谷沢健一が中日の監督になれなかった理由「星野さんとの確執がどうこうって言われるけど…」

日刊SPA!

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは?あの行動の真意とは?最終回となる今回は、’70~’80年代を代表する巧打者・谷沢健一と中日ドラゴンズという球団の関係性に迫る。

◆中日一筋で現役を終え、「監督間違いなし」と期待されるも……

プロ野球という世界では、確固たる信念のもと輝かしい成績を残したとしても、球界での“未来”が約束されるわけではない。フロントとの確執、理不尽な政治の駆け引き、マスコミの印象操作……。サラリーマン社会と同様に、どんなに信念を貫いたとしても、それを煙たがる者によって道を阻まれることも往々にしてある。

プロ野球界でスジを通してきた男たちの信念を追った本連載だが、彼らへの取材から、そんな一端が見えてきたのも事実だ。連載最終回では、輝かしい成績で地元ファンからも選手からも愛され、「監督間違いなし」と言われた男のエピソードを紹介していきたい。

“ヤザワ”と聞いて真っ先に「永ちゃん」を想起するのは新人類世代(’55~’65年生まれ)。一方、“ヤザワ”と聞いて「中日の谷沢」を即座に連想するのがバブル世代(’65~’69年生まれ)だ。巻き舌で“ヤザワ”と言おうが、冠に“中日の”をつけようが、俺たちの“ヤザワ”がレジェンドであるのは間違いない。

◆スター街道を歩んできたが…

野球界の“ヤザワ”である谷沢健一は、東京六大学野球のスターとして早稲田大から’70年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。ルーキーイヤーには新人王を獲得し、’74年には5番打者としてリーグ優勝に貢献。翌々年には首位打者に輝くなど、“E.YAZAWA”に負けず劣らずのスター街道を歩んできた。

しかし、’78年に古傷のアキレス腱痛が悪化し、そこからおよそ1年半を棒に振る。しかし、元特務機関諜報員だった小山田秀雄氏が編み出したという酒マッサージにより見事復活。’80年に2度目の首位打者を獲得した。

地獄の淵から生還し、見事中日を代表するスターに返り咲いた谷沢。多くのファンは「谷沢はいつの日か中日の監督になるものだ」と勝手に決めつけていた。なのに……だ。中日のスター谷沢は、73歳になる現在も中日のコーチを務めたことすら一度もない。

なぜ谷沢健一は監督になれないのか――。谷沢への取材前、筆者は芸能リポーターのように勝手気ままに憶測を立てていた。

◆なぜ谷沢健一は監督になれないのか

谷沢と同じく中日の大スターで、延べ11シーズンも中日の監督を務めた星野仙一との確執があったからか。谷沢の出身が中日のお膝元である東海3県ではないからか。明治大学出身(星野を筆頭に中日にはこれまで明大出身選手が多く在籍)ではないからか……。そんな、愚にもつかないことを谷沢本人にぶつけた。

「星野さんとの確執がどうのこうのって言われるけど、僕からするとまったくない。ただ、シーズンが始まる前、僕が自宅に選手を集めて決起集会をやっていたんだけど、そういうのを星野さんは嫌がっていたみたいよ(笑)」

ロマンスグレーの谷沢は包み込むような優しい目でそう返す。

◆「どこか外様のような感覚というか、難しい部分があった」

谷沢と同時代に活躍した宇野勝は「同郷ということでいろいろお世話になりました。いつも穏やかで優しかったのを覚えています」と谷沢を評した。同じく中日で活躍した田尾安志は「谷沢さんは派閥をつくるとかそんなことどうでもよく、本当に穏やかで誰とでも飲みに行ける人。むしろそういうところが星野さんとしては気に食わなかったのかも」と証言した。

選手たちの言葉からもわかるように、谷沢は「派閥など我関せず」という懐の広いスタンスの持ち主だったが、星野のほうが一方的に谷沢を意識していたようだ。

「家庭の事情で名古屋の家を引き払ったときに『あいつは名古屋を裏切った』なんて言われたりもしましたね。同じ千葉出身の(鈴木)孝政とばっかり食事に行くと、星野さんにあれこれと詮索されるから誘うメンツを考えたり……。中日一筋の現役生活でしたが、どこか外様のような感覚というか……難しい部分がありますよね」

事実、星野以降の中日監督は、星野と何らかの繫がりがある者しか就任していない。

◆引退を決意した谷沢

名古屋はよく排他的な土地だと言われる。かつて中日の監督を務めたあの落合博満でさえ「名古屋に住むのは難しいよね」と公言したように、よそ者を簡単に受け付けない土壌がある。筆者は岐阜出身ということもあり、名古屋の気質はよくわかる。

そんな名古屋には、関西におけるタイガースや広島におけるカープとは違った独特な熱狂ぶりがあり、“おらが街のチーム”に貢献しない選手はケチョンケチョンに言われる。その代わり、活躍しようものなら手のひらを返すようにもてはやされる。

あらためて谷沢の成績を見ると、現役生活17年間での通算安打数は2062本、通算打率は3割2厘。中日に限った歴代打撃成績を見ても、安打数3位、打点2位、本塁打4位、打率4位とすべての打撃部門の上位を占めている。

「’86年の10月に球団に呼ばれ、『次の監督は星野さんで、谷沢くんは構想に入ってない』と言われた。そして『年俸がこれだけでいいなら残っていいよ』と。来季構想には入ってないけど、年俸次第で残っていいなんて意味がわからない。こんなあやふやに考えているんだと思って引退を決意した」

◆「監督になることだけが成功者ではない」

球団の大功労者に対して、こうした“塩対応”は本来ありえない。だが、’82年にリーグ優勝した際のメンバーのその後を調べると、田尾、平野、大島、宇野、上川、中尾、牛島、三沢と、レギュラー陣はほぼ全員放出されている。この頃の中日は、どんな選手だろうと球団、監督の意にそぐわなければすぐトレードに出されるチームだったのだ。谷沢もこう述懐する。

「水原茂監督時代の江藤慎一さんのトレード、そして慶應から入った広野(功)はルーキーイヤーから主力として活躍していたのに、3年目に西鉄へトレード。まあ、監督の思惑に沿うことが前提という球団だったからね……」

球団の功労者でさえ、フロント、そして上層部と良好な関係を築く“政治”に長けた男からの顰蹙を買うと、球団内での未来は約束されない現実。だが、「監督になることだけが成功者ではない」というのも谷沢が取材でこぼした真意だった。サラリーマン社会でも同様。大切なのは何を残してきたかだ。

谷沢が現在まで残してきた功績と一心に貫いた“信念”は不変である。彼の生きざま、そして中日という球団との関係性は、本連載をまとめた書籍で詳細に追っていく。

俺たちの“ヤザワ”は、やっぱり今でもロックな存在だった。

【谷沢健一】

’47年、千葉県生まれ。’70年の入団後、中日ドラゴンズの主軸打者として17年にわたり活躍。首位打者を2回、最多出塁を1回獲得。左投げ左打ち。ポジションは一塁手、外野手。引退後は名古屋を離れ、プロ野球解説者、評論家として活動。母校である早稲田大学の客員教授も務める

取材・文/松永多佳倫 写真/産経新聞社

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―

【松永多佳倫】

1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)など。現在、小説執筆中

当記事は日刊SPA!の提供記事です。

ランキング

ランキングをもっとよむ

注目ニュース

注目記事をもっとよむ