するJR東京駅では、今から100年ほど前の大正末~昭和初期、時の首相が襲撃される事件が2件発生しており、うち1件はその場で亡くなる暗殺事件となりました。現在も凶行の現場となった地点には、そのことを示す標識が埋め込まれています。東京駅に残る歴史の現場を訪ねてみました。

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1914年12月、日本の中心となる駅として開業した東京駅。1945年5月の空襲被害で修復された丸の内駅舎が、創建当初の姿に復原されたのは、開業100年を前にした2012年のことです。

2012年に復原された東京駅丸の内駅舎

■ 原敬首相遭難現場(1921年)


 駅はさまざまなドラマの舞台となりますが、時の首相・原敬が刺殺されるという大事件が発生したのは、今から100年前の1921年11月4日。丸の内南口改札口付近には、事件現場を示すマーキングと、事件のあらましを記した説明板が設置されています。

原首相遭難現場の説明板
原首相遭難現場を示すマーキング

11月4日の19時過ぎ、原敬首相は翌日に京都で開催される立憲政友会の近畿大会へ出席するため、東京駅に到着しました。一旦駅長室を表敬訪問したのち、多くの見送り人に囲まれながら、原首相は改札(当時は南口が入口、北口が出口と乗客の動線が分かれていました)へと歩を進めます。

原敬首相遭難現場

その時、出札口(切符売り場)近くの柱に隠れていた男が、いきなり短刀を持って原首相に突進。右の胸を深々と刺された原首相は、その場に倒れました。

犯人は柱に隠れて機をうかがった

首相に随行していた立憲政友会幹部や駅長に助け起こされ、原首相は先ほどまで訪れていた駅長室に運び込まれました。直ちに応急処置が施されたものの、ほぼ即死状態だったといいます。

現職の首相が襲撃されるのは、1916年に大隈重信首相が馬車で移動中、爆弾を投げつけられた事件(大隈はこれに先立つ外相時代の1889年にも爆弾を投げつけられ、右足を失っています)に続くもの。大隈首相襲撃事件では爆弾が不発だったため未遂に終わっていますが、今回は暗殺という最悪の結果となってしまいました。

原首相を刺した男はその場で取り押さえられ、東京駅の説明板には書かれていませんが、取り調べの過程で大塚駅の駅員であることが判明。鉄道員が起こした大事件に、前年の1920年に発足したばかりだった鉄道省(国鉄・JRの前身)は衝撃を受けたに違いありません。

犯人の男は、事件のおよそ1か月前に起きた安田善次郎暗殺事件に影響を受けたとも、原首相に反感を抱く上司の影響を受けたともいわれ、右翼団体との関係も噂されたものの、背後関係は明らかにはなりませんでした。裁判で無期懲役となりますが、大正天皇崩御・昭和天皇即位にともなう恩赦で減刑され、1934年に出所しています。

■ 濱口雄幸首相遭難現場(1930年)


 原首相の暗殺から9年後の1930年、ふたたび東京駅で総理大臣が襲撃される事件が発生しました。襲われたのは、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた濱口雄幸です。

濱口首相遭難現場の説明板
濱口首相遭難現場を示すマーキング

1930年11月14日、中国地方で行われる陸軍演習の視察と昭和天皇の行幸への随行、および自身の国帰り(高知県出身)を兼ねて、濱口首相は東京駅から列車に乗ろうとしていました。乗車するのは、同年10月から運転が始まった午前9時発の特急「燕」神戸行きです。

特急「燕」に乗車すべくホームを移動している最中、1発の銃弾が濱口首相を襲いました。右翼団体の青年に、至近距離からハンドガン(モーゼルC96)で銃撃されたのです。

運の悪いことに、当時ホームでは反対側に停車する列車で出発する広田弘毅駐ソ連大使を見送る行事もあり、さらに濱口首相の意向もあって、ホームへの一般人の立ち入りを制限していませんでした。ホーム上はかなりの人でごった返していたため、暴漢の襲撃に気付くのが遅れたのです。

現場はホーム上でしたが、戦後の地下通路拡張と、東海道新幹線開業にともなう2回のホーム改修により、標識と説明板は階段の途中を経て、現在は地下通路に設置されています。昭和初期の駅構内図を参考にすると、階段を上って乗車する客車の方向へ歩き始めた直後くらいのタイミングだったように思われます。

現場はホーム上だが標識は地下通路に

標識の直上に当たるホーム(現在は改番されて9番線・10番線)には、当時と同じように東海道線(上野東京ライン)の列車が発着しています。

濱口首相遭難現場となったホーム

銃撃された濱口首相は駅長室に運び込まれ、駆けつけた東大病院の医師によって応急処置が施されました。やがて容体が安定したため東大病院へと搬送され、銃撃によって傷つけられた腸を摘出。およそ腸の3分の1を摘出する重傷だったといいます。

犯人はその場で取り押さえられ、取り調べで動機を「(天皇)陛下の統帥権を干犯したから」と述べたといいます。当時はデフレの最中であり、日露戦争の戦費調達で発行した国債の借換え時期も控えていたため、協調外交を旨とする濱口内閣ではロンドン海軍軍縮条約に調印し、膨れ上がる軍事費を削減しようとしました。

このロンドン軍縮条約締結は軍のあり方に影響を及ぼし、大日本帝国憲法第11条に規定された天皇の統帥権(軍隊を統率する唯一の権利)を政治の側から犯すものである、と野党からの攻撃を受けます。いわゆる「統帥権干犯問題」ですが、犯人はこれを濱口首相襲撃の動機だと語ったのでした。

野党(立憲政友会など)からの追及もあり、国会への出席を強く求められた濱口首相は、回復途上である身をおして1931年3月に衆議院・貴族院で登壇しました。しかし声は弱々しくかすれ、かつて「ライオン」と呼ばれた迫力はなく4月に再入院。これ以上総理の職は務められないと4月13日に辞任しました。

その後は傷の療養につとめたものの、たまたま保菌していた常在菌である放線菌による化膿性の疾患を発症。8月26日に61歳でこの世を去りました。

濱口首相銃撃犯は死刑判決を受けますが、1934年に明仁親王(現:上皇陛下)誕生にともなう恩赦で無期懲役に減刑、1940年に仮出所しています。出所後も右翼団体で活動を続け、1972年に死去しました。

現在は警備が厳重になっているため、総理大臣をはじめとした要人が駅で襲撃されることはありませんが、昭和初期ごろまでは血盟団事件などテロやクーデターが未遂を含め、相次いで発生する世の中でした。東京駅に残された2件の首相遭難現場を示す標識は、当時の不安定な時代を物語っています。

(取材:咲村珠樹)

当記事はおたくま経済新聞の提供記事です。

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